マルスさんとルネ その2
「ファラは、本当に志の高い子でした。介護って仕事を通じて、世の中のためになりたいって本気で言っていた。私は、そんなこと無理だって言ってしまった。世間話の一環だったんですけどね、馬鹿なこと言ってしまいました」
その声からは色濃く後悔の念が読み取れて、ルネの寂しそうな表情がとても痛々しかった。きっと何気ない会話の中で出た言葉なのだろう、本気ではなかった。しかしもう、そう言い訳することもできない。
「…慰めにはならないだろうけど、ファラはきっと気にしてないよ。志が高かったのなら、なおさら」
「…そんなこと、リオンさんに言われなくても。でも、ありがとうございます」
「それで?続きを聞かせてくれるか?」
ゆっくりと頷くと、ルネは続きを話始めた。
自ら命を絶ったファラは生前、老人のどんな理不尽な要求にも応え、根気よく粘り強く関わり続けた。家族でさえ見放したのに、赤の他人である彼女は、その老人のことを見捨てなかった。
しかし、ファラがどれだけ真心を込めて接しても、老人の態度は変わらなかった。むしろ優しくされればされるほど、老人の心は頑なに閉ざされていく一方だった。その心は救いようがなく、自らの欲望を満たすことだけしか残されていなかった。
詳しいことは判明しなかったが、介護士の間では、ある噂が立った。ルネはそれを聞いた時、ショックを受けた。ファラが酷い性的虐待を受けたという話だった。元々そういった行為を迫る前科のあった老人だ、誰一人その事実を疑わなかった。
ルネは事実を探るために、ファラの家を訪れた。片づけという名目だったが、あるものを探すための行動だった。目的は遺されているはずだと考えていた遺書だった。
「ファラが何も言わずに、何も残さず死ぬはずがない」
その一心でルネはあらゆる場所を探した。そしてとうとうそれを見つけた。遺書は何度も何度も、書いては途中で筆を折り、捨てられていた。結局、彼女は最後まで老人のことを見捨てきれなかった。
捨てられた遺書から断片的な情報を集めて、ルネはある真実にたどり着いた。それはファラがその老人の子を身ごもっていたという事実だった。到底信じられない、信じたくない事実だった。
身ごもった子に対する苦悩、自分の未来、変わらぬ老人の態度、もみ消すために握らされた金、そのどれもがファラを絶望させるのに十分な要素だった。
「彼女は最後の最後まで、自分の力が世のため人のためになると信じていました。あの老人のことも、いつかきっと分かってくれる日がくるって。でも結局、そんな日はこなかった。それどころか、強い立場と、彼女の優しい心を利用して、老人は醜い過去の虚栄心を満たしていた」
「とんでもない話だな。何故表沙汰にならなかったんだ?」
アームルートで起こった事件なのに、俺は詳細を知らない。これだけの事件だ、周知されていてもいいはずだ。
「無駄に金と権力だけはありましたから。老いて一線を退いたとはいえ、まだまだ影響力は強かった。揉め事で家名を汚されるよりも、金で解決できるなら、そっちの方がいいと思ったんでしょう」
「なるほど…。こう考えたくはないけど、もしかしたら、その老人は親族から、早く寿命が尽きてくれと願われていたかもな」
「追い詰められてから、あっさり見捨てたことを鑑みるに、リオンさんの推測は当たっていると思いますよ。生きていたら迷惑だった。そんな人だったんでしょう」
「…俺はファラのことをよく知らない。でも、もしかしたら彼女は、そんな人だったからこそ、見捨てられなかったのかな?」
俺のこの言葉に、ルネは少し驚いたように目を見開いた。そして少し考え込むと、そうかもしれないと呟いた。
「あの老人こそ、自分が救うべき人だと考えていたのかもしれませんね。ファラは夢想家だった。理想は叶えられると、努力を惜しまない子だった。…そういうところは、少しリオンさんに似ているかも」
「そう言ってくれるのはありがたいけど、俺はそんなに高尚な人間じゃないよ。ファラとは、全然違う」
「ですね、ファラに失礼でした」
「おい、コラ、早いってそれ。もうちょっとあってもいいだろうよ」
ずっと張りつめていたルネの表情が、ほんの少し和らいだ。こういう時ばかりいい気になって、そう思ったが、ここで指摘するのは野暮ってもんだ。お茶のお替りを互いのカップに注ぐと、同時に一口飲み込んだ。
それからルネは、老人の被害に遭った人の情報を集めるのと並行して、無理やり老人の担当に自分をねじ込んだ。自分を使って迷惑行為の証拠を集めるためだ。
しかし老人の問題点はセクハラにとどまらず、あらゆる迷惑行為をしつこく繰り返してきた。ルネは友人の無念を胸に、それに耐え続けた。
そうして分かったことは、迷惑行為が繰り返されていくうちに、介護士の気力がすっかり削がれてしまう、というものだった。老人は立場を利用して、あらゆる迷惑行為を行い、心を削らせて、弱ったところに付け込んだ。性的虐待に至るまでに、心身共に疲弊させることが、老人の手口だった。
それまでずっと耐え続け、ようやく老人が手を出してきた時、ルネは思わず手を上げてしまった。それまで嫌がらせに耐えてきたことが奇跡のようなものであり、遅かれ早かれ手は出ていただろう。
ギリギリの所でミスをしてしまったルネは、老人から怒涛の責めを浴びせかけられた。自分の失敗と、これまで蓄積してきたストレスで、ルネの心に沸いた感情は、怒りよりも恐怖が先に立った。それだけ老人の罵詈雑言の剣幕がすさまじかったのだ。
ルネはその状況に陥った時、いつものように、何を言われようと言い返す腹積もりであった。しかし恐怖に身がすくみ、手が震え、声が出ない。心を蝕まれる怖さを、その時初めて知った。そしてファラがどうして追い詰められたのかも、身をもって体験することになった。
ただ絶対に引くものかと、踏ん張ってとどまり続けた。意味のない強がりだったが、老人に屈するものかという意地があった。
周囲の人々が見て見ぬふりをする中、さっそうと現れた人がいた。刀を杖代わりに使う、腰と背の曲がった変なおじいさん。それがルネの、マルスに対する第一印象だった。
マルスは割って入るやいなや、鞘で老人の足を払い、すこんと転ばせた。老化で足腰の弱っていた老人は、受け身を取ることもできずに腰を強打し、骨折した。痛みに悶え苦しむ老人を転がしたまま、マルスはルネに言った。
「もう安心じゃ。心配せんでええ、これで静かになった。安心していいんじゃよ」
そう言うと、マルスは固く握りしめられたルネの拳の指を、ゆっくりとはがすように解いていった。すると全身に込められていた力が抜けていき、ルネはやっと声が出せるようになった。
「あ、ありがとうございます」
「いいんじゃよ。よう頑張った。頑張ったのう。偉い子じゃ。すまないのう、わしら老体がこんな若い子を追い詰めて。すまなかったのう」
握られた手が温かくて、ルネは自然と涙がこぼれた。ぼろぼろと、こぼれた。マルスは謝りながら、ずっと手を握りしめていた。
しかしそれも長くは続かない、怪我を負わせたことで騒ぎは大きくなり、マルスは憲兵に連れていかれた。老人の方は病院へ運ばれたが、ルネはその時、老人がとてつもなく恨みがましい目をしていることを見逃さなかった。
標的が介護士からマルスに変わった瞬間だと、直観で理解できた。ルネは手のぬくもりを逃がさぬよう、ぎゅっともう一度拳を握った。今度はやせ我慢ではなく、覚悟からの行動であった。
「流石はマルスさんだな。助けるべき時に動く。本当にかっこいい人だ」
「そうですよ。マルスおじいちゃんはかっこいいんです」
ルネは自分のことのように得意げになって言った。マルスさんとの、強固な信頼関係が感じられて、微笑ましい。
「しかし手を出したとなったら、ただじゃすまないだろ?」
「そうですね。あの老人は、マルスおじいちゃんのことを死刑にするって喚いていました。いくら権力者でも、そんなの無理に決まってます。でも、話を大事にする術には長けている。おじいちゃんが罰を受けさせられるのは時間の問題でした」
だろうなと言って相槌を打った。成り上がっていくためには、自分の功績を大きくみせて、他人の評価を落とすのが手っ取り早い。その手の政治に強くなければ、性格の悪い老人は、生き残れなかったはずだ。
「面子も潰されて、恥をかかされた。マルスさんに対する怒りは強いものだろう」
「ええ、なので私はすぐに行動を起こしました。あの老人を破滅させるために」
ルネは今まで集めてきた証拠をまとめ、被害者の説得に回った。今すぐ声を上げるべきだと、一人一人を説得しに行った。
それは始め、上手くいかなかった。性被害に遭った人が、名乗りを上げて罪を告発するには勇気がいる。加えて金で口留めされているという、罪悪感が足を引っ張った。
しかしルネは諦めなかった。友人の無念を晴らすだけではなく、正しいことをするために立ち上がったものが、悪意によって陥れられようとしている、そんなことを許していいはずがない。
「今ここで彼を見捨てたら、この先ずっとあいつに屈することになる。本当にそれでいいと思うのなら黙っていればいい。だけど、悔しい気持ちに蓋をしちゃいけない。私はあの時、そのことを知った。ファラはきっと、蓋をしたまま死んでしまったはずだ」
ルネの説得によって、一人、また一人と声を上げるものが現れた。一たび声が上がると、今度は次々に連鎖して不平不満を皆がぶちまけ始めた。交渉に必要な材料は揃った。ルネは意気揚々と、老人の親族を脅迫しに向かった。
「それからは話が早かったですよ。流石に庇いきるには被害者の声が多すぎた。老人は家から切り捨てられて、マルスおじいちゃんの代わりに牢屋に入り、そこで孤独に死にました。その後の引き取りすら拒否されて、無縁塚行きです」
「寂しい奴だな。同情はしないけど」
「それから私は、マルスおじいちゃんのお世話をすることにしました。最初は必要ないって断られたんですけどね、無理やり押しかけて居ついてやりましたよ」
「恩返しのために…、そうだろ?」
ルネはカップに残ったお茶を飲み干すと、それを俺に手渡して立ち上がった。
「ごちそうさまでした。もう話疲れたので寝ます。リオンさんも、体力全然ないんですから早く休んでください。見張りの必要もないんだから」
「飲み終わったら俺も寝るよ。おやすみ、ルネ」
マルスさんとルネの出会いの話を聞き終えた俺は、言った通りにお茶を飲み干すと、テントに戻って眠りに入った。二人のことを、またもっと知りたい。そんなことを考えながら、夜が更けていった。