怪物 その3
リオンの手によって両断された怪物の体は、形を保っていられずに溶け、黒い泥のようになって地面に広がった。弱弱しくかすかに蠢いているが、その様子は、完全に力尽きたようにも見えた。
地に降り立ったリオンは、泥のようになった怪物の様子を見ていた。当然気を抜かず、怪物がまだ生きているという前提は崩さない。
しかし怪物を両断したあの攻撃は、五百回以上は致命傷を与えるものだった。その前の戦闘を合わせても、リオンは怪物を千回以上殺していてもおかしくない攻撃を加えている。それでも怪物は殺し切れない。
泥のようになった怪物は、ゆっくりとだがまた一つに戻ろうとしている。リオンは剣を両手でしっかりと握り、頭の上まで振りかぶった。それを振り下ろすと、大地が斬り裂かれ、怪物の間に大きな亀裂が入った。
もう触手を伸ばす力もないのか、二つに分かれた泥の体は、互いを求めるように必死に伸びて亀裂を越えようとする。しかし、形を保っていられないその体が、亀裂を越えて届くはずもなく、力なくうなだれて、怪物は水のように地の底へ流れていった。
「止めを」
刺さなければならないリオンだったが、突然ふっと意識が飛びそうになり、急いで足を踏ん張って倒れないようにした。気を抜いた訳ではない、激戦の消耗が、怪物だけではなく、リオンにも襲い掛かってきていた。
「クソッ!こんな時に…」
身体的なダメージはほぼ負っていない、あの激しい戦いにおいても、外傷はないに等しかった。傷を負えばすぐに回復して、体の状態は十全に保った。だが、疲労だけは消し去ることはできない。
エリュシルの補助のおかげで、リオンは超人の身体能力を得た。限界を超えた疲労にも耐える体になっていても、今までの感覚までは抜けきらない、そのズレが、最悪のタイミングで現れてしまった。
大地が、始めは小さく揺れた。誰にも分からないくらい、小さなものだった。それから少し、足がもつれるくらい、揺れが大きくなった。その後大地の揺れは更に大きくなった。まるで地の底で、巨大な何かが這いずりまわっているかのようだ。
揺れが起きた場所は、明らかに怪物が落ちた大地の裂け目からであった。大きな揺れが唐突に収まると、今度は地の底から、ずっ、ずっ、と何かが這い上がってくるような音がした。
つま先から頭のてっぺんまで、全身くまなく凍えてしまったかのような、強烈な怖気がリオンを襲う。地の底から這いあがってくる何かの音が近づいてくるほど、総毛立った。
来る。それだけは分かる。
だが一体何が?何が来るんだ?リオンは答えのない自問をする。
答えなどあるはずもない、ただ体を凍り付かせ、総毛立たせる何かが来る。エリュシルを握る手も、剣本体も、恐れからかすかに震えていた。
裂け目の淵に、手がかかった。先ほどの怪物とは明らかに形が異なっていた。その手の形は、まるで人の手と同じ。伸びてくる腕は、あの巨人の姿とは比べるとあまりにも華奢であった。
這い上がってきた「それ」は、頭も、体も、腕も、足も、すべて人の形と同じに変化していた。更にリオンを驚愕させたのは、その姿が、自分と瓜二つであるということだった。
肌は浅黒く、髪は真っ白、相違点と言えばそれくらいのもので、他の姿かたちは、すべてリオンと同じといって過言ではなく、もう一人の自分が、目の前に現れたと思ってしまうほどそっくりであった。
「…よもや」
口を開き、声を発する。最初の内は、酷い嗄れ声で聞き取りにくかったが、徐々にそれも治り、声までも、リオンと同じ声を発するようになった。
「我がここまで追い詰められ、このような矮小な姿になるとはな」
「お前は…」
「先ほどまで戦っていた相手の顔を忘れたか?く、はははっ!いやすまない、我に顔などなかったな、言ってみたかっただけだ。ははははっ!!」
腹を抱えて笑い転げる「それ」が、やはり怪物だということが確認できたリオンは、剣を構え、その切っ先を怪物へと向けた。
「どうした?うん?おしゃべりはおしまいか?折角こうして言葉を交わせるようになったというのに、つまらん奴だ」
「俺はお前の退屈しのぎの相手じゃない」
「そうだな。世界の存亡を賭け、殺し合う間柄であった。ふむ、それならやはり、得物はこれがいいか」
怪物が両手を叩いて合わせると、左の手のひらから、にゅるりと棒状の柄のような物が飛び出してきた。それを右手で掴んでずるりと引き抜くと、怪物はケタケタと笑いながら、見覚えのある剣の切っ先をおもむろにリオンへ突き付けた。
「これが何か、分かるか?」
その見せつけるかのような動作で分かる、リオンは息をのんだ。その剣はエリュシルとまったく同じ形をしている。禍々しい漆黒の刀身から、怪しげな瘴気がしゅうしゅうと音を立てて上がっていた。
「さあ、やろうか」
怪物の作り出した紛い物のエリュシルが深紅の光を放つ、その光が怪物の体を包み込み、その両目には、深紅の炎が揺らいだ。バチバチと、全身に赤い雷が走ると、轟音を響かせ怪物の姿が消えた。
落雷よりも大きな衝撃音が響くと、その発生源から周囲に向かって、強烈な衝撃波が広がった。リオンが怪物の攻撃を受け止め、本物のエリュシルと偽エリュシルで鍔ぜり合っている。
リオンと瓜二つになった怪物は、その剣技までも同じ力量であった。技術は互角、しかし圧倒的に不利な点がリオンにあった。
「ぐぅっ!おぉッ!!」
「ふははは!!どうしたどうした!?」
膂力と重量、怪物はその二つが、リオンよりも遥かに上回っている。人間と同じサイズになっても、巨大形態時の能力は些かも衰えておらず、むしろ巨体であった時よりも、膂力は増していた。
力ずくで無理やり押し切られたリオンは吹き飛ばされ、地面に激突して転がった。すぐさま立て直そうとするが、起き上がった時、すでに眼前に怪物の姿はなく、リオンは気配だけを頼りに、真上からの攻撃に備えた。
次の瞬間、怪物の剛力から繰り出される一撃が、リオンに振り下ろされた。その一撃の威力はすさまじく、大地は砕け、リオンの体は倒れてそこにめり込んだ。
押しつぶされそうになっても、歯を食いしばってリオンは耐えた。その姿をあざ笑うように、怪物は不気味な笑みを絶やさない。その笑顔にはまるで、この殺し合いを楽しんでいるような、狂気じみた無邪気さも感じ取れた。
リオンは防御しながら魔力を集めて、それを一気に解き放ち、怪物をも巻き込む大爆発を引き起こした。その衝撃は互いの体を吹き飛ばし、宙を舞った。
自爆という荒業。かろうじて死には至らなかったものの、リオンは全身に大怪我を負う。回復魔法をかけ、流れ出る血を止めたが、剣を地面に突き立てなければ立ち上がれないほどのダメージが入った。
吹き飛ばされた怪物も同様に、無傷ではなかった。剣を握っていた両手が肩でちぎれて、右足も付け根から消し飛んでいた。しかし、地に転がされた怪物は、またしても陽気な笑い声を上げた。
ちぎれた腕と体からは、触手が伸びて絡み合い、くっついて元に戻る。消し飛んだ右足も、ずるりと体から生えて再生した。すっかり元通りの体に戻すと、怪物は跳ね起きて剣を構え直した。
リオンはこう考えていた。先ほどの戦いより、速くて一撃が重い。姿かたちは自分と同じサイズになったはずが、リオンの目には、怪物が先ほどの巨人形態よりも、遥かに大きな姿に映っていた。
「いいぞッ!!いいぞいいぞいいぞッッ!!ああ、力が漲るぞ。我はようやく完成した。この程度の相手に滅しかけられたのは業腹だが、死の恐怖が我に成長を促したッ!!我は人も魔物も、すべてを超越したのだッ!!」
高笑いを上げながら、怪物は愉悦した。そんな上機嫌な怪物に向かって、震える足で踏ん張りながら、リオンは声をかけた。
「完成だと?その程度でか?」
「…囀るな。もはや貴様は、我の敵足りえぬ」
「馬鹿が。勝負ってのは、追い詰められてからが本番なんだよ」
「ほう、その小賢しい時間稼ぎが貴様の策か?少しでも回復しておくのか?健気だな、だが無意味だ」
話しかけたことが、時間稼ぎであることを、怪物にすぐに看破された。それでもリオンは、やせ我慢と強がりを止めない。
「無意味なのは、お前の存在だろ。何故人も魔物もすべて殺す?お前が存在する先に、何の意味があるっていうんだ?」
「…意味などない。我はただすべてを壊し、殺し尽くすためだけの存在。その目的を果たすまで」
「最初見た時から殺すしかないと分かっちゃいたが、とことん救えねえ奴だな。独りぼっちになった世界で、お前は何をするんだよ」
怪物は、何をするのかと問われ、不愉快さをあらわにした。怒りに顔をゆがめ、失望のため息をつく。
「我は絶対なる死の化身。人も魔物も、我によって死滅するが定め。その先に未来などない。我はそう定められて生まれたのだ」
「誰がお前をそう生んだ?」
「人と魔物、両方の手によって」
その意外な返答に、リオンは面食らって固まった。怪物は、小賢しい時間稼ぎに付き合い、淡々と、過去を語りだした。
かつて、人と魔物が同じく生きる道を歩む世界で、それをよしとしない少数派がいた。彼らはどちらも自分たちが純粋な存在のままでいるべきだと考え、互いの存在を見下し合っていた。
自分たちの方がより優れている、それなのに、何故下等な存在と混ざり合わねばならないのか。人と魔物の融和が進むほど、その思想はどんどんと先鋭化していった。
厄介なことに、彼らは自分たちが少数派であることを自覚していた。だから自分たちの手で世界を変えることはできない。ならばどうする、すべて壊してしまえばいい。
今あるものを壊し尽くして、更地に戻す。そこから正しい世界を始めればいい。そう結論付けた彼らは、結果的に、多数派と同様に協力して研究を始めた。すべてを破壊する怪物を生み出す研究だ。
周りの人々と決定的に違っていたのは、最終的にはどちらも片方の存在を殺して消し去るつもりであったこと。手を取り合うのではなく、偶然目的に合致しただけの協力関係であり、怪物の存在は、人側と魔物側、どちらにとっても切り札として使うために、歪み切った設計を施された。
結果、生み出されたものは、人でも魔物でもない、ただ種に対する悪意と憎悪を詰め込まれ、どちらも殺し尽くし、世界を破壊し尽くすことだけしか考えられない、怪物が出来上がってしまった。
怪物は手始めに、望まれた通り、自分を生み出した人と魔物を皆殺しにした。そして、次の標的を探し求め、生み出された場所から出た。怪物は本来、魔物ではない。しかし、出てきた場所が魔物の国の一部で、姿かたちが不定形の魔物に似ていたため、魔物であると判断された。
自分が何であるかなど怪物には関係がない、それを正すものもすべて死んだ。怪物はただ、与えられた責務を果たすために動いた。人も魔物も皆殺しにし、世界を破壊する。ただそれだけのために。
「魔物だけではない。お前たち人も、滅びを生み出した一因だ。そして我はついに、人と魔物を超越した存在に進化した。すべてを滅ぼす力を得た。貴様はそれに役立ったが、もう用はない」
怪物は瞬時にリオンの前に移動すると、首を鷲掴み、とてつもない力で絞め上げた。苦悶の表情でもがき苦しむリオンに、怪物は言い放つ。
「貴様の首をこのまま捩じ切る。しかし、そのまま殺しはしない。首だけの状態で生かし、世界の破滅をその目に見せてやろう。貴様はこの世界最後の命となるのだ、光栄に思うがいい」
怪物は更に力を込めて首を絞めた。ぶちぶちと、皮膚が引きちぎれる音がする、これで終わりだと怪物が勝利の笑みを浮かべると、リオンがにやりと笑った。
刹那に閃く刃が、怪物の腕を一刀両断し、リオンは解放される。突如現れた老人が、怪物に向かって言った。
「リオン殿の仰る通りじゃ、勝負事は追い詰められてからが本番。怪物よ、覚悟召されよ。わしは勇者リオン殿の仲間、剣士マルス。いざ尋常に勝負!」
勇者の窮地に、仲間が駆け付けた。リオンはこの機を待っていた。怪物が勝利を確信し、気を緩めるこの機を。駆け付けたマルスは、反撃開始の鬨の声を上げた。