第八話 殺し合い
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とある町のとある路地裏。
透明な結界に覆われたその場所に、二人の人物がいた。
一人は、夜を思わせる髪色に灰色の瞳を宿した青年。
もう一人は、白髪に力強い橙色の瞳を宿した老人だ。
その青年――神楽零は徐に後ろへと振り返り、その老人――速風剣士郎へと視線を向ける。
そして見つめ合う二人。
西の空に沈む太陽が、最後の輝きを見せる中で、二人が放つ気配はいささか異なっていた。
速風の方は、まるで研ぎ澄まされた刀のように鋭い気配を放つのに対して、零の方は、まるで周りの風景に溶け込むように自然な気配を放っている。
そしてこの両者の気配の違いこそが、今この場における両者の格の違いを示していた。
速風の方は動かない――
――いや、動けないのだ。
勝ち筋を探るべく、あらゆる攻め方を思い描く速風であるが、その全てにおいて、彼の本能は零に斬りかかることに警鐘を鳴らしていた。
まるで少しでも動いてしまえば、その瞬間に自分の命は尽きるとでも言うかのように。
もはや速風に、零と殺し合いを楽しむ余裕などなかった。
対する零はというと、彼はその場でただ動かない。
まるで大きな風景の一部でも見るように、速風を――自分を殺した相手をただじっと眺めていた。
「…………」
そして彼は何を思ったのか?
零は唐突に、速風に向かって頭を下げた。
「ありがとうございます」
「!?」
「あなたが殺してくれたおかげで、本当の力を知ることできました。なので感謝しています」
その言葉と行動に、速風は今までとは違う意味で動けなかった。
本来ならこれ以上ないほど隙だらけだというのに、速風は驚愕のあまりその絶好の機会を一蹴してしまっていた。
そんな速風のことなど他所に、零はさらに言葉を続ける。
「ですが、あなたが一度、俺を殺したことには変わらない。そしてあなたは、次も俺を殺しに来るのでしょう」
それはただの事実確認。
零にとっては、自分の力のすべてを気づかせてくれた一人の老人に対しての、せめてもの義理だ。
これから始まるであろう必然の、必然足らしめる道理を説く。
「なら俺も、それ相応に応えなければならない…………なので……」
零はそこで一旦言葉を区切る。
そこから先を口にしてしまえば、もう後には戻れなくなってしまうから。
それがわかっているからこそ、零はそこで一旦、覚悟決めるための間を取ったのだ。
世界のほとんどをどうでもいいと思っている人間であっても、それでも彼は人間だった。
生物の本能が忌避する選択を、彼は自らの意志と覚悟持って決断する。
覚悟が決まったのなら、後はそれをただ遂行するのみ。
先を憂いて、迷う必要などない。
昔からそうしてきたように、やるべきことを、ただ愚直に最後までやり続ける。
自分の身でできることなんて、その程度でしかないと彼は知っているのだから。
「俺はあなたを殺します」
その言葉の直後、速風は一瞬だけ、零の姿を見失った。
王国において、速さでは右に出る者がいないとされる彼が、零の存在を目で追うことができなかったのだ。
「ッ!」
それは、速風の咄嗟の判断だった。
斬るべきものがまだ視界に入っていない状態で、彼は今まで溜めていた刀を前に向かって抜き放つ。
だが案の定と言うべきか、再び速風の視界に入った零は、体を横に倒すことで速風の斬撃を回避していた。
さらに脚を速風に突き出すことで、零は彼を蹴り飛ばす。
「グッ!」
腹の痛みをこらえ、何棟もの建物の壁を突き破りながらも、速風はなんとか受け身を取って、衝撃を受け流す。
魔力によって個人の身体能力が桁違いに高まるこの世界において、ただの壁にぶつかった程度で速風の骨が折れることはない。
だが、零が速風に与えた蹴りの攻撃は、彼にとってもそれなりに堪えるものだった。
もしも刀を振るって零の体勢を崩していなければ、すでに決着はついていたかもしれない。
速風は、結城の結界の一歩手前で踏みとどまり、迷うことなく追撃に備えて、その場から飛び退く。
だがその直後、速風の眼前に、《未来視》によって行動を予知していた零が現れる。
零の拳が振るわれるが、今度はしっかりと見えていた速風は、零の拳に合わせて刀を振るう。
対して零は咄嗟に、刀の側面に触れながら、うまく斬撃の軌道を逸らす。
零はいったん距離を取るために後ろへと下がる。
速風もまた後ろへと下がり、決して腹の痛みを悟られないように零のことを睨む。
この短い戦闘の間に、速風は既に察した。
この目の前にいる存在が、自分と同じ次元に立っているということを。
速風の魔法は《自己加速》。
自身の反応速度と瞬発力を爆発的に高めるというシンプルなものだ。
だが速風の人生の中で、この魔法と真面にやり合えた者はそう多くはない。
その理由は簡単で、誰も彼の速さについて来られなかったからだ。
気づいたときには、首筋に刀が添えられている。
彼と対峙したものは、ほとんどが同じような末路を辿っていた。
『貴様は確かに強い。だが、それは同じ土俵に立てればの話だ!』
まさにこの前の戦いで、裏組織の長が零に告げていたことそのままだ。
速さにおいて同じ土俵に立てなければ、少なくとも対人戦では話にならない。
だが零は、そんな速風と同じ速さの次元に立てている。
その理由は、彼が死んだことによって自覚した、本来の魔法にある。
《時空操作》。
それが零の持つ本来の魔法だ。
自分と自分の周囲の時空を把握して操作する。
先の時間を把握すれば《未来視》となり、空間を把握すれば《空間把握》となり、時空を歪めれば《重力操作》となる。そして時間を巻き戻せば死からも蘇り、自分の時間を加速すれば、速風と同じ速さの次元に立つこともできる。
「…………」
「…………」
すでに両者に、速さによるアドバンテージはなく、ここから始まるのは、純粋な武術による技の応酬だ。
既に音すらも置き去りにされた高速世界の中で、零は格闘術を、速風は剣術を駆使して、それぞれが魔法に頼らず培ってきた技を繰り出していく。
その練度はまさに互角。
零は得物を持っていないことなど感じさせない立ち回りを見せ、速風は未だに魔法の余裕を残している零に対して、刀一本で渡り合っている。
そのことに速風は、安堵するのではなく、逆に違和感を覚える。
どうして自分は、目の前の存在と渡り合えているのかと。
速さという絶対的な優位が失われた今、二級魔戦士である自分が、一級魔戦士の彼と渡り合っているのは不自然ではないかと。
その違和感は、ある意味で正しい。
本来、零が自分の力を万全に使いこなすことができていれば、それこそ最初の一撃だけで決着していた。
この世界における戦闘力の一階級の差はそれほどまでに大きいのだ。
ではなぜ今は戦力が拮抗しているのか。
それは単純に、零が魔法を使いながらの戦闘に慣れていないからだ。
零にとって魔法とは、今日初めてこの世界に来て手に入れた、新しいもう一つの体と言ってもいい。
使い方は徐々にわかってきても、元の体と同じほど使いこなせるかと聞かれれば、またそれは別の問題なのだ。
しかも、二つの体を同時に動かせと言われれば尚更だ。
いくら体の動きを最適化するのが得意な零であっても、すぐにそれに順応するのは不可能だった。
だがそれは、すぐに順応するのが不可能なだけであり、順応することそのものが不可能だという意味ではない。
その結果は次第に、現実となって表れ始める。
徐々に零の動きが速くなり、重力によって拳も重くなっていく。
次第に純粋な体の動きではありえない、慣性や重心を無視したような動きまでも零は取り始め、速風は防戦一方となっていく。
そして決定的な瞬間が訪れる。
速風の剣を躱した零は、最初に攻撃を加えた箇所にもう一度打撃を打ち込んだのだ。
「グッ!」
速風は呻き声を上げて、一瞬だけ隙を晒す。
そして零にとってはその一瞬だけで十分過ぎる。
零はこの戦闘の中で一番、速風の懐へと飛び込み、その腹に今日一番の攻撃を打ち込んだ。
その直後、速風は文字通りに吹き飛んだ。
建物を破壊し、これまで戦いの余波を防ぎ続けた結城の結界までをも破壊して、速風は行きついた先で倒れ伏した。
「!」
突然の出来事に、結界の外で待機していた結城と騎士たちは、何が起こったのかわからず困惑する。
だが結城は、自分の結界が破られたという事実だけは確かに認識し、再び結界を張り直そうとしたが…………その決断は、零にとっては遅すぎた。
「お前だな」
突然目の前に現れて、声を掛けられた結城は、咄嗟に張り直そうとした結界を自分の周りに変更して展開しようとしたが、一歩だけ遅かった。
それよりも速く、零の放った蹴りは結城を捉えて吹き飛ばした。
「団長!」
「貴様!」
傍にいた騎士たちは、突然の零の攻撃に対して、刀を抜いて応戦しようと構えを取る。
「…………」
だが速風や結城ですら相手にならなかった存在を、それより劣る彼らがどうにかできるはずもなく、彼らは零の《重力操作》によって吹き飛ばされた。
「ふぅ……さて」
一通り片付いたところで、零は速風が吹き飛んだ先へと向かう。
周りでは突然の爆音によって錯乱した人々の悲鳴が響き、零は若干の孤独と罪悪感を味わいながら、それでも歩みを止めることなく速風の前に立つ。
「驚いたなぁ。まさかまだ息があるなんて」
零は、既に息も絶え絶えとなり、それでも意識を保っている速風に驚愕して、賞賛する。
最後の一撃を受けた時に、後ろに飛んで少しでも威力を殺していなければ、今頃は意識も保つことなく死んでいただろう。
「まぁでもそのおかげで、最後にお礼を言えるのかねぇ」
「…………」
「今回は本当にありがとうございました。あなたのお陰で、この力をここまで最適化することできました。なので感謝しています」
零の言葉は、決して嫌味などではない。
紛れもなく、零の本心からの感謝の言葉だった。
殺し合いをしたとは言え、それでも零は、その中で自分に宿った魔法を遥か高みへと昇華させることができていた。
その相手となってくれた速風に対して、零はこの上なく感謝していたのだ。
「とはいえ、殺し合いは殺し合い。最後は一思いに逝かせてあげます」
それがせめてもの感謝の証だとでも言うように、零は拳を握って速風へと近づく。
そうして二人の距離が二、三メートルにまで近づいたところで、突如零の《空間把握》に、速風ではない高速で近づいてくる存在を捉えた。
「!」
速風が倒れたことで《時間加速》を切っていた零は、突如現れた存在によって、その加速を再開させる。
速風からも一旦距離を取り、後ろへと下がる。
高速で近づいてきたその存在は、零と速風の間に入り、その小柄な体を目一杯広げて、まるで速風を守るように立ち塞がる。
「待つのじゃ!」
その存在――一人の少女の姿を見て、零はその予想外の正体に些か動揺する。
日が完全に沈み、僅かな月明かりによって照らされたそこに立っていたのは、一つの覚悟を持ってやってきた、天眼美咲という名の小さな少女だった。
明日も今日と同じように投稿していく予定です。