第八話 先生
◇◆
律器たちの担任――乙坂万理は“先生”だ。
彼女にとって“先生”とは、特別な意味を持っている。
彼女にとって“先生”とは、生徒を教え導き、どんなことがあっても生徒の味方となり、生徒に寄り添って守る存在。
それこそが、彼女が思い描く“先生”であり、彼女が理想とする姿だった。
だからこそ、彼女は常に自分が“先生”であろうとあり続けた。
生徒が悪いことをしたのなら、しっかりと注意をし、問題を起こしたのなら、しっかりと事情を聴いて、場合によっては生徒の味方となり、最後まで一緒になって問題を解決する。
そんな“先生”として過ごしていく内に、いつしか学校では「まりちゃん」という愛称で慕われるようになり、ついには初めての担任を持つことになった。
初めて自分のクラスを持ってから二年と少しが経ったその日、いつものように最後の授業に向かおうと職員室を出たその時――
万理とその学校の生徒たちは、突然異世界へと飛ばされた。
△▼
最初彼女は、自分たちに何が起きたのか理解できなかった。
当然だ。
いきなり異世界に転移してきたというのに、すぐに状況を理解しろという方が無理な話だ。
だがそれでも、生徒たちの日頃の話題を理解するために見始めたアニメの知識を総動員して、何とか状況を理解することが出来た。
そして少しだけ落ち着いて来たところで、他の状況も確認しようとしたその時――
「…………え?」
突然目の前で起きた出来事に、万理は今度こそ、何が起きたのか理解できなかった。
何故なら――目の前にいた生徒たちが全員、ピクリとも動かない氷像へと姿を変えていたのだから。
さっきまで普通にそこにいたはずの生徒たちは、まるで時間が止まってしまったかのように動かなくなり、全身に霜を落としながら、生きているとは思えないような冷気を漂わせている。
万理が何もわからずに、ただ呆然としていると、不意に氷像の一体が、何の前触れもなく倒れた。
そして床にぶつかって砕けたその光景を見て、万理はそこで初めて理解した。
――たった今、自分の目の前で、何人もの生徒たちが死んだのだと。
「ッ!」
その現実に気づいた瞬間、万理の中で今まで感じたことのないような恐怖が込み上げて来る。
それと同時に、まるで獅子に睨まれているかのような視線を、万理は本能的に感じ取る。
そしてその視線の勘は、紛れもなく正しかった。
「ほぉ。中にはいるな」
頭上から聞こえてきたその声に、万理は迷うことなく顔を上げる。
本人は何故だかはわからなかったが、その声は間違いなく、自分に向けられているのだということだけは、はっきりとわかった。
そして万理が見たのは、自分を見つめている天真の……化け物の姿だった。
見た目は普通の人にしか見えないはずなのに、万理には何故か、天真のことがこれ以上ないほど恐ろしい化け物に見えていた。
座り込んだ床が濡れていることにも気がつかず、それから万理は、ただ流されるがままに、〈帰らずの森〉へと続く空間の門を潜っていった。
△▼
〈帰らずの森〉に連れて来られた直後、万理はほとんど空門の説明を聞いてはいなかった。
初めて人が目の前で死ぬ様を見せられて、天真のような絶対強者に獰猛な視線を向けられたのだから、すぐにその恐怖から立ち直れと言う方が無理な話だった。
だがそんな万理を、心の闇から救い出したのは、他でもない天王寺晴輝の演説だった。
彼の言葉を聞いて、万理は改めて自分が“先生”だということを思い出したのだ。
生徒を守り、導くはずの“先生”が、逆に生徒に鼓舞されてしまったのだから、万理としては、ここで立ち直らないわけにはいかなかった。
「教師失格です」なんて思いながら、彼の言う通り、これ以上誰も欠けることなく、生徒たちと一緒にこの苦難を乗り切ろうと、晴輝や先生たちが集まっている所に行こうとして――
轟――
再び万理の目の前に、“死”という名の悪夢が降りかかった。
「……え?」
万理はまたも、自分の目の前で何が起きたのか理解できなかった。
目の前には彼女が見たことのないような巨体を持った重腕猿が一匹。
そしてその腕の下には、さっきまで人間だったはずの赤い何かが敷かれている。
目の前にはもう、晴輝や他の先生たちの姿はなく、それがわかれば、万理が現状を理解するには十分だった。
「…………」
「ヒッ!」
他の場所からも轟音が響く中で、万理は重腕猿に睨まれて、短い悲鳴を上げる。
だが重腕猿は、そんな万理のことなんて気にした様子もなく、ただ獲物を仕留めるために、万理へと近づいて行く。
「い、いや……来ないで……」
脚が竦んで立ち上がることすらもできずに、万理はただ、少しでも離れようと後退るが、地を這う万理よりも、地を歩く重腕猿の方が、追いつくのには速かった。
重腕猿は万理の前へと立ち、獲物を仕留めるためにその腕を高く振り上げる。
そして――
「来ないで!」
振り下ろされた腕は、まるで見えない壁に阻まれたかのように、万理に届く前に弾かれた。
「ゴホッ!」
「…………え?」
そんな摩訶不思議な現象に、当事者の双方は共に困惑する。
重腕猿の方は、全力ではなかったとはいえ、自らの攻撃が防がれたが故に。
万理の方は、単純に今の現象が理解できなかったことと、何よりその現象を生み出したのが、他でもない万理自身だという手応えがあったから。
だが重腕猿にしてみれば、一瞬だけ困惑したものの、今度は全力で仕留めればいいだけのことでしかない。
だからこそ、重腕猿は再びその腕を万理へと振り上げる。
万理の方は、逆に困惑したのが功を奏したのか、僅かにではあるが、冷静さを取り戻していた。
そして万理の耳には、周りで逃げ惑う人々の――生徒たちの悲鳴が響いていた。
「キャー!」
「に、逃げろー!」
「死にたくない! 死にたくない!」
「おい! 誰か助けてくれー!」
「……誰か、助けて……」
まさに狂瀾怒濤の地獄絵図。
そんな生徒たちの悲鳴が万理の頭の中に入っていくにつれて、万理は次第に、不思議と冷静さを取り戻していく。
まるで景色が止まっていくかのように、万理の頭は高速に回り始め、自分の中で自問自答を繰り返す。
助けを求めているのは、誰?
――万理の学校の生徒たち。
生徒たちは今、どうなっているの?
――モンスターに襲われている。
生徒って、何?
――“先生”が教え、導く存在。
“先生”って、何?
――生徒のことを、何があっても守る存在。
“先生”は、どこにいるの?
――“先生”は……ここにいる!
乙坂万理は、何?
――彼女は……
「私は……“先生”です!」
乙坂万理は“先生”だ。
そのことに気づいた彼女には、もう恐怖も、怯えも、迷いすらもなかった。
そして万理の覚悟に応えるように、彼女の魔法もまた、無知の呪縛から解き放たれる。
頭に流れ込んできた魔法を使って、万理はその腕を一閃する。
そこから放たれたのは、不可視の風の刃。
その刃は狙い違わず、腕を振り合上げていた重腕猿の胸元を斬り裂いた。
「ゴオオオォォォォ!」
その痛みに、重腕猿は振り上げていた手を胸元に戻して当てながら、一歩二歩と後退る。
そんな重腕猿に、万理は自分の決意を胸に宣言する。
「私が! 生徒たちを守ります!」
それこそが、乙坂万理を“先生”足らしめている信念そのもの。
彼女が“先生”である限り、彼女に守るべき生徒がいる限り、彼女はどんな敵が立ち塞がろうと戦える。
万理はいつの間にか手にしていた杖を――魔法使いの杖を差し向けながら、手負いの重腕猿を睨む。
「このまま引いてくれるというのなら、私もこれ以上は追いません。ですが、まだ私の生徒たちに手を出すと言うのなら、私も容赦はしません」
勿論、重腕猿は万理の話す人間の言葉を理解しているわけではない。
だがそれでも、万理がもう自分の手には負えない存在であることと、そんな相手に見逃してもらっていることは本能的に理解した。
だからこそ、重腕猿が取った行動は……
「ゴオオオォォォォ!」
「…………」
他の仲間に撤退の合図を出し、大人しくその場から立ち去ることだった。
木を伝って見えなくなった重腕猿を一瞥して、万理は持っていた杖を下ろし、さっきまで生徒たちがいた後ろの方へと振り返る。
そして、万理がその目で見たものは……
「ッ!」
思わず込み上げて来た吐き気に、万理は我慢できずにそれらを吐き出す。
万理の前に広がっていたのは、文字通りの意味での血の海だった。
生きている者は誰もおらず、重腕猿によって潰された人たちの――生徒たちの血肉が地面を赤く染め上げている。
そんな光景を前にして、万理が守れなかった生徒たちに対して、何の罪悪感を抱かないはずはなかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……守ってあげられなくて、ごめんなさい……」
万理の口から出てくるのは、ただ許しを請う謝罪の言葉だけ。
何があっても生徒たちを守る“先生”であり続けた万理にとって、目の前の惨状は到底許されるものではなかった。
だがそれでも、まだ万理には、やらなければならないことがある。
「逃げたみんなを、探さなきゃ……」
まだ生き残っている生徒たちがいるのなら、彼らを守ることが、今の万理がすべきこと。
そこを履き違えてしまうほど、“先生”の心はまだ折れてはいなかった。
「でも、どうやって……」
そう言って、万理は森の外に広がる青い空を眺める。
そうして彼女はふと思う。
「もしも空を飛ぶことが出来れば、空から生徒たちを探すことが出来るのに」と。
そして彼女は、それを可能にする魔法の道具に心当たりがあった。
「箒……」
万理はふと、手に持っている魔法の杖へと目を落とす。
それはさっきの戦闘で、万理が自分の魔法で作り出したもの。
もしもその魔法で、魔法の箒を作り出すことが出来れば、万理でも空が飛べるのではないだろうか?
小さい頃に憧れた、絵本に出てくる魔法使いのように……
そして彼女は想像する。
昔絵本で何度も見た、空を飛ぶ魔法の箒を。
万理の想像に従い、魔力が実体化していき、気づけば万理の手の中に、一本の箒が握られていた。
「……出来た」
その箒は、見た目何てことない箒だが、作り出した万理自身が握れば、その意味は大きく変化する。
早速作り出した箒に跨り、万理は自分が空を飛ぶ姿を想像する。
すると箒はふわっと浮き上がり、万理を乗せて空高くへと舞い上がる。
「……すごい」
森の木々から顔を出した万理は、どこまでも続く森の景色に感嘆の声を漏らす。
そしてそんな森の中でも、一際異彩を放つ塔もまた、万理の目にはしっかりと見えていた。
「…………」
しばらくの間、全ての元凶たる塔を睨むが、すぐに現状を思い出して、万理は生き残った生徒たちがいないかと探し始める。
だが我が物顔で空を飛ぶ万理に、森に棲む空の支配者たちは、それぞれが彼女へと攻撃を開始する。
「え!? ちょっ! うわっ!?」
そしてその最中、万理は浮遊の魔法を途切らせて、真っ逆さまに森へと落ちていく。
だが地面に衝突する寸前で何とか立て直して、万理は尻餅をつきながら地面へと着地する。
「痛たたたぁ……」
それから万理は、余り高度を上げずに低空飛行のまま、生き残った生徒たちがいないかと探し始める。
たまに出て来る魔獣たちを避けながら、夕方近くまで探し回るが、未だに生徒たちの姿は見当たらない。
もう誰も、生き残っている生徒はいないのかと心が折れそうになったその時――
「! あれは?」
万理は森の中で、不自然に盛り上がった土のかまくらを見つけ出す。
明らかに自然のものではないそれに、万理は箒を下りて近づいて行く。
僅かな希望を胸に抱いて、万理はそのかまくらに声を掛ける。
「……あ、あの! えーっと、その……ご、ごめん下さい! 誰かいませんか! いたら返事をして下さい!」
そう声を掛けた数秒後、万理の目の前の壁が崩れ、中から万理の見覚えのある生徒二人の顔が姿を現す。
「先生?……」
「影林君、綾瀬さんも……」
万理はそんな二人の無事な様子を見て、今まで張っていた緊張が雪解けのように溶けていく。
そして溶けた水は、まるで洪水のように瞳を濡らしていって……
「! 先生!」
思わず流れ出た涙はもう止まらず、生徒が心配しているのにも構わず、万理はその場で崩れて座り込む。
「……良かった」
「「…………」」
「……生きててくれて……本当に、良かった…………」
まだ守るべき生徒が残ってくれていたことに、万理は心の底から安堵し、守れた生徒がいたことに、万理は少しだけ救われたのだった。




