第十七話 お姉ちゃん
□■椿
逃げた奴らを追って零の姿が消えた後、椿は近くで寝かせられていた獣人たちの近くへと駆け寄る。
本来なら零の魔法で彼らを外へ運び出してもらう予定だったのだけど、何となくついさっきまで目の前にいた奴らを、ここでは逃がしちゃいけないような気がした。
特に真ん中にいた女。
彼女からは特に危険な気配を感じた。
彼女を見てからずっと、尻尾の毛並みが峙ったままだし、何より彼女の底が見える気がしなかった。
だから「今なら追える」と言った零の背中を押して、追ってもらった。
ある意味師匠でもある零のことだから、心配はしていないけど、問題は零が帰って来るまでここで寝かされている獣人たちを、椿一人で守り切れるかどうかだ。
だけどきっとやり遂げてみせる。
そのために椿は、強くなるための力を手に入れたのだから。
まずは彼らの状態を確認しようとその肌に触れて――
「え?」
――その冷たさに思わず手を引っ込める。
触れた肌は、岩肌のように冷たく、そこに生き物としての温かさがあるようには感じられなかった。
「なんで!?」
よく見れば、薄暗くてわかりづらくなっているけど、肌の色がほんのりと青白くなっているように見える。
まるで、本当にもう死んでしまっているかのように……
隣で寝かされていたもう一人の獣人に触れてみても、伝わってくる手の感触は全く同じ。
不意に椿の中で、「手遅れ」という単語が頭を過る。
「そん、な……! 翔!」
震える唇で、椿は弟の名を叫ぶ。
辺りを見渡せば、意外とすぐに弟の姿は見つかった。
だけど近くに行ってその顔に触れてみても、感じるのはただ、ヒンヤリとして冷たさだけだった。
「翔! 起きて! 起きなさい!」
揺さぶってみても、翔は一向に目を覚ます様子はない。
冷静なところではわかっていても、受け入れることなんてできるわけがない。
椿はただ叫ぶように、翔に声を掛け続ける。
「お姉ちゃんが助けに来たよ! もう心配しなくて大丈夫だから!……だから……目を覚まして! 目を開けなさい!」
服の襟を掴んでいた手から徐々に力が抜けていく。
認めたくない現実が、否応なく椿の中に突き刺さって、気づけば自分の手が小刻みに震えている。
「いや……いやだよ……こんな、こんなのって…………」
認められない。
認めたくない。
だけど現実は、椿の意志なんて関係ないように、容赦なくそれを突き付けてくる。
もう何もかも吐き出してしまいたくなって、声を上げようとしたその時――
『椿さん?』
「!」
とても落ち着ける声が、椿の頭の中に響いた。
「……進?」
その柔らかな声の主の名前を呟けば、すぐにその応えが帰って来る。
『はい、私です。そちらで何かありましたか。何やらあなたの叫び声が聞こえたような気がしまして……』
「…………」
なんでそんなことがわかったのか?
どうして今も進の声が聞こえているのか?
いろいろと訳がわからないけど、なんとなく彼の言葉で落ち着きを取り戻せたような気がした。
「ねぇ、進。私――」
『お姉ちゃん?』
その時、また別の人の声が頭の中に響く。
同時に、椿の意識が何もない白い空間へと吸い寄せられる。
「!?」
その直後、何もなかった空間に、一人の人影が姿を現す。
忘れるはずもない。
自分と同じ赤髪、赤毛の尻尾を持ち、自分のことをお姉ちゃんと呼ぶ人なんて、椿は一人しか知らない。
『……翔?』
たった一人の弟の名を呟けば、少年はパッと明るい笑顔を浮かべる。
『あ! やっぱりお姉ちゃんだ!』
『翔!? どうして? ここは?』
さっきまで死んでいたはずの弟が、何故か目の前で変わらぬ姿で立っている。
わからないことが起こり過ぎていて、頭が状況について行けない。
『僕にもよくわかんない。だけどこうしたらお姉ちゃんと話せるような気がしたんだ』
『…………』
『僕、お姉ちゃんに謝らなきゃいけないことがあるんだ……』
『謝る?』
こんな状況で、いったい何のことだろうと、椿は首を傾げる。
『うん。お姉ちゃんが大事にしていた簪、あれ、僕が壊しちゃったんだ』
簪という言葉で、思い当たるのは一つしかない。
それは盗賊団が村に攻め込んできたあの日。
畑から帰って来た時に無くなっていた簪のことだ。
翔のことだから、多分何かの拍子に壊しちゃって、取り敢えずバレないようにどこかに隠していたのかもしれない。
『本当は直してから謝りたかったんだけど、上手くできなくて……だから、ごめんなさい』
確かにあれは、椿のお気に入りの簪だった。
昔、行商人が村にやってきた時、お父さんに無理を言って買ってもらった大切なものだ。
それは翔にもわかっていたからこそ、中々言い出せずに隠したのだろうということが容易に想像できる。
『ううん。いいよそんなの。そんなことよりも、早く一緒に帰ろう』
言い方は悪いけど、簪のことなんかよりも今は翔が生きていてくれたことの方が何よりも嬉しい。
早くこんなところから出て、一緒に元の生活に帰ろうって……そう思っていたのに、何故か翔は首を横に振ってそれを拒絶する。
『僕はもう一緒には帰れない。それだけはわかるんだ』
一瞬何を言われたのかわからずに、一気に翔の存在が遠のいてしまったように感じる。
『……何、言ってるの?……今だって私と――』
「話しているじゃない」と言おうとして、またしても翔は首を横に振って否定する。
『これは僕だけど、僕自身じゃないんだ。僕にもよくわかんないけど……多分、もうすぐで消えちゃうと思う』
翔がそう言った直後、彼の体から色が無くなり始め、少しずつ透明になっていく。
『!』
『……ほらね。だから……もうすぐでお別れ』
さもそれが当たり前のように翔は言っているけど、ここまで来て、そう簡単に受け入れられるはずがない。
椿は崩れるように足下に膝をつく。
『駄目……駄目だよ! そんなの!……』
椿が叫んでも、翔が消えていくのが止まることはない。
もう本当にこれでお別れ。
そう否応なく突きつけられたような気がした。
『最後に、お姉ちゃんに謝れてよかった。ずっと気になっていたから』
『……そんなの……』
寧ろ謝らなければいけないのは椿の方だ。
罪悪感でいっぱいな胸を押さえて、椿は視界を滲ませながら唇を動かす。
『私の方こそ、ごめんなさい……守ってあげられなくて……助けに行けなくて……ごめんなさい……』
どれだけ謝っても足りることなんて一生ないだろう。
手をついて下を向いていた椿の肩に、何かが置かれた感触がして、椿は顔を上げて前を見る。
すると目の前には、椿の肩に手を置いた翔の顔がすぐ近くにあった。
『お姉ちゃんは悪くないよ。今だってこうして、僕を助けに来てくれたんでしょ』
『……でも、間に合わなかった……いくら強くなっても……間に合わなかったら……意味なんてない』
強くなる以前に、椿では翔を救えなかった。
どれだけ強くなろうとも、守ることができなかった時点で、その強さにいったい何の意味があるというのだろうか?
『……じゃあ今度は、僕がお姉ちゃんを守るよ』
『え?』
そんな無邪気な翔の声に、椿はもう一度彼の目を見る。
『もしもまた、お姉ちゃんの弟になれたら、今度は僕がお姉ちゃんを守るよ。お父さんも、お母さんも、みんな、守れるくらい強くなってみせるよ。だからさ、もう心配しなくても大丈夫だよ。お姉ちゃんは僕が守るから』
そう言って、翔は全身で椿のことを抱きしめる。
頭の後ろに手を回して、優しく椿の髪を撫でてくれる。
多分、彼なりに気を使っているのかもしれない。
これではどっちが年長なのかわからなくなってしまう。
『バカ……弟を守るのは、お姉ちゃんの役目なんだから……』
ここまで弟にされてしまっては、最後くらい恰好付けなければ、姉としての示しがつかないというものだ
『次はちゃんと、守れるようになるから。もっともっと強くなってみせるから』
涙を何とか堪えて言葉を紡げば、翔は最後に笑いながら溶けるように消えていった。
『……椿さん?』
自分を呼ぶ声に振り返れば、何故か白い空間の中に、進の姿があった。
『……進……聞いてたの?』
『はい……あれが、椿さんの弟さんだったのですね』
進はさっきまで翔がいたところを見つめながら呟く。
『ねぇ、進』
『?』
『私が強くなったことに、意味はあったのかな?』
『……私から見れば、あなたが強くなったことに意味はあったと思いますよ。あなたが強くなったことで、救われた人は確かにいますし、私もそのうちの一人だと思っています。ですがそれでも、あなた自身がそれを無意味だったと思うのなら、これからはそれを、あなた自身が意味あるものにすればいいと思います。あなたが強くなったことには意味があったのだと、これからあなた自身が証明していけばいいでしょう。きっとあなたの弟さんも、それを望んでいると思いますよ』
『…………』
気づけば白い空間は消えてなくなり、元の洞窟へと戻って来ていた。
進の姿も消えてなくなり、あるのはただ、冷たくなってしまった獣人たちの遺体だけだった。
生きている者は誰もおらず、側で眠っている翔にさえも、もう取り繕う必要なんてない。
だからもう、涙を止めておくことなんてできなかった。
◇◆
それから白銀と速風がその場に到着したのは、椿が目を真っ赤に腫れさせた後のことだった。




