第十四話 逃げ出した過去
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まだ彼が、豪鬼と名乗る前のこと。
彼は王国の北、隣国である帝国との国境近くにある町の騎士団長を務めていた。
領地はそこまで広いというわけではなかったが、土地は豊かで、何より平和だった。
町には笑顔や賑わいが溢れ、そんな町を自分たちが守っているのだという事実が、彼は何よりも誇らしかった。
日々領内の村々を回り、危険な魔獣を間引き、町の治安維持にも努める。
そんな日常がこれからもずっと続いて行くものだと、彼は思っていた。
だが現実は、それを許さなかった。
あの日、帝国が王国に向かって侵攻を開始したのだ。
それによって、彼を取り巻く全てのことが変わった。
――いや、壊されたというべきだろう。
帝国の侵攻に対して、当然騎士団にも召集が掛けられることになった。
宣戦布告もほとんど意味がないような一方的な侵攻に際し、町の住人の避難も間に合わず、騎士団は他領とも連携して帝国軍を迎え撃つことになった。
彼もまた、友が打ってくれた最高の魔剣【炎桜】を手にして戦場へと向かった。
万全とは言い難い迎撃体制を築き、いざ帝国軍を迎え撃とうとして…………
一瞬にして、前にいた全ての味方が氷づいた。
その時の動揺を、彼は今でも忘れたことなどないだろう。
戦場になるはずだった平原は一瞬で氷原へと変わり、さっきまで人間だったそれは、もはや動くことのない氷像へと姿を変えていた。
そんな天変地異をなした存在を、彼はその目を以って見ていた。
灰色の髪に、氷のように透き通った水色の瞳。
動きやすい軽装であるはずなのに、一目見ただけでわかる贅沢な装備を身に纏い、手には灰色の刀身を持った剣が握られている。
そしてそこから発する殺気は、これまで感じたことがないほどに濃密だった。
彼や他の騎士たちは、その殺気に晒されながらも何とか意識を保つことができていた。
それはひとえに、彼らの後ろには守るべき民がいて、その民を守るのは自分たちであるという誇りがあったからに他ならない。
そしてほんの少しだけ、騎士団の中には彼に対する期待が確かにあった。
どれだけ強かろうと相手が急所を持った人間であれば、彼なら倒してくれると信じていたのだ。
彼の魔法――《跳躍奪取》は、離れたものを手元まで引き寄せることができるという、たったそれだけの魔法だ。
一撃で多くの敵を葬ることができるわけでも、驚異の身体能力を得られるわけでもない。
ただ遠くにあるものを見つけて、空間を跳躍して持ってくるだけ。
二級という魔力量を持ちながら、齎される効果はこの上なく地味だと言わざるを得ない。
だが一つだけ、この魔法には大きな利点があった。
たったそれだけのことに二級の力を注ぎこんだが故に、彼の魔法は対象の魔力による抵抗を受けづらかったのだ。
魔法というものは、基本的に効果を及ぼす対象から少なからず抵抗を受けるものだ。
そしてその抵抗は、対象の魔力量が多いほどに大きくなる。
その筆頭が生物であり、一部例外はあるものの、その法則が崩れることはまず有り得ない。
そのためある程度の実力差がなければ、他者の人体に直接魔法の効果を及ぼすことは難しいのだ。
だが彼の魔法は、簡単にそれを成し遂げることができてしまう。
単純な効果に力が集中していることで、ある程度格上の相手であっても、彼は相手の臓器を抉り取ることができるのだ。
その力を使って、彼は強力な魔獣の討伐の際に活躍し、騎士団長という地位にまで上り詰めた。
その背中を当然、後ろに続く他の騎士たちも見ていた。
勝てるわけがないと思っていた魔獣が、彼の前に出た途端にまるでプツリと糸が切れたように倒れ、豪鬼の手には赤い何かが握られている。
それが魔獣を、彼が倒したということを示し、彼は次第に“心臓潰し”という二つ名で呼ばれるようになった。
だからこそ戦場で共に戦う騎士たちは、彼のその力を信じていた。
彼ならきっと、この戦況を覆してくれると、誰もが思っていた。
彼もその期待に応え、卑劣な侵略者の心臓をもらい受けようと魔法を発動させて…………
何も、奪うことができなかった――
彼は酷く狼狽した。
それも当然であり、彼の人生の中で魔法が効かなかった相手なんて、今まで一人もいなかったのだから。
彼の魔法が侵略者に効かなかった理由は単純だ。
彼と侵略者との間に、存在としての“格”が違い過ぎたから。
侵略者が何かしたわけでも、彼のことを気に留めたわけでもない。
ただ侵略者にとって、彼は何も取るに足る存在ではなかった。ただそれだけのことでしかない。
その冷たい事実を、彼は誰よりも理解させられた。
実際に魔法を向けて、侵略者の一端に触れてしまった彼は、今までの自信や誇りを全て投げ打って…………逃げ出した。
それだけ、彼にとって侵略者は恐ろしかった。
人間が勝てる存在じゃないと、彼は本気で思っていた。
騎士団長が真っ先に逃げ出したことで、騎士たちの士気も当然のように負の方向へと振り切れた。
元より侵略者を前にして、彼らは騎士としての誇りと、彼への信頼だけでその場に立っていたようなものだ。
騎士としての誇りだって、せめて時間稼ぎにでもなればという前提があってこそだ。
だというのに、侵略者は騎士たちにそれすら許さない力を見せつけた。
彼らだって、何の役にも立てずにただ死を待つことしかできないことに恐怖を覚えないわけがない。
最後の拠り所であった彼も逃げ出したことで…………彼らの心は完全に折れたのだ。
それから無様に逃げ、逃げ延びた先で、彼らは当然のように後悔の念に苛まれた。
守るべきはずだった民を見捨て、敵わぬ強者を前に心が折れて逃げ出したという事実は、騎士として生きてきた彼らの心を壊すには十分だった。
守るべきものも、帰る場所も失った彼らには、もう何も残されてはいない。
例えその場で自害しようとも、悲しむ者はあれど、困る者は誰一人としていなかっただろう。
だが彼らには、その場で死ねるほどの度胸も覚悟もなかった。
ならず者になった彼らは、ただ生きていくためにスリや強盗を繰り返すようになり、いつしかその身を盗賊にまで落としていった。
道行く馬車を襲い、金品を奪い、女は攫って夜の晩餐とする。
特に彼らを興奮させたのは、何の抵抗もできない人をただ一方的に痛めつけて殺すことだった。
自分たちは弱くない。
自分たちは目の前の奴とは違う。
ただ何もできない側の人間ではないと。
まるで自分たちの方が上だと言い聞かせるように――
逃げ出した過去の自分を塗り潰すかのように――
彼らは壊れてしまった心を癒すためだけに、嘗て誰かを守るために振るったその剣を、罪なき人々へと振るった。
それは彼にとっても例外ではなかった。
嘗て強大な敵を倒すために振るわれたその魔法は、金品をかすめ取ったり、弱き人の命を奪ったりするために使われるようになった。
いつしか彼は自身の名を捨て、豪鬼と名乗るようになった。
ただ豪快に奪い、殺し、蹂躙する鬼になったとでも言うかのように――
それこそ、自分はもう立派な盗賊だと宣言するかのように――
そして豪鬼は再び、一度は敵わなかった強者と対峙する。
嘗て見た帝国の侵略者ほどではないにせよ、一度は逃げ帰ってしまった存在であることには変わらない。
再び呼び起された恐怖を拭うために、豪鬼は一本の魔剣を振るって挑みかかる。
もう豪鬼がその戦いで立ち止まることはない。
逃げた過去の自分を否定するために――
自分は弱くないと証明するために――
豪鬼の抱いた恐怖を払うためには、目の前の黒猫を倒すことでしか果たせないと、彼は知っているのだから。




