第六話 契約
□■椿
紅葉が死んだ。
椿の目の前で、熊に食われながら死んでいった。
さっきまでお互いに、大丈夫だと言いながら励まし合っていたのに、いつの間にか、それすら幻であったかのようにすら思えてくる。
(どう、して……)
どうしてこうなってしまったのか?
いったい何がいけなかったというのか?
椿はただ、家族と一緒に、幸せな日々を過ごしたかっただけなのに。
それなのに、人間たちは椿から家族を奪い、巨大な熊は椿の大切な親友を奪い去った。
「ッ!」
悔しい。
ただただ悔しい。
何もできなかった自分が。
何もできずに、何も守れなかった自分が。
自分の弱さが、何よりも許せなかった。
(力さえ、あれば……)
力さえあれば、もう何も奪われない。
力さえあれば、大切なものを守り抜ける。
力さえあれば、もう自分たちを脅かす暴力に屈することもない。
「…………」
椿は当てもなく、ただ何もない虚空へと手を伸ばす。
霞んでいく視界の中で、その先に何かあってほしいという願いを込めて。
だがそんな都合のいい願いが、そう簡単に掴めるはずもない。
そんなことは椿にもわかっている。
だがそれでも、伸ばさずにはいられなかった。
例え叶わぬ願いであったとしても、無意味な望みであったとしても、それでも、奇跡を信じて、最後くらいは抗いたかった。
(……私に、力を!)
何を捧げても構わない。
最後の一時だけでも、自分から何もかも奪っていった奴らに、一矢報いてやりたい。
それだけが、今の椿が抱くたった一つの願いだった。
だが、伸ばしていた手からは、徐々に力が抜けていく。
椿の意志に反して、体はもう既に限界だった。
意識も朦朧として、前に伸ばしていた手が地面に付きそうになった時――
――誰かの手が、椿のその手を受け止めた。
(!)
確かな人の手の感触がした直後、何者かの声が椿の頭の中に響く。
『私と、契約を結びませんか?』
『…………契約?』
いったい誰なのかはわからないが、椿は消え入りそうな意識で何とか聞き返す。
『えぇ、契約です。私と契約していただけるのであれば、私はあなたに力を与えます』
『!』
――力を与える。
その言葉が聞こえた瞬間、椿の意識は力を取り戻し、迷うことなく自分の決意を固める。
『わかった! 契約する! 私に力を!』
椿は誰ともわからない声に向かって、心の中で叫ぶ。
だが声の主からは、どこか苦笑いを浮かべているような返答が返ってくる。
『…………即決ですか。しかし、私はあなたに力を与える代わりに、あなたに対価を求めます。それを聞いてから、改めて答えを聞かせて下さい』
声の主はそう言うと、そのまま契約内容を語り出す。
『まず私からあなたに与えるのは、先ほども言ったように力です。どれほどかは、私にもわかりませんが、あの熊を倒すことはできるはずです』
声の主が告げた内容に対して、椿はすぐに了承する。
元より、叶うはずのなかった願いなのだ。
少しでも強くなれるというのなら、椿にとっては何の問題もない。
『次に、私があなたに求める対価ですが、私にあなたの力の半分を貸していただきます。この場合、あなたは本来の力の半分しか発揮できなくなります』
続けて告げられた対価に、椿は拍子抜けになりながらも了承する。
元より、全てを捧げる覚悟があったのだ。
力の半分が使えなくなる程度など、椿にとっては些細なことでしかない。
『以上が、私との契約内容です。改めて、私と契約を結びますか?』
今一度、声の主に問いかけられるが、既に椿の答えは決まっている。
『結ぶ。私に、力を!』
『契約成立です』
その直後、椿の中に途方もない力が流れ込んでくる。
全身に力が溢れ、傷口が塞がり、自分の全てが作り変えられていくのがわかる。
(……すごい)
椿はゆっくりと立ち上がり、手を握ったり開いたりしながら、自分が手にした力を確かめる。
そして顔を上げ、椿は目の前にいる親友の仇を視界に収めた。
「…………あ」
思わず小さな声が漏れる。
それは眼前に仇を前にして、恐怖を覚えたからではない。
寧ろその逆だ。
目の前にいる存在が、あまりにも弱く見えたから。
ただ図体がでかいだけで、動きづらそうな体。
手先に付いている爪は、まるで飾りなのではとすら思えてくる。
さらに言えば、椿に気づいて振り返った姿が、どこか及び腰になっているように見えることも、その弱弱しさに拍車をかけている。
初めて目にした時には、この上なく恐ろしい存在に見えたというのに。
「…………」
次に椿が抱いた感情は、哀れみだった。
もちろん親友だった紅葉が殺された怒りが消えたわけではない。
ただ、ふとこう思ったのだ。
『あぁ、こいつは今から私に殺されるんだ』と。
自分が負ける姿など、微塵も想像すらできない。
今の自分と熊との間には、それだけの力の差があるのだということを、椿は本能的に理解していた。
そうであるならば、椿がやることはもう決まっている。
「……行くよ」
椿は足に“力”を集中させて、地面を蹴る。
一瞬で距離を詰めて、上体を起こしている熊の懐へと飛び込む。
「ッ!」
熊は突然のことで目を見開いているように見えるが、そんなことは椿には関係ない。
指を揃えた手刀で、熊の胸元を貫き、そこにある心臓へと手を掛ける。
ドクドクと鼓動するそれを、手を広げてその手中へと収める。
「じゃあね」
最後に一言だけを言い残して、椿は熊の心臓を握り潰した。
手と一緒に心臓を引き抜き、距離を取ったところで、熊は力尽きたように地面へと倒れ伏した。
「…………」
椿は最後にその熊の死体を一瞥すると、傍にあった食い散らかされた死体――自分を庇って殺された、かつての親友の亡骸の前で膝を折る。
「勝ったよ……」
ただ一言。
椿はもう見る影もない紅葉の亡骸へと語り掛ける。
湿っぽい別れにならないように、もうこれでおしまい。
そう思っていたのに……
「……勝てたんだよ。あの魔獣に……すごいでしょ。私、魔法が使えるようになったんだよ。それでね……」
言葉が止まらない。
もう紅葉には聞こえていないというのに、伝えたいことが湯水のように溢れ出て来る。
まるで話し続けていれば、いつか紅葉が答えてくれるのではないかと、勝手に思っているかのように。
だがいくら椿が語り掛けたところで、紅葉がそれに答えてくれることは…………もう二度とない。
「あれ?」
椿は地面に落ちた二つの雫に、言葉を止める。
視界が歪んでよく見えなくなって、頬には何かが滴っているような感触が伝わって来る。
「なんで……今になって……」
地面を濡らしている雫が、自分の涙だということに気づくのに、そう時間はかからなかった。
椿は血の付いた手でも構わずに、顔を濡らす涙を拭う。
だが拭っても拭っても、涙は止めどなく溢れ出てくる。
両親が殺された時にも、暗い牢に入れられた時にも、一度だって泣かなかったというのに、今はもう、涙を抑えることができそうになかった。
「紅葉……」
椿はもう一度、目の前にいる親友へと語り掛ける。
だが当然、紅葉はもう、その呼びかけには答えてくれない。
椿がどれだけの力を手にして、仇を取ったとしても、もう失ってしまったものを守れなかったことには、変わらないのだから。
◇◆
その日、森の中に一人の少女の叫びが響いた。
今まで積もった感情を全て吐き出すかのように、彼女の絶叫は、森の空気を悲しみ一色に染め上げる。
どれだけ喉を傷めても、どれだけ声を枯らしても、彼女の叫びが止むことはなかった。
その傍らで一人の人間が、静かに彼女のことを見守っていた。
彼女と繋がって見えた彼女の記憶。
彼女の抱いた感情も含めて、彼は見てしまった。
彼女を取り巻く悪意と、それを覆そうとする彼女の意志を。
だからこそ彼は、ただ静かに彼女の背中を見守り続けた。




