母親
夢に沈んだ。いや夢というよりもそれは確かにあったこと。
空を泳ぐとか途方もない幸福とかそういった感じの非現実的な夢というものを私は見たことがなかった。夢見るとすればそれは全て過去の主記憶。リアリティこの上ない。
濡れたアスファルトへと散らばったガソリン。異次元への扉みたいに水溜りへと浮かんだ七色のアメーバにも見える。七歳の私はアパートの赤茶に錆びた今にもぽろっと腐り落ちそうな窓辺の手すりに腰掛け、雨上がりのホコリ臭い路上を眺めながら機関車の形をしたパイプでシャボン玉を吹かしていた。
「あ、あぁんううあんっあっ……」
後ろから女の喘ぎ。
「はぁはぁはぁ……うっ、ああ」
同じくうめく男。
小太り男と見知らぬ狸顔の垂れ目女が抱き合いながら転がっている。布団があるのにそこからはみ出し、お盛んに舐め合っている二つの肉団子。
私はいつもひどく空腹だった。小太り男に頼んだところで何かを食べさせてもらえるっていうわけでもなかったから。母親が家にいる時は何か食えたけど、その母親も家にあまりいなかったので、だいたいはジッと我慢していた。よほどの空腹にならないかぎり、つまみ食いもしなかった。どうせ小太り男に殴られるだけだと分かってたし。
よく空腹でフラフラしながら街をふらついていた。避難場所に指定していた近所のババアの 家もババアがミイラみたいに死んでしまったので私は行く所もなく、かといって家にいても殴られるだけなのでただ、クソ熱いアスファルトの照り返しの中をオーバーヒート寸前の脳みそで徘徊していた。そのうちに上を向いて歩く元気もなくなり、ただうつむいて煙草の吸殻やお菓子の袋なんかの数を数えながら歩いていたら一瞬とても涼しい風が私の頬を撫でていった。
私は風の方に振り向く。そこはビルの谷間。ゴミ箱、ガラスの破片、果物箱。うなるようなエアコンの機動音。暗くてひんやりした場所。当然私は涼しさを求めてそのビルの谷間に吸い込まれるように入って行った。
ビルの谷間に入ってすぐ、なにか足元がぞくっとしたので見てみたら黒くでっかいモップが足元に絡み付いていた。でもよく見てみるとそれは黒い猫。ゴロゴロと懐いてくる。普通のちっちゃい女の子なら無条件で「かわいい」とか「にゃーにゃー」とか言って抱き寄せそうだけど私は(暑苦しい)くらいにしか思わなかった。
(動けない)私は猫のせいでその場から動けずにいた。
「あっ! こんなとこにいたんだ。見かけないと思ったら」
静かでそれでいてピンと通る声。声と共に甘い香りがした。でもそれは小太り男が連れこんでくる女が撒き散らしていくような胸焼けしそうな吐き気のするものじゃなく、ふわっと一瞬周りを華やかにして後には何もなかったかのように消えていく不思議な香り。
「あれ? これはまた見かけない猫ちゃんね?」
と私の目線まで膝を折ってしゃがむと風鈴は目を細め、私に笑いかけた。風鈴は私が見上げて話さなくて良い初めての大人だった。私は声が出なかった。ドキドキした。こんな女いるんだと思った。サンダル履きで、白いブカブカのTシャツで体をくまなく包んだこの女の鼻は高く整っていて、淡いブルーのシャドウに彩られた目元は優しく穏やかで、それはチビッ子だった私の狭い狭い世界では手に余るものだった。頭が混乱するほどに。
「顔真っ赤ねー暑いものねー」
と言って私の頬っぺたに触れてきた風鈴の白く柔らかな手はひんやりと冷たくて気持ち良かった。でも私はとてもビックリしてしまっていて、何を思ったのか風鈴の長くしっとりとした黒髪をギュッと力いっぱい握り引っ張ってしまった。
私の体は一瞬こわばる。殴られると思った。大人はみんなまとわりつくと怒る。殴る。蹴る。その頃の私には小太り男や母親の反応が全てだったのだ。
でも風鈴は怒るどころか固まった私の脇の下に手を入れ、私を胸に抱き顔を覗き込むと「んー? どした?」と笑った。キュキュと親指で軽く私の鼻先を摘みながら。私はまたビックリしてしまった。ホントに風鈴は私にとってそれまで出逢ったことのない人種だったのだ。
家に帰らない日がほどんどになった。というか、まったく帰らなくなった。学校が終われば風鈴の家。そんな日が母親と二人で隆行さんの所に転がり込むまで続いた。風鈴の所へ入り浸ることに母親は何も言わなかった。ただ携帯は持たされていた。着信音に設定されていたバカボンのテーマは一回も聞くことはなかったけれども。
私は風鈴の仕事が始まるぎりぎりまで一緒に絵を描いてやったり、オムライスを食べについて行ってやったりといろいろ遊んでやった。風鈴の仕事が始まると私は控え室の奥にある布団がようやく二枚ほどひけるくらいの風鈴が寝泊りしていた部屋で、布団の上に団子虫みたいに丸まって眠りながら風鈴の仕事が終わるのを待った。退屈だとは思わなかった。だってそれは凄く安心の時間で急に布団を剥がされることもなければ頭から水をぶっかけられることもない。時間がくれば甘い香りと共に顔をフカフカした感触が包み、目を見開いてみれば私の頭を胸に抱いた風鈴が「こんばんは」と挨拶する。でもたまにシンナー臭くて目が覚める時があった。そんな時は大抵みりんが油性ペンで私の顔に落書きをしていた。そんな後は決まってバカなみりんは私に指を噛まれ、風鈴には髪の毛を掴まれたまま叱られる。で、結局私の顔の落書きを、睨む風鈴の視線にビビリながら薄めたマニキュアの除光液で拭き取っていた。
――あっいい匂いがする。ぼやけた意識の中でそれをとても強く感じた。左の耳に圧迫感がある。それでいて暖かい。
最近気づいた。起きた時に人がいると嬉しかったりする。安心する。小難しい理由はない。だってあの冬実でさえ起きた時そばにいてくれたら不愉快だったけど嬉しかった。
「おー起きたか? おいっ? こらっ?!」
ん? 頬をぱんぱんと叩かれた。なんだこりゃ? 風鈴じゃないの? 風鈴はこんな起こし方しない。(うげ、まさか冬実だったりして?)なんて私は怖い想像をしつつ目を開けた。誰かの膝を借りて寝ているってことくらいは分かる。私は首を四十五度回転させ見上げてみた。
「お前、みりん? 逃げやがっただろ!」
「ぎゃあー! 何すんのよっ! ぐえええー苦しい! やめて」
膝枕をされたまま私はみりんの首を締める。かなりマジ締めで。
「ぢょ、ぢょっと警察署で殺す気?」みりんは鼻の穴を膨らませつつ苦しそうに言った。
「ケイサツ?」
「ギブ、ギブ! 取り敢えず首、離せ」
と自分の首にぶら下がるように絞め上げている私の手をぱんぱんとみりんは叩く。私はみりんの膝から起き上がると周りをキョロキョロした。
長い廊下にいた。黒く細長いビニール製の椅子の上にいる。すぐ横に階段があり、婦警らしき制服を着た二人組みが階段を上がって行くのが見えた。正面にいくつかのドアも確認できる。
「何だこれ? どうしてお巡りさんの基地にいるわけ?」
「私が通報したよ。交番まで走って行ったけど誰もいなくてさ。ねえ? 分かった? 私は逃げたんじゃないんです!」
と、さも得意気な顔で顎を上げてみりんは言った。
み、みりん、こいつのせいで金髪坊主にからまれて、またさらにフェードアウトして逃げようと思っていたところを、こ、こいつは。この女は。
「余計なことしやがってっー。ホントにーお前の存在そのものがとてつもなく余計だっ! 弁当の中の緑の甘い豆だぁ!」
と私は怒ってみりんの腕を殴った。
「ひどーい。大変だったのにぃー元の場所に戻ってみたらあんたは道で寝てるし、男は道端でのた打ち回ってるし、風ちゃんはあんたの横でおろおろしてるし、そこに警察は来るしー。後始末は全部私がしたんだから」
「偉そうに言うな! だいたいお前が全てじゃん! 原因じゃん! 反省しろ!」
そう言うと私はまたみりんの膝に寝っ転がる。乱暴にドサッと。みりんの奴にはもの凄くムカついていたのでさらに二,三発蹴りを入れてやろうかとも思ったけどやめた。正直体がきつい。頭の中がもやもやしていて重い。それに肩もずきずき痛い。後から痛みがくるってやつなのかも知れない。
「ん?」
左肩に突っ張った感覚がしたと思ったら包帯が巻かれていた。
「これ誰が巻いた? 病院でも寄った?」
と私が聞いたらみりんは、
「あー? しんない。取り調べが終わってこの椅子に戻ったらあんたの腕に巻いてあったの」と眠たそうな顔して言った。
「何だその適当な話は? ふざけてんのか?」
とみりんの内股をぎゅーとつねる私。
「痛っ。もうやだ。違うわよ。あのね、警官が来た瞬間私と風ちゃん、一言も喋らないうちにホント強制的にパトカーに放り込まれたの! あんたが怪我してるからまず病院に連れてってって言ってもぜんぜん聞いてくれなくて、署に着いたら着いたで私と風ちゃんはいきなり取調室に連れていかれるし、もうメチャクチャだったんだからねー」
と分厚い唇を尖らせみりんは私の頭を乗せている膝を揺する。
「私は? お前らが話聞かれてた間どうなってたんだよ?」
自分の鼻先を指で削るようにかきながら私は言った。
「知らないよー。やっとさ、雑巾臭い息の刑事から解放されてさ、取調室出たらさ、あんたがこの椅子に寝ててさ、肩にグルッとさ、感じでさ、包帯をさ、巻かれててさ」
うわずった声で意味不明なことをほざくみりん。
「ところで風鈴はさー? どこさー? どこにいるさー?」
みりんのうわずった声が面白かったので、よくドラマに出てくる沖縄出身者の役の奴が使う方言を真似て私は言った。地元の人間からは「そんな言葉ちがーう!」って抗議がきそうなやつ。
「ふ、風ちゃんはまだ取調べが続いてる」
と抱き上げるように私を起こしたみりん。
私はみりんの肩に寄り添うようにして長椅子に座りなおし、無表情にプレッシャーを放っている警察署のグレーかかった白い天井を眺めながら風鈴のことを少し考えていた。で、
(でもまあ、だいじょーぶでしょ)
といった感じの結論。だってどう転んでもあんな柳みたいな体した風鈴が、巨大なタヌキのお化けとしか思えないあの金髪坊主をノックアウトしたなんて誤解はよっぽどのバカか刑事ドラマに脳みそを汚染されて刑事になりましたなんて推理好きの奴が風鈴を取調べしていないかぎりありえない。色んな状況から考えても風鈴がダメージを喰らうような展開にはならないだろうと私は思った。せいぜい通算何十回目になるであろう児童相談所預かりの荷物になるだけだ私が。
「ねえ? 真樹。あんたさあ、ここ初めてじゃないんじゃない?」
みりんは意地悪い顔をして言った。
「まぁ……ね。そりゃ補導王ですから。わたくし」
と胸に手をあてて私は偉そうに言う。確かに警察署にはよく来ている。夜中一人で歩いているだけで補導。昼間公園で鳩にマンネリの焼いたタコ焼をばら撒いていたら補導。おでん屋の時なんてただはんぺんを食っていたら隣の客に「お嬢ちゃんカワイイね。いくつ?」と聞かれたので正直に答えたらそいつがお巡りさんで補導。正直者でバカをみたの典型。結局、チビッ子の頃に街をふらふらしていて交番に連れていかれたのも合わせればいったいどれくらいの補導数だろう? もしかしてギネスに載るんじゃないかって真剣に考えてしまう。でも最近は隆行さんも迎えに来ない。私は誰が迎えに来なくても家に帰れてしまう。いや正確に言えば警察署に連れてこられた時点で家なのだ。警察署に家と同じ価値観を感じているあの女のおかげで。
「あっ……」
つんつんと私の肩をつっついてみりんは斜め前のドアを指差した。開いていくドア。ダチョウのような顔した男が自分の肩を揉みながら出て来た。警察の人だろう、体中から辛気臭いオーラが沸き立っている。その男の後ろに風鈴はいた。相変わらずの不変の笑顔。私に会うたびに見せるいつものスマイル。取調べのせいで少しはしなびた感じになっているのかと思っていたけれどもまったく変わりがない。
(凄い温度差)
私は並んで取調室から出て来た刑事と風鈴を見てそう思った。とても同じ人間とは思えない。風鈴はビシッと背筋を立てて何もなかったみたいに涼しげな笑みを浮かべていた。ホント、こいつの凄いところは自分独自の空気を持っていてどんな場所でもその空気を存分に撒き散らして全部自分色に染め上げてしまうところだ。こんな誰が来ても息が詰まって胸クソ悪いまま沈んだ気分になってしまいそうな警察署の空気の中でもそれは変わらない。私にとってはその風鈴の空気が時々暑苦しくて少し甘ったるくて嫌になることがあるけど、真冬、久しぶりにシャワーじゃなくてお風呂に浸った時なんかに感じたりする(たまには良い良いー)という感じに似ている。隣に立った、なにかまるでやる気の感じられない腐った感じの刑事と並んでいるとまるで花畑に生ゴミって感じ。不法投棄。
「あー! 真樹ちゃん!」
風鈴、前の刑事らしき男を突き飛ばして私に抱きつく。
「やめろ。石鹸臭い」と私が抱きつく風鈴の手を振りほどくいつものパターン。
「あれ? 病院に運んでもらった?」
私の肩を見て風鈴は言った。
「知るか。起きたら巻かれてた。お前は知らないの?」
「知らないわよ。署につくなり取調べだもん。いきなり引き離されて真樹ちゃんとは悲劇のお別れ。あー会いたかったー真樹ちゅわん!」
風鈴、また抱きついてくる。自分はしつこい客が嫌いなくせに自分はしつこい。
「お前は暑苦しいの。抱きつくなら冬に抱きつけ」
と私はみりんの後ろに避難した。
「かわいくない……」
風鈴はそう言うとみりんを睨む。
「もうお願いだから私を巻き込まないでよ」
とみりんはその風鈴の視線にビビッていた。
「おい邪魔だ。用はすんだ。帰れ」
刑事が言った。貧素な落語家みたいな顔のくせに高飛車な奴。私は頭にカチンときたので、
「うるさい! だまれダチョウ!!」と刑事を睨んだ。私はこの刑事が怒らないかなー思っていた。できればそれで私を殴ってもらって私はわざと窓ガラスにぶつかってやってドンガラガッシャーンとダメージを喰らったふりをする。もしかしたらちょっとした騒ぎになって面白いかもしんない。
ところが私のそんな考えも消え失せた。刑事は私の顔をまじまじと眺め、
「口が汚たないところもよう似とるな。髪も同じケツのあたりまでだし。完璧クローン人間って奴だ」とニヤつく。
(あの女の系統かい)
私の知らない私を知っている人間。警察署はそういう場所だったのをすっかり忘れていた。気持ち悪い。生理不順になりそう。
「相談所止まりなのもそろそろ終わりだな。初犯はなにやらかすのかな? 無難にたかりか? クスリか? いやその体ならうり売春か? それとももうやってっか? ――まあ頑張ってお母さん、喜ばせてやれや。お前で点数稼ぐのが夢だそうだから。あの女」
と刑事は下から上へ舐めまわすような視線を私に送ると、くるっと背を向けた。
「じゃあ大きくなったら刑事さん捕まえてよ。出世させてあ・げ・る」
「そうかい。じゃあ百人くらい殺してくれなきゃな」
と刑事は廊下の向こうに消えて行った。
「知ってる人?」
と風鈴は私の肩を叩いた。私は無言で何も答えなかった。
「もういいじゃん帰ろうよ。もう三時だよ」
みりんの声が少し遠くの方で聞こえる。見てみると一人だけさっさと階段を下りて帰ろうとするみりんがいた。
「おいコラ! お前なに勝手に帰ろうとしてるわけー。全部お前のせいなのに!」
私はみりんのバカ女を指差して怒鳴った。
「はぁー、焼きプリンが食べたい。コンビニ寄ってこ」
するとみりんは私のことなどしったこっちゃないという感じで口をポカンと開けてあくびをしていた。
(聞いてねーよこいつ)
「もう嫌だーあいつー」
とみりんにうんざりした私。
「ふふ、そうね。じゃあ追っかけて行って後ろから蹴っ飛ばしてやんなさいよ。そうしたらみーちゃんも少しは反省するかもよ?」
風鈴、とても良いこと言う。
「えーそうしたらみりん、階段から転げ落ちるかな?」
ワクワクして私は飛び跳ねた。
「ちょっと冗談よ。やめてよね本気にするの。そんなに頬っぺたの血色良くしちゃって」
とみりんは眉間にシワをよせ私の頬を両手で挟んだ。冗談だったらしい。ちっ! つまんない。
「ああ嫌だ嫌だ。絶対子供なんていらない」
みりんは背中を激しく揺らした。私は歩くのも面倒くさくて半ば強制的にみりんの背中に飛び乗った。当然これくらいさせておかないとお腹の虫がおさまらない。
「ほら、真樹。こっちおいでよ」
それを見ていた風鈴が私へ背中を向ける。私をおんぶしたいらしい。
「やだ。お前に乗るとポキッて折れそうなんだもん。落っこちて頭打ったらどうすんだ」
と私は自分の頭を両手で抑えた。
「ホント、やめておいた方がいいですって。もう少し小さかったらかわいげもありますけどこいつはデカイし、ほら、小鳥の餌とか横取りするカラスっているでしょ? あれですよ。おまけに性格腐ってるし」
みりんがひどいことを言った。この、三流風俗嬢が。
「お前だって170くらいあるじゃん。私まだ165くらいだもん」
と私はみりんの頭を叩く。
「私はもう伸びないもんー。それにあんたくらいの時は150以下だったしぃーあんたみたいにカワイクない子はねぇー巣から落ちても、誰も、親だって拾い上げてなんてくれないよ。餌代もバカにならないしー」みりんはベーと舌を出した。でもその出した舌を戻す間もなくいきなり急停止するみりん車。
「あ、いや、その」
とみりんの肩がガタガタと震えている。
「なんだ? 止まるなよ。進め!」と私は不思議に思い、みりんの顔を覗き込む。
「やば……」
と凄くビクついた表情のまま、みりんが固まっている。階段の三段下、いつの間にか私達よりも先に下りていた風鈴がこっちを、いや、みりんを見つめていた。しかも、いつも見せているような顔じゃなく、穏やかさの欠けらもない険しい顔で。なまじ綺麗な分だけ冷たくて切れるような迫力がある。
(すげー女優みたい)
「ま、真樹。ごめんね。その、言い過ぎた。ごめん」ゆっくりと私の方を振り向き、たどたどしい感じで言うみりん。半分泣きそうな顔になっていた。
「あきれた。くだらなーい」
私はそう言うとみりんの背中から降りた。それから素早くジャンプして階段を何段も飛ばしながら一気に下る。三階、二階、「一階!」勢いよく最後の段から飛び降りる。当然風鈴達は追いついて来ていない。私は署の玄関口に向かう。風鈴達を待つ気はなかった。
たまにある。気を遣いすぎる風鈴に、私はそう感じないのだけれども風鈴の目には無神経に映るみりん。余裕がある怒り方でみりんを叱る風鈴は良い。でも本気はだめ。嫌い。みりんはバカだからマジでへこむし、泣き出すから。
よく分からないけど私はあまり長い間、人と一緒にいない方が良いのかもしれない。長くいると大抵もめごとがおこる。小太り男との時と同じ。隆行さんにしても。私は人の気持ちというやつを揺らしてもれなく不安定なものにしてしまうような才能があるらしい。
昔、私にそっくりな女がよく言っていた。私のせいだって。だからたぶん、そのとおりなんだろうね。
「汚ったない月」
警察署から出てすぐに玄関前で夜空を見上げた。せっかくの満月なのにホコリを拭き取った後のティッシュか、それとも湾岸沿いで煙突から延々と放たれている煙のような雲が満月を点々と汚すように漂っていた。
(うーん充実かも)
腕を頭のてっぺんで組んで後ろに反り返りおもいっきり背伸びをした。腰骨がコキコキ。気持ち良い。結構イベント盛りだくさんな一日だった。毎日これくらいのテンションで過ごせたら良いけれども、たまにだから面白いのかもしれない。
♪♪♪ 携帯が鳴った。電話の方。隆行さんが勝手にいじくって設定した着信音。ビートルズってやつ。私はよく知らない。CMとかで流れているのは聞いたことあるけれども。
「誰?」
「誰?」
「だから誰だよ」
「真似するな! 殺すぞ!」私は怒鳴る。
「お前が死ねば?」
ツゥー、切れた。
「うっ!」
突然後ろから蹴られた。ムカついて振り返るとそこには私がいた。いや、私よりもっと髪が長くて太ももの辺りまである。女はインナーにロゴ入りの白いニット、黒のスーツ。下も黒いパンプス。耳に携帯を当てている。
「寒い。子宮が凍る」
下腹部に手を当てて女は言った。
「普通に会えよ。やることがガキっぽい。冷え性のくせに」
と私は自分の後ろ髪を撫でた。
「熱帯夜を期待してたのに。今日の夜ってやだ」
「私はお前がい・や・だ!」
と携帯をお尻のポケットにしまう私。
「ムカツク顔。早く死んでよ」
そう言って女は無表情のまま携帯を胸ポケットにしまう。
半年ぶりくらいだった。変わらない無機質な枯れた表情。署内から漏れる光で、きついくらいのストレートパーマが黒光りしている。
「じゃあ自分が殺せばいいじゃん? 抵抗しないよ。お好きに」
と私は両手を上げ万歳した。
「親のこと想うなら自殺してくれるのがベストなのだけど」
「私を捕まえるのが夢なんでしょ?」と私は自分を指差す。
「夢は夢。それにガキじゃ死刑にならないし」
「用がないなら消えろ」と私は女から視線をそらす。
「用ならあるよ。お前競輪場の近くでキレたろう」
女はカラコン男との乱闘を言っているらしい。カビの生えた話を今さら。
「なにそれ?」とりあえず私は聞いた。
「競輪場の近くのカフェにいきなり窓ガラス割って店に侵入してきた十六―二十歳くらいの少女って誰なんだろうね? なんかお店、メチャクチャにしたらしいよ」
「ふーんそりゃ大変。十六―二十歳か。じゃあ私じゃないね」
「目撃者多数。その少女は迷彩のデニム地のチューブトップを着ており色白で髪は少しグレーが入った黒だったそうです」
女は記者のような口調で言った。
「へえーみなさんホントによく目撃してらっしゃるのね」
と私は胸の谷間をかきむしる。
「まあこれは目撃者証言というよりも被害者証言なんだけどね。指が爪の辺りから消えちゃってる少年の。まるでピラニアにでも食べられちゃったような」女は耳にかかった髪を後ろにかき上げた。
(栄子の話がないな。男置いて逃げたのかな?)
カラコン男は捕まったらしい。栄子は一人で逃げたらしい。とてもあいつらしく生きてらっしゃる。
「でも信憑性は薄いのよねーその男の子様子が変だったから尿、調べてみたわけよ。そうしたらまあなんと嬉しいオマケがついてきた」
と女は軽い口調で、自分の膝頭に手を置くと少し前屈みになった。
「ドラッグですかな?」
「ビンゴ。それに指を女に食われたなんて話してるし」
女は頭をかきながら面倒くさいって感じで話している。
「案外全部その男がやったんじゃねーの? 薬漬けだったんだろ? 全部幻覚なんじゃねーの?」
「えーどうだろ? 店長は顔中血だらけの女の子がアルバイトのこ娘連れて店を出て行くの見てるしー、他のお客様もその迷彩のタンクトップが暴れてるのちゃんと目撃してるのよ? それとも店中のみんなが薬浸けだったってわけ? すっごいねーそれ」
「いいじゃん。みんな色んな薬飲んでる」
と私は言った。だけど女は私の言ったことなどおかまいなしといった感じで、
「変なんだよねーその少年さあー私の顔見たとたん「ぎゃー」って絶叫して逃げだそうとしたの。その後はびくびくしちゃって目も合わせてくれなくて困っちゃった」と眠たそうな目をした。
「お前の顔が怖かっただけだよ」
「そう? そんなに怖い顔かな?」
と言って女は私の頬を左手の甲で一回二回と軽く叩いた。
「前にも同じケースがあったのよね。地下鉄から地上に出る階段を上がっていた二人組みの男に突然上から無人のバイクが突っ込んできた、なんてのがあったけど、その時も同じ感じで、軽傷ですんだ男の方に話を聞こうとしたんだけど、その男も私の顔みた瞬間、頭抱えて「来るな来るなー」って。変なお話だよねー?」
「うっとうしい!」私は女の胸を突き飛ばした。
「ふん。かわいくないわね相変わらず。心配しなくても全部藪の中よ」
「どうせお前が何かしたんだろ? 弁償とか責任とか大っ嫌いだもんねー?」
「誰が? 保護者は隆行だもの。私には関係なーい」
と女はスーツの胸ポケットから青いラインの入った箱を取り出すと口で直接煙草の先を噛んで引っ張り出す。
「あっそう。じゃあ他に何の用があるわけ?」
「別に」
と女は煙草に火を点ける。カッコつけて。気管弱いくせに。
「じゃあねーアディオス」
女は背を向けて署内に帰って行く。
「ああ。そうだ」
と女は急に振り返った。
「何だよ! いい加減にしろ! お前といると疲れるんだよ。このカス!」
ホント、この女といると体中のパワーが吸い取られていくような気分になる。冬実とはまた別次元の無気力感を私に与えてくる。
「今度は切られるんじゃなくて、突かれなさい。その方が致命傷になりやすいし」
と自分の肩をトントンと叩いてみせると女は二階への階段を上がっていく。ぎゅううー。私は無意識に包帯の巻かれた自分の肩を強く握りつぶしていた。
「あっいた。良かったー帰っちゃったかと思った」
と風鈴が階段をかけ下りて来て私に抱きつく。
「ごめんね? 別にケンカしてた訳じゃないのよ。私が悪かったわ」
「みりんはバカだから怒っても意味じゃん? ほっとけ」私は風鈴の頬を両手で挟むように触れて言った。
「あれ? 何かあった? 右眼が赤くなってる」片眉を下げて風鈴は言った。
「結膜炎気味。ほっとけ」
「ちょっと気をつけてよ。あなた、とくに眼を大事にしないと」
と風鈴は自分の瞳に私が映るくらいの距離で顔を近づけて私の眼を覗き込む。私ははっきり言えばいいのにと思った。そのうち左目が完全に見えなくなるから右目を大切にしなさいって。
風鈴に眼科へ連れて行かれてから二年以上が経つけど、いまだに検査結果は聞かされていない。でも検査から数日たったある日、店の控え室では落ち込んだ表情のまま私にいつも以上に長い間抱きつき、離れようとしない風鈴の姿があった。私はその風鈴の態度から自分の眼の状態をだいたい察した。もっとも病院へ連れて行かれる前から隆行さんには、お前の左はただついているだけの義眼と変わらないってことは言われていたのでショックはなかった。ただ、アニメのカードを並べて遊んでいた時、風鈴に私の眼のことがばれ、風鈴があんまりしつこいので渋々と病院に行ってやっただけのお話。
「ねえねえ聞いて? 今ねえ二階の階段前で真樹に会ったの!」
とみりんがはしゃぎながらやってきた。
「私、ここ」
自分を指差す私。
「みーちゃん。もう怒ってないから普通にしなさい」
風鈴はあきれている。
「違うの! 話最後まで聞いてって。あのね、私が会った人最初は真樹だと思ったの。でもね、すぐ違うって分かったんだ。だけどー、あんまりー、真樹に似てるからおもわず「あなたにそっくりな人みませんでした?」って聞いちゃったのー。我ながらバカなこと聞いちゃったなーて思ったんだけどその人、「ああその方なら下の玄関前にいましたよ」って言ったの。だから来てみたらホントにいた!」
走って来たからなのか興奮しているからなのか分からないけどみりんは息を切らせて早口でいっきに喋りきった。
「なに? 私を見つけてそんなに嬉しいわけ?」と鼻息の荒いみりんにあきれる私。
「私の方がみーちゃんよりもっと嬉しいわよ」
と風鈴はみりんに対して変な対抗意識を剥き出しにしている。バカメス二人。
「そんなに似てたわけ? その女?」
みりんが会った女が誰だかなんて分かっていたけど私はとぼける。
「似てるなんてもんじゃないよあれは。年は……うーん、そう! 二十代後半くらいかな?」
(バーカ三十七だよ)
「あんたと同じで目がでっかくて少し端の方が吊り上がってて猫目であんたを誉めてるみたいで胸クソ悪いけどさー、綺麗な人だったなー」みりんはあの女に対して好感触だったらしい。でもそんなものは一週間もあの女と一緒に暮らしてみれば一気に吹っ飛ぶ。
「何か言ってた? その女?」
「別にー。ああ! ただ私があんたのこと聞いた後に、ありがとうって言ったら、「そんなに似てます? その方と?」って言ってきたから、「はい! バカほど」って言っちゃってさー気悪くさせたかなーて言った後ですぐ後悔してたら「そう」ってニコッと笑ったの。あんたの笑った顔あんまり見たことなかったから、その女の笑顔見てたらあんたが笑ったらこんな感じなのかなーって思っちゃったさ」
「へえーいいな私も見たかった」風鈴は残念そうに足踏みをした。
「風ちゃん……別に真樹が笑ったわけじゃないんですから」今度はみりんがあきれていた。
――真夏の明け方を三人でとぼとぼ帰る。崩れたレンガの歩道はぬかるんでいて滑りやすくなっていた。私達の真上は、お城の建っている横の記念公園の中から壁を飛び越えて大きくはみ出した枝葉によって覆われていた。モザイクのように空をすっぽり覆い隠すその枝葉は青臭く湿った匂いと共に私達をその隙間から垣間見せる明け方の空みたいにとても虚ろに私達を包んでいた。道路にほとんど人通りはない。それでも時折走り抜けて行く車はそれを楽しむように振り絞った最大スピードでアスファルトを気持ち良さそうに飛ばして行く。ダサい軽トラでさえ。
ざわざわと空を覆う枝葉が揺れていた。枝葉の振動を感じる間もなく、向かい風が私の前を歩いている風鈴とみりんの髪を穏やかな波のように静かに揺らして最後に私の顔を吹き抜けていった。眼がうずく。肩も。また私は強く包帯の巻かれた肩を掴んでいた。
「いい風だけど、風邪ひかないようにね」
と風鈴は私の方を振り向く。
「うがいしても何しても、ひく時はひきますからね。風邪」
とみりんは喉元を触りながら言った。二人はおたがいに顔を見合わせ、笑い合っている。
笑った顔。あの、私にそっくりな女も笑ったらしい。どうせ嘘笑いだろうけど珍しいこともあるもんだ。しかも私の話で。
「おいみりん!」
私はみりんを呼ぶ。
「何よ?」みりんは振り返る。
「スマイルってタダかな?」
「当たり前じゃん。どんな店でも基本でしょスマイル。うちの店だってそうだもん」
とみりんが笑った。
そっか。ただなら見てみたかった。雪樹のスマイル。