おーばーおーるデイズ
部屋の中はもう真っ暗。光彦と私、二人の顔は少しずつ闇に紛れ消えていった。まるで部屋にある全ての物が湧き出してきたような影に溶けていって、私以外の光彦も含めた存在を空想的にひどく不確かな感じに変えていくみたいだった。私はその感覚を結構気にいってしまって、着替え終わったあともすぐ帰らずに、ぼーと思考だけが止まった状態で、ただなんとなく壁に寄りかかり、突っ立っていた。
「絵、ホントにもう良い?」
と私はキャミの肩紐を上げ直す。
「うん。ほいっ!」
と光彦は床に転がっていた私の携帯を投げてきた。
「あっそ」と闇の中を回転しながら飛んでくる携帯のライトを私はボールを投げ下ろすような手つきでキャッチ。
「じゃあ帰るニョロ」と私はドアのノブに手をかける。
「病院。今度変わるんだ」
と光彦は言った。私はドアノブの回転を緩める。
「あっ! それと忘れてた」
暗くてよく分からなかったけど、光彦はベッドの上へ飛び乗ってごそごそと動いたあと、何かを握り締めた手を私へと差し出した。
「もらえる物は頂きますけれどもー、ためしにチャレンジして言ってみたら良かったのにね。ただで遊んでって」
光彦の手にしているものが万札だということはすぐに分かった。
「そう言ったら真樹はどうした?」
「試してみれば?」
私がそう言うと、光彦は机に向かい何かを書き始めた。そしてノートの切れ端みたいな物を私に見せ「これ新しい病院の住所。遊んでくれるかな?」と言った。
「かな? じゃ、ないのじゃない?」私は笑った。
「――遊ぼう」と私から視線をそらし光彦は坊主の後ろ頭を撫でた。
「お望みのままに」
と私はランプの精みたいに自分の胸へと手を置き、深くおじぎした。
(おお! 暗い暗い)
帰りの夜道。光彦の家の周りは私が住んでいるエリアと違い、割られて羽虫の巣になっているような街灯は一つもない。ちゃんと均等距離にランプの形した街灯が並んでいた。
自転車のカゴだけじゃ足りなくて、ハンドルにも目一杯にスーパーの袋をぶら下げたオバサンや、街灯の下に止まってミネラルウォーターを飲みながら手帳を見てブツブツ言っているメガネのOLなんかとすれ違いながら光彦のいる住宅街を抜けた。
フッと風鈴のことを思い出す。
鉄道沿いの坂を下りながらガシガシと横の金網を鳴らしつつ行き止まりの路地を横へ曲がろうとしたら、どろどろに溶けかかった雑誌や、べっとりした感じの液体がまだ中に残る割れ瓶と一緒に紛れて、半分顔が焼け落ちたようにただれた片目半開きの猫がいた。その茶色い奴は、痒いのか? アスファルトへ向かってさかんに背中をこすりつけるようにじゃれていて、私はこやつを風鈴の所に持って行ったらきっとバカみたいに喜んで餌をやるのだろうなーと考えていた。どっちにしろ家に帰るのだから神嶽の橋を渡らなくちゃいけないので、必然に風鈴の店があるエッチのテーマパークも通る。お腹も空っぽになってきた感じもあるので、
(メシ、おごられたろ)
と思い私は風鈴の店へ近い方に方向転換した。
サンダルの乾いた音が暗く湿ったトンネル内を気持ち良いほどに響きわたる。トンネルの壁に描かれた、蛇が目から飛び出しているドクロの絵や、意味不明の英語の落書きも上を走るJRの振動と共に揺れて見える。アートって感じのものじゃなくて、ホントのただの落書き。まだトイレの落書きの方が素敵。へたなのに思わず恥ずかしくなってしまうようなリアリティがあるし。
このトンネル久々に通った気がした。見たことのない落書きが増えている。しかもかなり黒ずんで古くなっている感じ。つまりは知らない落書きが古くなってるってわけでホントに久しぶりって感じ。
隆行さんと一緒に住むようになったばっかりの頃、よく隆行さんに連れられてこのトンネルに来た。隆行さんはトンネル内の歩道と車道の境目に建ち並んだ柱を背もたれにして、ホームレスのおっさん達と楽しそうに煙草をぷかぷかやっていた。私はというと隆行さんが動かす足に抱きついたり叩いたりしてお相撲を取っていた。だけどあんなに歩道が埋まるくらいに寝っ転がっていたホームレスのおっさん達も今こうして歩いてみれば一人もいない。通りやすくなったけど、つまらなくもなった。
(あん? こんなに長かったか?)
トンネルが妙に長く感じる。もっと短い印象だったはず。記憶の勘違い? とも思ったけどトンネルの向こう側には色とりどりの原色ネオンがチカチカ輝いている。でもいくら歩いてもそのネオンが近くならない。私はスピードを上げようと駆け出した。
「ん?」
何かが背中に当たった気がした。なんか生暖かい。私は足を止め背中を丸めてみて神経を集中した。少し湿った感じはしたけど、湿気の高いこの季節なので、特に気にせずまた歩き出そうとした。
「ああ……」
どこともなく聞こえる声に私の足は急ブレーキ。もの凄い勢いで後ろを振り返る。バックの暗闇をみつめ、息を潜め、耳をすます。でも声は聞こえない。オカルト初体験か? と思ったのだけれど、そうでもなさそう。目も集中して見たけど暗いだけだった。私も視力には自信があるほうじゃない。だからこのトンネルも私が思っているほど暗くないじゃないかって気もしたりする。
結局何もなくトンネルを出た。黒服の呼び込みや、OL風の制服という分かりにくいコスプレをした女がちらほら見える。私は風鈴に電話しようと思ったけど時間的にあいつが一番忙しい時だったので直接店に乗り込んでやることにした。私はいったん取り出した携帯をまたパンツの後ろポケットに戻そうとしたけど、ぴっちりした黒いレザーのショーパンを穿いていたので、なかなか携帯が入らずに手間取っていたらまた背中に何か当たった感じがした。
「気に入らない?」
(なんだ。現実ってやつですか)
男が立っていた。私の真後ろ。トンネルの出口ラインギリギリに。闇の中、体格や着ている物くらいは薄っすらと分かった。顔はよく見えなかったけど雰囲気やその低い声で勝手に男だと私は決めつけた。
(職業変態?)
男はオーバーオールを着ていて足は黄色い長靴。たどたどしい喋り方で体を小刻みに縦揺れさせている。私は素直に変態じゃーんと思った。
「何か用? レイプは間に合ってますけれども?」
私はそう言いながらたんたんと二、三度かかとを鳴らして、いつでも男をブッとばせるように間合いを計った。周りの気配からしてもどうみてもキモイ、マニアックな感じの奴で、仲間でつるんで動くとかいうよりはスタンガン、催涙スプレー、後ろからクロロホルムを含ませたハンカチで口塞ぎ! みたいな感じ。だから私はその男が何かやりだす前に速攻で蹴り倒すのが良いと思い、私がさあ行こうと一歩足を踏み出した瞬間、「どうかな? 好きかな?」とオーバーオールの奴が私の足元を指差した。ひどく落ち着かない感じで。
「あん?」私はオーバーオールから視線をはずさずにしゃがみ込み足元を手で探ってみた。
(ぐにゅ?)
もの凄く不可解な感触がする。それは私の手のひらから少しだけ余るくらいの大きさで、初めはボールか何かと思ったけど、もこもこした感触がして生暖かくて、触る場所によってはごつごつした肌触りの所がある。私はさらにそのボールのような物をもっとよく見てみようとネオンのライトに照らしてみた。
赤、青、黄色。くどく入り乱れたライトアップを受けて、・・それは笑っているようにも見え、かかげた私の左腕をどす黒い液体で螺旋状に這うように濡らしていく。ヌイグルミなんかじゃないということを私に教えるように。
(風鈴にみせたら卒倒するな)
キスをするように私の手のひらへと顔を押し付けている猫の顔面。首だけのわりにはかわいらしい顔してる。
「どうかな?」
オーバーオールは笑い出した。期待通りの変態的反応。
(やっぱ本物の変態は違うな)
私は思わず感心してしまった。
「まだ暖かいね。お前これどこで?」
と猫の頭を鷲掴みにした手を私はオーバーオールへと突き出す。
「さっき、見てたから」
猫の顔を注意深く見てみる。
片目が火傷をしたみたいに溶けかかっていて潰れていた。ついさっきゴミの中で私が見た猫だった。
「残念! もっとビックリするとでも思っちゃった?」
と私は左手の握力最大で猫の頭を握りつぶす。意外に硬かったので猫の頭はそんなに潰れなかったけど、どろどろと粘り気のある猫汁が私の手の中からどんどん搾り出されていく。まさに一番絞り。自分で自分の口元が緩んでいくのが分かった。ちょっとうきうき。
私は単純にクレイジーにはクレイジーだと思い、左手についた猫汁を舐める真似をしてみせてオーバーオールに対抗した。でもあくまで真似。ホントに舐めるのはさすがにきつい。冬実なら平気でやるだろうけどさ。
「お前さー。私を削りたいんじゃないわけ?」
と私はボケ防止用のドングリ形磁石を手の中で転がすような手つきで猫の頭を揉みしだく。
「先生」
「ああっ?! なに? 先生がなんだって?!」
まどろっこしオーバーオールの喋り方にいらいらしつつ私はトンネルの音響効果を最大限にいかした怒鳴り声を上げる。同時に私の脇を車が駆け抜け、その車のライトがオーバーオールの顔を一瞬だけど私に垣間見せてくれた。
私が見たオーバーオール。顔は青白かった。真夏なのに目が見えないくらいに深くニットキャップをかぶっていた。
(まともなトークできるわけないか)
四メートル、三メートル、二、一、オーバーオールとの間合いを詰める。ちょうどこの間借りたB級香港映画のアクション、やってみたかったのだ。ちょうど良い実験体がみつかった。
オーバーオールは向かってくる私なんて眼中にないように下をみたり上をみたり両手をこすり合わせたり蝿みたいに忙しい。
右足をおもいっきり踏み込み、踏み込んだ足の痺れが終わる間もなく腰を回転! オーバーオールの胸元めがけて左足をロケットー! といった感じに蹴り込んだ。
「私が削ってやるよん」
とパンチコなら大フィーバー! といった具合に蹴りがオーバーオールの胸元へ鋭角に突き刺さった。オーバーオールは後ろの闇へとぶっ飛んだ……みたいな気がした。あまり感触がなかった。自信はほどほどなのだけど。
私は着地と同時に、万が一相手に仲間がいるといけないので、周りに注意しながら相手の次の動きに集中した。だって安心していたら後ろからバットなんて一番やだ。
――反応がない。何の音もしない。ただトンネルの丸い闇があるだけ。何もなかったみたいに静まりかえっている。
「おいこらっ! あれか? 罠か? 反応がないぞって私が近づいて来るのをパックンチョ! っていくつもりでしょ?!」
と私はトンネルに叫んだけどまだ反応がない。何らかの刺激を与えねばと思って私は続けて、
「梅干しの種の中の白いやつが大好っきぃー」と叫びトンネルの闇に向かって猫の頭を投げ込んでやった。でも無反応。
「おーい。もう私帰っちゃうよー」私はくるっとトンネルの出口に背を向けゆっくりと歩く。もちろん後ろに気をつけながらオーバーオールの奴が襲ってくるのをドキドキと期待しながら。だけれど、私が蒔いた餌には喰いついてこなかった。まるで初めから存在していなかったみたいに。逃げた足音さえ聞こえなかったのに、完璧に人がいる気配がない。息づかいもしない。変。おかしい。たしかに蹴りごたえもあまりなかったし。
(おいおい。マジ、オカルトってやつだったわけ?)
と私が首を傾げ突っ立っていると、携帯からディズニーのイッツ・ア・スモールワールドが鳴る。
「せーかいは一つー♪」
メールの着信音。画面を見ながら親指を動かす。
(あらら。オカルトじゃなかったわけね)
画像が送られてきた。首のない猫。花畑をバックにした。
私は自販で雪溶け天然水を買うと、その水で手についた赤黒い猫汁を洗い落とした。何人かは猫汁のついた私の手を見て振り返っていたけど、すぐに目をそむけて足早に通り過ぎて行く。もしお巡りさんが近づいてきたら「トマトジュースでーす!」といって無理やり手についた猫汁を舐め上げてやろうかとも思っていたけど、素敵なこの街の無干渉主義のおかげで誰も私に近づいてはこない。――と思っていたら、
「あっ、ねえ! お金とかに興味ない?」とバカな質問をバカにしたようにしてくる女がいた。たぶんAVとかのスカウト。最近は男のスカウトより頻繁にみかける。騙しやすいとかそういうのか?
「お金には興味あるけど、お前にはなーい!」
と私はスカウトの女の厚めに膨らんだ下腹に前蹴りを喰らわした。女は直腸検査を始めてされた人みたいな抜ける声を漏らして膝から崩れ落ちる。続けて路上に膝をつき、うずくまる女の髪を引っ張り上げて自分の顔を近づけそのまま頭突きをゴン! 女は鼻血ブー。
「かなり美味しいバイトなんだよねそれ? スカウト。月六十万くらいになったりするんだよねー?」
「えっ?」と女はお腹を手で抑えたまま私を見上げる。
「まあ、個人的には見てみたい気はしますけれども、十三のAV女優とかストリッパーとか」
と私は女の腰についた黒いウエストバックを引きちぎるように取った。
「ちょちょ、ちょっとなにすんのよ!」
「うるさい! 児童買春法違反で罰金刑です!」と私はウエストバックを取り戻そうと引っ張り返す女の顔面を踏みつけるみたいに蹴った。女、倒れた。女のバックには諭吉が三十人ばかりいた。多すぎて邪魔くさかったので、諭吉を三人だけ抜き取って残りは近くにあった郵便箱に放り込んだ。一週間くらいねぎ味噌ラーメンを食べ続けるのに困らないくらい程度の金があればいいのだ。
キャッチ、ナンパ、ロケット花火、携帯と公衆電話を同時にかけている外人さん達も薬の売り時だと大忙し。私はおもいっきり姿勢良く歩いてしまうと、さっきみたいにいつもすぐ声をかけられてうっとうしいので、いつものように猫背で人ごみに紛れ、地下街の階段を下り、ビデオ屋に入った。ビデオ屋はちょうど風鈴の店の真下になっていて、店中はなぜかオール鏡張りになっている。白いぴちぴちの短パンを穿いて、Tシャツを全部をその短パンの中に入れている横分け頭のおっさんとか、顔の半分も隠れるようなでっかいサングラスをかけて、中腰のままロリ系のコーナーを舐めるように眺めているマッチョなお兄さんとか、いつもと変わらない微笑ましい風景がそこにはある。
「おいこら! 起きろ豚玉!」
と私は細長い店内を障害物競走みたいな身のこなしで脂くさい客を避けつつレジに行って、壁に寄りかかりながら眠りこけている豚玉の椅子を蹴った。
「ううん? ああ真樹ちゃんじゃん」
豚玉は自分の首を撫でながら言った。こいつはいつも居眠りしてる印象しかない。マッシュルームカットが寝癖と無造作で玉ねぎみたいな髪型に化けちゃってる。しかもデブ。
「おい! マネージャーいる? 上がるぞ!」
と私はレジの右奥の階段を指差す。
「ああ、兄ちゃんなら上にいるよ。呼ぶかい?」
そう言うと豚玉はレジ脇にある受話器を取ってみせた。
豚兄弟。上は髭豚で下は豚玉。上が風俗で下はロリ、SM、スカトロ専門ビデオ屋さん。
「呼べ。とっとと」
「うす! 了解」と豚玉は油汚れみたいに黄ばんだ電話機で内線を使い話し始め、やがて受話器を置き、寒気のするようなウインクをした。どうやら髭豚が来るらしい。
「すぐ来ると思うよー。呼び込みのバイト見つかったから自分がやらなくてもよくなったからねー」
「あっそう。じゃあここで待つニョロ」
と私は両腕を頭の後ろで組んだ。すると豚玉は真剣な顔でじーと目玉を上下させて私を見つめた。
「そういうの“舐めまわす視線”っていうんだろうね?」
と私は言った。
「84、52、85。どうよ? 真樹ちゃん」
「はあ? 何が?」
「サイズだよ。スリーサイズ。当たってるでしょ?」
豆粒みたいなちっこい目を豚玉は最大限に見開いて言った。
「知らない。そんなの小学校の時に測ったきりだもん」
「いや、信じろ! 僕の目利きは完璧だ。絶対当たってる。身長は僕とあまり変わらないけど、うーんそうだな……160から166くらいかなー。伸びたよねーホント、あんなに小さかったのに」
レジを立つと私の周りをぐるぐると回りながら豚玉は言った。
「あっそう。じゃあそのサイズで良い。今度からそのサイズを公称にしよっと」
私は笑った。
「末恐ろしいよねー。十三だろ。殺人的な体してるよなーホント」
「じゃあ殺してやろうか?」と私は胸を張った。すると、
「あ、あの。良かったら僕を殺してください……」と肩を掴まれた。後ろを振り返ってみると、バーコード頭の全身をピンクのスーツでくまなく包み込んだおっさんがうつむいた感じで立っていた。
「あーだめだめ山科さん。その娘商品じゃないから」
と豚玉は親しげな雰囲気でバーコードのおっさんに話しかけた。
「非売品?」
バーコードのおっさんは指先でつんつんと私の二の腕をつっつく。
「そうそう」と豚玉も私のお腹の辺りをつっついてきた。
(あともう一回つっついたら殺す)
「うんーもう! 非売品は店に置かないで欲しいなーもう!」
私が肘鉄を喰らわそうと思っていたカウント一秒前で、バーコードのおっさんは唇を浅く噛んだまま立ち去っていった。私の中にはもやもやしたものだけが残った。ビールたらふく飲んでオシッコ我慢したまま眠った次の日のトイレ後みたいに残尿感な感じ。
「あの人さー。うちの親父がロマンポルノ専門の店やってた頃からの常連なんだよ。真性のMでさー女の子に責められるのが喜びなわけ。殴ってやったら喜んだのに。ひゃひゃひゃ」
豚玉は辺りに唾を撒き散らしながら笑った。
「ていうかお前を殴る!」
と私の左フックが豚玉の鼻っぱしらをさらに豚鼻にした。
「あ、あががが、血がー僕の鼻がああ」
「うるさいモジャ! 鼻血が枯れるまで殴ってやる!」
二発三発と私は続けざまに同じ場所を殴ってやった。
「やめてー。血がー血がー」
鼻血と涙を垂れ流しながら豚玉は泣いた。ぶひぶひ。
感想などお待ちしてまーす。けっこうグロい回ですが