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Fish  作者: 真田奏
5/14

夕日と風鈴

 太ももにはおもいっきり傷が残った。記念に傷の長さを測ったら4センチもあった。桜子に刺されたあと、力任せに荒っぽく引き抜いたのが悪かったらしい。だけどこのミミズがジグザグ走行した感じのいびつな傷跡はどう考えても隆行さんの手抜き作業が原因に決まっている。でもこの傷のせいでミニやショーパンが穿けなくなるなんて絶対嫌だったので、最近は傷に抵抗するように積極的にミニを穿いていた。

 深いビルの谷間。周りを囲む建物のせいで、上を見上げても空の面積は狭く、僅かに細長い長方形の青しかみえない。ホコリっぽい匂いと湿った空気の冷たさ、うだる暑さの中ではこんな雑居ビルの裏口でも都合の良い避難場所になる。

「もう痛くない?」

 と風鈴は私の傷を撫でた。

「お前、もっと辛いやつにしろって言ったじゃん?」

 私は店の裏口の階段に座って、カレーを食っている。

「お昼ご飯食べさせてあげてるのに文句ばっかり。しょうがないわね」

 猫を膝に抱きかかえながら風鈴は笑った。風鈴が猫を抱いている姿は好き。特に薄暗くてガラスの破片や、変な魚のマークが入ったダンボールなんかが散らばったこの路地裏では、空間とのギャップでさらに綺麗に見えてしまう。一つ一つの動きが凄く静かで、無駄がなくて油断した表情がない。喋る前に切れ長の涼しい目元をゆっくりと瞬きするところなんて思わず見とれてしまう。モデルでもないのだから無駄な美人って気もするけれども。

「何よーニヤニヤして。面白いことでもあった?」

 そう言って風鈴が急に振り向いたので、私は慌ててカレーの残りを食べる振りをして視線をそらす。

「はい。また来てねー」

 と風鈴は猫をそっとアスファルトに置いた。

「ヒヒヒ。お前さー客に言うのと同じようなこと、猫にも言ってない?」

 猫が名残惜しそうにしばらく風鈴の元を離れなかったので、なおさら店の客に見えてきて面白い。

「あら、違うわ真樹。いつもお客には「二度と来るな」って言ってるもの。心の中で密かにだけど」

「ホントかよーまたキャラ作って「ぜーったい、また来てね」とか言ってんじゃない?」

 私はスプーンで皿を木琴のように二、三回叩き、言った。

「猫の前じゃ、私は正直よ」

 私が皿を鳴らしたのと同じような音を立てて、風鈴は階段を上がって来た。

「私もお前の前にいるのだけれども」

 と私は言った。

「あなたにもこんなチビッ子の頃から餌、やってるでしょ?」

 風鈴は手で私の頭を軽く抑え、言った。

「わたしゃ猫かい」

「そうね。ブチの野良猫」

 そう言い終わると風鈴は私の頭を乱暴に抱いた。

「ああーやめろ! お前は石鹸臭いんだよ」

「はいはい」

 風鈴はカレーの皿を素早く片付けると、これまた素早く私から離れた。

「ねえ? 今度は何が良い?」

 風鈴が聞いてきた。

「ラーメン!」

「ラーメン? あらちょうど良かった。常連さんでラーメン屋の大将がいるのよ。今度来た時に美味しい作り方、聞いておくわ」

(聞くって? ハメられながらか? じゃあハメ聞きだなー)と私は風鈴が作り方を聞いている姿をリアルに想像しつつ「みそ!」と答えた。

「はいはい。みそラーメンね」

 風鈴は嬉しそうに言った。かわいいやつ。

「今日、これからどうするの? 真樹」

 と風鈴は首の後ろで両手を組み、少し腰をひねりながら背伸びをしていた。

「バイト」

 ペットボトルの緑茶を飲みつつ私は答える。

「どんなバイトなの?」

「良いじゃん。何でも」

「真樹……」

 風鈴の表情から涼しさが消えた。少しずつ険しい顔になる。

「短期間でメチャ高収入なやつ」

「マーキー」風鈴、さらに眉が吊り上る。

「お前が思ってるようなバイトじゃないって」私はキレ気味に言った。いちいち、めんどくさい女。

「やだーもう安心したー」

 また風鈴が抱きついてきた。

「だからそれはやめろって! 石鹸臭い!」

 この女は自分が風俗の仕事に浸っているくせに私のこととなると、急に神経質になりやがる。前に私が控え室に遊びに行った時、店長が冗談で「真樹ちゃんうちで働かない?」なんて言ったら、本気で怒っていた。

「もう十三じゃ希少価値ないかな? ランドセルも無理だし」

 と私は反り返って背伸びをする。

「あなたの場合はランドセル背負うと、コスプレにしか見えなかったわね」

「まあ、良いんじゃないんですか? 地球にもマニアにも優しいメス、目指してるし」私はお 尻のほこりを叩き立ち上がった。

「あっ! ねえ、今度、みーちゃんも入れて三人ですき焼きしようよ?」

「はは。風俗嬢にご飯おごってもらって生活してるなんてヒモですな。私は」

「何言ってるんだか、今さら。風俗嬢のご飯でもちゃんと大きくなってるじゃないの。余分なくらい」

「お前の作るご飯、必要以上にタンパク質が入ってたりして。ヒャハハ」と階段から一気に飛び降りる私。

「ああ! 待って真樹ちゃん。月曜日、私休みでしょ? うちに泊まらない?」

 バカバカしい。風鈴はたまに思い出したように一緒に住もうだの言ってくる。

「お前な。野良猫とか気軽に餌やれるからかわいいんだって。拾って帰ったりして、面倒みることが義務になっちゃったりすると、ウザイだけだよ。な? だからお前は気が向いた時だけ「私に餌やってりゃ良いの」

「そんなことない。こんな仕事してる人には結構多いのよ、猫飼ってる人。まあ、中にはホスト飼ってるのもいるけど」

「じゃあ私飼う?」

 私、自分を指差す。

「餌代かかりそうね」

「だから、やめとけ」

 私はそう言ってバイト先に向かった。



 定規で測ったようなきっちりとした形の草木ばかり。

 それぞれ違うデザインの住宅が並んでいるのに、私には全部同じに見える。煙草の吸殻なんかもまったく落ちてなくて、道路も嫌みなくらい補正されていて、私が住んでいる町に比べれば断然綺麗で住みやすそう。でも、何かここに立っているだけで、ストレスを感じるというか私に合わない場所。

 昼なのに人通りがほとんどない。単純な十字路ばかりが続いているのだけれど、それが逆に、自分がどこまで来たのかを分かりにくくしていて、一度行ったきり大嫌いになった大迷路のアトラクションに迷い込んでしまっている気分になった。

(うえ、吐きそう)

 久しぶりに襲ってきたらしい。この迷子な感覚。最近大丈夫だったので油断していたらこのざま。吐き気がして頭の中に大波が立っているみたい。目前に広がるパノラマが歪んだまま回転している。競馬場だとか、人が溢れてる場所だったり、よく知っている場所なら良いのだけれど、こういう静かというか、熱の感じられない几帳面な空間はダメ。とにかく、自分の住んでいるエリアとギャップのあるエリアがたまらなく嫌。なぜかひどく哀しくて混乱した気持ちに沈んでしまう。もちろん、毎回このパターンに落ちるたびに心底情けなくなるのだけれど、こればっかりはどうしようもない。心の奥底にこびりついている何かに体を占領されてしまう。

(あーちょっとダメかも)

 私はその場に座り込んでしまった。太陽の照り返しに燃えるアスファルトの熱さも追い討ちをかけてくる。体が動かない。同時に頭と体が別々になるような変な感覚。このパターンに陥るたびに襲ってくるイメージ。

「お嬢ちゃんー? どうしたのー」

 気が付いてみれば、覚えているのはその間延びした声だけ。目に映ったのはさっきまでの照り返しに湯気を立てていた物から、揺れる葉の影を映しだす冷たいアスファルトに変わっていた。私は、はっきりしない意識を振り切るように頬を二回叩き、周りを見渡してみた。さっきの住宅街だった。単に体と心の不調だったのかな? と思った。でも、上を向くとさっきいた場所にはなかった家のブロック塀からはみ出した葉が風に揺れている。涼しそうに。私は確かに移動していた。より癒される場所に。

「ひゃはははは」

 思わず変な笑いがこみ上げてきた。訳が分かんないけど、とにかく笑える。私だけのオリジナルかもしれないけれど、とにかく、変なことがあったら笑っとけって感じ。

(あ?)

 何かガラガラと音がした。と思ったら、おもちゃの真っ赤なフェラーリに乗った野球帽のガキと目が合った。固まった表情で私の顔を見つめるガキ。

「ははは」

 私は苦笑いしたまま、手を振った。ガキは、凄い勢いでペダルを漕ぎ逃げて、湯げ立つアスファルトの彼方へと歪みながら消えて行ってしまった。私はちょっと恥ずかしい気持ちになりつつもまた光彦の家を目指し駆け出した。

(髪アップしてくれば良かった)前髪が額に張り付く。

 私はダウン寸前のボクサーみたいにフラついて、汗で湿り体にまとわりついた白いキャミの重さと、熱くなったクロスのネックレスを邪魔臭く感じつつ、何とか光彦の家に着くことができた。

 二階建て。玄関先からドアまでの間に右を向けば庭がある。普通の家という以外に例えようがない。でもその小さな庭は綺麗に整備されていて、その整った芝生の緑は何だかとても目に良いんじゃないかなーって気もする。玄関先には鉢植えがドアまでのわずかな距離を道を作るようにして両脇を固めていた。

(歩きずれー)私は鉢植えを一個一個蹴っ飛ばして歩きたいという衝動を抑えつつチャイムを鳴らした。ピロロロロ! ずいぶん間の抜けたチャイムだったけど、すぐ間もなくドアが開いた。

「あぁ! やっぱり真樹ちゃんだ! 待ってたのよ! さあさあ早く入ってちょうだい。光彦もすごく会いたがってたの」

 ん? 真樹ちゃん? 誰だこいつ? 飛び出すような勢いで現れた女は間違いなく光彦の母親だったけど、違っていた。

「今さっき起きたところなのよ光彦。どうぞ部屋に上がってて、何か飲み物でも持っていくから。コーラーとかでいいかしらね?」

 と光彦の母親は階段の下まで私を案内した。

 感じがまるで違う。光彦の母親。良く言えば態度が柔らかくなったという感じだけど、悪く言えばひどくへつらった感じ。だいたい今まで真樹ちゃんなんて気安く呼ばれたことなんてない。チビッ子の頃からこの女には「鮎川さん」としか呼ばれたことがない。親しみの欠けらもないような奴なのだ。三ヶ月前、病院の見舞いに行った時だって挨拶しても返事はなく無視された。最凶にクソババアなのだ。光彦の母親は。

(調子狂うなー。少し怒らせてみますか)

「あのさぁー私ねぇーケーキ食べたいの。それとコーラーは嫌だなー私、炭酸嫌いなんだー」

 とおもいっきり嫌な感じで私は言ってやった。

「あら? 真樹ちゃんって炭酸嫌いだったの? そう分かったわ。すぐ買って来るから光彦と遊んでてね」

(うそーん!)

 肩透かしを喰らった気分。光彦の母親は笑みを浮かべると、素早くサンダルを履いて玄関を出て行ってしまった。私はその場に思わず呆然と立ち尽くす。

「なんだあのババア? 夏の熱で脳みそ溶けてんじゃない?」

 私はブツブツ言いながら階段を上り光彦の部屋に向かった。階段がかすかに軋むような音を立てていた。薄っぺらいベニヤ板の音。光彦のドアにはサーフボードの形をしたネームプレートがかかっている。前からこのプレートは変わってない。波を模った部分がぽっきりと折れているところなんかも。

 私はドアを叩く。

「はい?」ドアの奥から光彦らしき声が聞こえる。

「私」

「ハハハ! 何だ真樹か。ノックなんてがらじゃないじゃん。入って来てよ」

「えーだっていきなり入って、エッチなビデオとかと格闘中だったりしたら悪いですもん。気を遣ってあげているのですわ」

 と私はお嬢様風に言った。

「バカだねー相変わらず。ふざけてないで入って来てよ、早く」

 と光彦の声。

「冷たいツッコミ」と私はドアを開け部屋に入った。

 ?

 一瞬何かとビックリした。光彦の部屋にビックリしたわけじゃない。なんと部屋に一休さんがいたのだ。しかもこっちをみてニコニコ笑っている。

 十、九、八、七……私の中で静かにカウントダウンが始まった。――二、一……!

「ヒャアー! ハハハハハハハハハハハハ!」

 私は絶叫のような笑い声を上げ、膝から崩れ落ちた。お腹が壊れる! 頬肉が吊って痛い! ヒットだヒット! 微妙にポテンヒット! 最高!

「なんだその頭ー! ヒャハハ! ここ寺? ねえ? ここ寺か?ねえねえ光彦、ここ何寺? 光彦寺? ヒヒヒヒィー」

「真樹、笑いすぎ」

 と光彦はベッドに座りムッとした顔で私を睨んでいた。でもまたその顔が面白くて、私は床へと笑い転げていた。

「落ち着いた?」

 光彦は冷めた目で言った。

「悪いね。ビックリしちゃってて」

 と私はブルーのカーペットの上に寝っ転がったまま、腕立て伏せをするみたいにして起き上がった。

「気にしてないからいい」

 光彦はおもいっきりブーたれた顔で言った。

「でもさー、マジでその頭ってなに? 坊主プレイでもしたいの? 私にお札でも貼りたいとか? いやぁーこのエロ坊主」

 そう言って私は両手で胸を隠したままベッドの上の光彦を見上げた。

「ううん。邪魔だから剃ったんだよ。て、いうか剃られたんだけどね」と光彦は自分の頭をさすった。照れくさそうに。

「ふーん。で、調子良くないの? 退院したっていうから治ったのかと思ってたモジャ」

「そんなに簡単に治んないよ。頭の中が腫れてるんだ。だから退院ってわけじゃなくて、少し 病院からお休みもらっただけ」

 と光彦は笑いながらまた頭をさすっていた。

「脳腫瘍って感じのやつ?」

「へえー真樹がよく知ってるね。先生に教えてもらったの?」

「真樹がーって失礼な!」

 と私は手を頭の後ろで組んで背伸びをする。

「先生どうしてる? 会ってるの?」

「普通。だってまだ一緒に住んでるし」

「えっ? でも真樹のお母さんと先生って……」

「別れましたよん」

「それでも先生と一緒に暮らしてるの? 二人っきりで?」興味深そうに光彦はベッドから少し体を乗り出す。入院暮らしがよほど退屈だったのか? 話題に飢えた主婦みたいだった。ワイドショー好きの。

「別に暮らしてるって言ってもさー、あの人昼はいっつもいないし、夜は警備の仕事してるし、ほとんど顔なんて合わせないのです。はい」

「ふーん、なるほど。なかなか複雑ですなー」と光彦は何を勝手に納得したのか知らないけど、腕を組んで一人、唸っていた。

 久しぶりに会ったけど光彦の顔色はなかなか良いように見えた。肌は少しだけ白くなった感じがする。元々細い奴だったので頬がこけたとか、前と比べて少しやつれたとかいうのは分からない。でもとくに病人っぽい感じはしなかった。あくまで私の感覚的なものだけれども。

 光彦はダムが崩れたように凄い勢いで喋り始めた。小学校時代のことや、まだ隆行さんが診療所をやっていた頃のこと。砂場で私と一緒に持ち出した聴診器を埋めて隆行さんに怒られた話。……などなど過去の話ばかり。まるで今あっている出来事のように。私はそんな光彦の話をただじっと膝を組んで聞いていた。

「へへ、なんか自分ばっかり話してるよね。ごめん。つまんないよね」

 急に我に返ったらしく、光彦はすまなそうに言った。

「つまない話なら聞かないよ、私。ねえ? 知ってるでしょ?」

「ああ! よく朝礼中に勝手に帰ってたよね。真樹は」と光彦は声のトーンを上げ、言った。

「しょーがないじゃん。だってアクビが出たんだよ? そしたら急に悲しくなっちゃってさー、しかもなんかブラ紐のところが痒いの。もうこれは帰るっきゃないって感じでさー」

「ハハハハハ! バカだ。バカマキだ。ハハハ! 最高!」

 光彦は笑っている。ホント、楽しそうに。

 ――ドアをノックする音がした。わざとらしい。勝手に入って来ればいいのにと私は思った。

「光彦ちょっとこれ取って。両手塞がってるから」

 僅かに開いたドアの隙間からスプライトのボトルを持った手が出てきた。光彦の母親が帰って来たらしい。

(おいおい、結局炭酸かよ)

 このババア嫌がらせか? と私は思った。

「母さんいいよ。自分でやるから」

 光彦はさっとベッドを降りると、母親から差し出されたスプライトを受け取った。

「はい。これケーキとコップね。それじゃ母さん、ちょっと買い物に行って来るから真樹ちゃんもゆっくりしていってね」

 と光彦の母親は私が今まで見たこともないような笑顔を振りまいて、下の階へと消えた。私に気を遣っているみたいだった。まったく信じられない。

「露骨に変わっだろう? あの人」

 私の顔の前でケーキの入った箱を軽く上下させると苦笑いして、光彦は言った。

「おい光彦。オバサンって頭の中に虫がわいてんじゃない?」

 と私は光彦の着ているシャツの袖を引っ張った。

「虫はひどいなあ。一応親なんだからさー」

 そう言って光彦はコップにジュースを注いだ。

「だって光彦の前の家があったじゃん? 引っ越す前の。そこへさー私が遊びに行くたびに露骨に嫌な顔してたし、ウチの母親がさ、家にいないのをさ、知っててさ、「早く帰んないとお母さん心配するわよ」とか嫌味言うし。ホント、どーやったら私を家に帰せるかそればっかり考えてた奴だぞ。それが見た? 今の態度。気遣ってたぞ。しかも笑顔でスマイルで、つまり「ドイツ語で言うと……わかんない」

「あの人ね、たぶんあの人、僕のことを今本当に一生懸命やろうとしてくれてるんだ。変わったのはつい最近なんだけどね。検査後でさ、急に担当の先生にお休みもらったから帰ろうかなんて言ってきてさ。真樹に遊びに来てもらおうって言い出したのもあの人なんだ」

 少し窓の外へと視線をはずし、光彦は言った。

「あーん、ショック! それは残念。本人が会いたかったわけじゃないんだ?」と私は薄笑いを浮かべる。

「違うよー。僕も会いたかったんだって。でもほらさ、真樹が僕に会いに来てくれたとして、あの人が前みたに嫌な顔して真樹に嫌なこと言ったりしたら、それは僕も嫌だなーと思ってたんだ。だからさ」

 光彦、相変わらず細かい奴。病気になっているっていうのに、私だけじゃなく自分の母親にまで気を遣っている。

「でもさ、あれくらい母親の態度が露骨に変わるとさ、嫌でも分かっちゃっうんだよね。かなりやばいってのがさー。あの人不器用だからすぐ顔や態度に出るんだもん」

 と光彦はまたベッドから降りると部屋の右隅にある机に座った。

 少しの間、光彦は私に背を向けたまま無言で座っていた。私も何も言わなかった。光彦が話したくなれば、また私に話しかければ良いのだ。帰って欲しければ私は帰るし、このまま静かにいて欲しいならそのまま。私はそう思って、光彦の座った机の横にある窓から外を眺め、ただぼーっと風に揺れるレースのカーテンを見ながら、(カーテンも良いなー自分の部屋もカーテンに戻そうかなー)とかくだらないことを考えていた。

「真樹……真樹!」

 名前を呼ばれている。私はその声に反応してゆっくりと目を開けた。

「うああ! ハゲ!」私はビックリして叫んだ。

「ハ、ハゲって、これは坊主!」

 目の前にはムッとした表情で自分のハゲ……いや、坊主頭を指差す光彦がいた。

「ああ? 光彦か。ん? どした?」

 私は寝ぼけていた。壁に寄りかかったまま寝てしまっていたらしい。

「普通、人の家来て勝手に寝るか?」

「ふうー。寝ちゃったかー。ごめん」

「困ったよ。何度呼びかけてもなかなか起きないから」

「そう? 頭でも叩いてくれれば起きたのに。つねるとかさ」

 私は座ったまま腰を横にぐぐっとひねった。骨盤がポキッと鳴った。気持ち良い。

「そんなことできないよ」

 光彦はまたブーたれた顔で言った。

「別に良いのに。慣れてるから」

 と前髪を指で揃えながらアクビをする私。チビッ子の頃、起こされる時はだいたいつねられるか、殴られるかだったので、ある程度激しいショックがないとどうも起きられない。別に低血圧って感じでもないのだけれども。

「でもそれ、先生の家に来る前だろ?」

「うっす」

 私は短く返事した。

「ねえ真樹。いいかな? そろそろ。準備できてるんだけど」

「OK!」と私は親指を立てた。

 私は着替えが早い。下着をはずすのはもっと早い。素早く裸になると私は腰に手を当てて「どんなポーズが良い?」と言った。

「うーん。じゃあ横に机の椅子があるだろ? そこに座っててくれればいいから」

 と光彦は画板を持ってベッドに座ると、机の方を指差した。私は光彦の言ったとおりに椅子に座った。ごわごわして変な感触がした。足を治療中に裸でよくソファに寝っ転がっていたけど、その時と同じ感触。

 私のバイトが始まった。光彦の絵のモデル。自給一万円の超高額アルバイト。光彦はベッドの上であぐらをかき、その上に画板を置いて鉛筆を走らせている。私はちょうど光彦の正面に椅子を持ってきて両足は普通に揃え、腕は胸を持ち上げるように胸の下あたりで組んで座った。光彦が私から目を離し、画板に視線を向け描いている時は足を開いたり閉じたりして遊んだ。どっちにしろ大事な箇所は長い髪のおかげで隠れてるし。まさにヘアーをヘアーで隠してるって感じですな。キシン、アラーキーって感じ。

「ねえ光彦さー、この状況見たらいくらオバサンが変わったっていっても怒るよねん?」

「まあ家に限らずどこの家でも怒るでしょ。普通は」

 私の方を見ず、描く手も止めず光彦は言った。

「お前が前みたいにウチに来られたらねー。良いのにねー」

 と私は一回大きく背伸びをし、肩や胸といった体の前の部分にかかった自分の髪を一斉に後ろへ弾き飛ばすように除けた。光彦が描きやすいように。

「動くなよ」光彦が言った。

「悪いね」

 私は体勢をすぐに戻す。

「真樹さ、お金どうしてる?」と光彦は聞いてきた。

「金? あん、お前が入院する前にくれたやつか。まだ使ってないよん。返そうか?」

「やめてよそういうの。僕が真樹をモデルとして契約して払ったお金なんだから好きに使ってよ」

 光彦はさっきまでのすねたような顔ではなくて、本気でムッとした顔をして言った。

 小六の夏、光彦は入院した。その数日前から私は光彦専属のモデルになった。自給一万円。私はその時、別に理由も聞かず「ご自由に」とか言っていたくらいの記憶しか残ってない。お金に関してはくれる物ならもらおうと単純に思った。私が諭吉を受け取ると光彦は嬉しそうに「契約成立だね」と言った。だけど、光彦が入院したあと、なぜかそのお金は使う気になれなかった。

「あーダメだ」

 と光彦は紙を画板から離し、手に取った。

「良いよ。気にいるまで描けば?」と私は言った。

「これ見て」

 そう言うと光彦は自分の横に何枚か重ねて置いてある紙のうち、二枚目のやつを取り出し左手に取ると、右手に、さっきまで絵を描いていた紙を持って、並べるようにして自分の顔の辺りまで上げ、私に見せた。比べて見ろということらしい。

 両方の絵とも同じ絵だった。どっちにも私がいる。

「それがなにさ? どうした?」

「左手に持ってるのが一年前くらいに初めてモデルをやってもらった時のやつ」

「ふーん。でっ? それがなにモジャ?」

 と私は光彦のすぐ前まで行って、改めて左右の絵を見比べて見た。

両方の絵とも鉛筆で描かれた物だったけど、左手にある絵の方は顔や体はもちろん、影や髪の毛の一本一本までしっかりと描き込まれているのに比べて、右の絵は当然私がここに来た時から描き始めたものらしく、簡単な荒い腺の束を重ねただけの下書き程度の物だった。

「全体的にも部分的にも大きくなっちゃってるんだよね」

 張りのない小さな声で光彦は言った。確かに言われてみれば小六の時に描かれたやつは胸もなく、ずん胴。それに比べて今光彦が描いているやつは腰もくびれているし、ツンっと上向きの胸もしっかりあって良い感じ。

「ほう! 短時間でちゃんと発育していますなー。大変よろしい!」

 と自分の絵に大きく肯く私。

「へこむなあー」

 と光彦は薄笑いを浮かべ、うなだれた。

「はあ? なにが? なんでへこむんだよ。お前、もしかしてこっちのずん胴の方がタイプなわけ? マニアックな坊主だなー」と私は光彦に近づき、小六の時に描かれた絵の方の紙を指で弾いた。

「いやさ、なんていうかさ、その、入院してる時って全部単調なんだよね。朝ご飯、検査、お昼ご飯後必ず話かけてくる看護婦さんに午後九時の消灯。ホントにそのサイクルがたんたんと回っててさ。病院なんだからしょうがないんだけどさ、なんか変化ないっていうか、僕もさ」

 そう言うと光彦は言葉に詰まったらしく黙った。私はなんとなくだけど光彦の言いたいことが分かった。だけど、少し言い表すのに難しくて私はただ小指の爪をがじがじと噛む。

「まぁ、病院にはこんな裸で座ってる女なんていないから、それは退屈だろうけど、病人には「刺激がないほうが良いのじゃないですかねぇー」

 頭をかきながら私がやっと出た言葉がこれ。まったくなに言ってんだか私。

「空気悪い気がするんだよね。病院って」

 と光彦はポツリ。小さくまとまった一休さんみたい。とんち効いてねぇー。

「じゃあいつも私が吸ってる空気とあんまり変わんないじゃん。――変わんないよ」

 と私は窓の外へ顔を向けた。

 次第に私と光彦の間に会話はなくなっていた。軽快なペンを走らせる音と、重くうなるエアコンの起動音だけが部屋に響いている。私は別に冷え性というわけでもないのだけど、さすがに裸で長時間はきつくなってきた。エアコンの冷気がびしびし肌に刺さる。

「光彦、エアコン止めろ。子宮が凍る」

 と私は自分の下腹部に手を添えた。光彦はそれを聞くと無言でリモンコンのスイッチを押した。結構集中しているみたい。

「おっ。真っ赤だ」 

 と急に画板から顔を上げた光彦。

「あん?」

「ほら、真樹の体」

 という光彦の言葉を聞き、私は自分の体を見てみた。

 なんのことはない。ただ、夕日の赤だった。私の体は腕や足の境界線もろとも消え去るみたいにオレンジに燃えていた。胸に引っ付いてる二つの脂肪の塊も赤ピーマンのように染まっていたけど、両手で手ブラを作ってみたらやけにそこだけは冷たくひんやりしていた。ヌーブラって付けたらこんな感じがするんだろうなぁーたぶん。

「お昼はもう終わりですな」

 と私は自分の鼻先を摘み、引っ張った。

「だね。早いねーモデルさん」と光彦は画板を下ろした。

「終わりだ。帰っていいよ」

 光彦は笑った。

「さいですか。お坊ちゃま」と私はベーと舌を出した。

 私を燃やしていた夕日も段々と消えうせて周りも暗くなってきた。

「えらくとろいね真樹」

 私の背中ごしに光彦の声がした。私は振り返って、

「こっち見るなって。服着るとこ見られるの嫌なんだよ」と言った。

 脱ぐってのは勢いがあってスッキリしてて良い。でも下着とか、とくにパンツなんて穿く姿はどうやったってモタモタして情けないスタイルになる。パンツに足でも取られ、こけそうにでもなったら最悪。そんな姿だけは誰にも見せらんない。

「変な奴。裸は平気で服着るとこが恥ずかしいなんて」

 と光彦は床に座り込んで私の背中を見上げている。足を組んだ体育座りで。

「その格好、お前の方が変だぞ。なにか中年の哀愁みたいなものを感じる」とパンツの左端だけをキュッとウエストの辺りまで引っ張り上げる私。

「あっ気にしないで。どうぞお着替えください」光彦は無表情で首をこきこきと鳴らした。

「だぁー! だからこっちを見るなって! 着替えられない!」

 夕日はもう消えたのに、私の顔は燃えていた。パンツ半分、ずり落ちたまま。


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