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Fish  作者: 真田奏
14/14

燃える日

 ガキの泣き声がする。でも、何もする気がしない。隆行さんのオシッコが入ったペットボトルに歪んで映る横たわった私の顔はケンシロウに言われるまでもなく、もう死んでる。気分次第でガキをかわいがるなら誰にでもできる。桜子ならもし今私と同じ状態であったとしてもガキが泣けば飛んで抱いただろう。いや? はは、死ねばイメージが倍くらいは良くなるもんだなと私は笑う。だって隆行さんは私の中にパンクさせられてしまいそうなくらいのデカいキャパを作ってしまった。死んだからこその技。

(キャラじゃないキャラじゃない。平気のはず。私はそういう風にできてるんでしょ?)

 膝がガクガク震えて力も抜けてなんて風になっていたら、私もさぞかし今よりもかわいくなれるのだろうけど、そうもいかないらしい。

「はぁー」

 なんだろうこの溜息。さっきまで何時間も縮こまり、喘いでいたというのに。もう今こうして隆行さんの抜け殻の前で冷静な溜息を吐いている私。あークソ! かわいくねー私。もっとかわいくなりたーい! と下唇を噛んでオカマみたいにキーと言わずにはいられない。

(さて、どうする私?)

 雪樹に連絡するか? 死んだんだから隆行さんも気にしないだろう。雪樹はどう思うだろ? あー嫌だ嫌だ、あいつのことなんて考えたくもないと私はせっかく立ち上がったのにまたその場へとしゃがみ込む。でもまたすぐに立ってまたしゃがむ。アホなヒンズースクワット。

「もう、帰って寝ようかな」

 つい数時間前まで強烈に私の帰巣本能をかき立てたこの場所がもう今では砂漠のど真ん中にあるくらいの価値に大暴落していた。結局、場所じゃなかったんだなって思った。家なんて。

「さしずめお前はここか。家」

 と私は泣き疲れて眠ったガキを抱く。これの方が楽だなって一人肯く。『家』という物に化した方が色々考えなくて良い。当分こいつの家に化けよう私は。隆行さんのリクエストは終わったし。

 様々な音が聞こえる。車やバイクの音に踏み切りのシグナル。遠いのか? かすかにラーメンのチャルメラみたいな音が聞こえる。笑点と並んで小学生が帰りがけに縦笛で吹く曲オリコン一位。だんだんとその音が近くなる。家の前を通っているのかな?

「チャララーララ、チャララララララー♪」

「って! 口で歌うんかいっ!」反射的に私はツッコミ。

「なんだ分かってたのかー。殺すぞボケー。かかってこーい。キャハハハハ!」

 死体に呼ばれて死神が来た。冬実。

「派手に弾けちゃったねー先生。でもまだ混じってる。ここにー」

 と私の乳首をグリグリ指でつっ突く冬実。

「うるさいっ! うるさいっ! 帰れ冥府に。死神」

 そう半笑いのまま私はバンバン冬実の頭をどつく。

「ぼよーん、ぼよーん。こんなん出たぁー」

 ビックリ箱から飛び出したバネ人形みたいに冬実は舌を出したまま首を大きく左右に揺らす。

「終わったか隆行?」

 えっ? 私は後ろを振り返る。あっ? 何だこのジジイ? Tシャツ短パンのジジイが立っている。このクソ寒さに。

「何? 誰?」

「ここで栗食っとただろうが? 俺」

 と暗い部屋にトウモロコシみたいなジジイの歯だけが光る。黒子? サンコン? クロマティ? 

「んー。おもろい顔で死んでる」

 ジジイは死体の脇をくすぐった。

「どうだ? 腹が立たんだろうが。もうこれ、抜け殻だからだ」

 正直私はムカついた。でもそれはジジイがやった行為にじゃなくジジイの言葉が当たっていたから。

「腹、立たねーよ。なんでだろう。教えろ」

 私は自分の後頭部をかいた。

「運ぶぞこれ。ガキ抱いてついて来い」

 とジジイは死体を背負い立ち上がる。

「どこに行く気? 病院? 死んでるのに?」

「仕事せにゃー。金もらっとるんだから」

「良くしんないけど腰抜かすじゃねーの? おいワカメ、手伝ってやりなさい」とサザエさんの波平役を演じながらキョロキョロする私の目に冬実は映らなかった。どこにもいねー。あいつはホント、また消えやがった。ムカツキ通り越して『キ』だけだマジで。

「抜け殻だからな。軽いもんよ。昔は何キロってリュック背負ってテッポウ、撃っとったんだからな」

 そう軽々と死体をおぶったジジイはたちまち玄関まで歩いて行って外の闇に消えていった。

「ジジイはやっ!」

 と私もガキを抱き直し部屋を飛び出す。一瞬、振り返ったりはしたけどね。

 


「あー。あれだ。生理だ。ジジイ生理だろ?」

 とスタスタ高速道路の下、高架の屋根が伸びる川沿いの歩道を歩くジジイの前へ私は回り込む。

「わけの分からんことほざくな、重いんだぞ!」

 私、ジジイに一喝される。そうだ。思い出した。雨がスゲェー時に隆行さんと栗を食っていたジジイだ。生理痛の地獄から少しばかり解放されかけていた時のことだからよけいによく覚えている。痛みと匂いはその時々を色々思い出させてくれたりする。

「あーやっぱり重いんだー。ジジイだからぁー重いんだあー」

 そう私が後ろ指を差していたらジジイは急に立ち止まり、手すりをまたいだ。土手を下りるつもりらしい。さすがに昔リュック背負ってテッポウ撃っていただけはあると思った。滑りやすい短い草で覆われた土手の斜面を横に、ジジイは半身の体勢になって、斜面の下側になった右足を力強く地面を突き刺すように踏みしめ軸にして、上側の左足をすり足で動かしその軸になった右足を少しずつ下に押し出すように前へ進ませゆっくり土手の斜面を下って行き、次第に坂が緩やかになったあたりでスノボーをしているみたいに一気に滑り下りていた。やっぱ昔、猟師とかだったのかな? うーん、言われてみれば熊とか狸とかの毛皮が似合いそうにも見える。私もジジイの真似をして土手の斜面をスノボースタイルで滑り下りてみようと、手すりを石原軍団風刑事みたいに飛び超えて土手の斜面に突っ込んでみたいと思ったけどガキに両手を塞がれていて×。ちょっとだけ家から出られなくて不満タラタラで出会い系サイトにハマる主婦の気持ちが分かった。しかたなく私は土手に寝そべってガキを抱いたままコートをソリみたいにして土手を滑る。で、急には止まらず土手の下に生い茂るススキの群れに突っ込み、ホコリっぽいクッションの上に落っこちたみたいに小さな虫が一斉に湧き上がって私の上を飛び回る。これが蛍だったらかわいいのにどう見ても図鑑にすら載っていない粉のような虫ども。やれやれと私はついさっきまで白いはずだったコートを脱ぎ、ガキを包む。たしかこれ二、三万はしたのに完全に今夜からはガキの毛布だ。えらいこっちゃこれ。私、どんどんやる気をなくしてきちゃってる。自分に対しての。

「あーしんど」

 ススキの茂みから体を起こして目の前に広がる黒い川を眺める。気味の悪い、昨晩飲み過ぎたオッサンが歯を磨いている時のような声がした。ゲーゲーと。たぶんカエルかなんかだ。あとはなんか色んな虫の鳴き声と羽音が混ざったこれは自然の騒音だなと思えるような音が一面に鳴り響く。車のライトか? 遠くの方にちらほら見える光り。けどそれほど多くない。街灯も川の向こう岸にはないから視力の弱い私にはもれなく真っ暗だ。

「おーいジジイ! なんか分かんねーから私を探せー」

 と怒鳴ってみる。

「遊ぶな」 

 ジジイの声がしたと思ったら私は頭を鷲掴みされ激しくシェイキングされた。おおっ? 結構凄い力だ。

「起こしてくれー」自分で立つのが面倒くさいのでジジイに起こしてもらおうと思って、でも、そういえばジジイは隆行さんの死体を背負っていたんだってのも思い出し、やっぱり自分で立たねーとダメかとブツブツいいながら横にガキを置こうとしたら脇の下に手が入ってきてグイーと私の体は上に引っ張り起こされた。

「あれジジイ? 死体は?」

「もう置いてきた。お前も来い」

「どこに? あいにくコブ付きなもんでねーあんまり遠くには行けないのだよワトソンくん」

 とガキを肩の辺りまで抱き上げ私は言った。ジジイは何も言わず歩き出したので、きっとついてこいということなんだろうと私はただそのジジイの背中を追っかけた。川の中の中洲と呼べないほどの小さな砂利の丘みたいな物が高速からの光に照らされ、なんかほんの一瞬だけなのだけど、私の目にはそれがとても綺麗な物に映ってしまっていた。だけど、さっきキラキラ光るオシッコの入ったたくさんのペットボトルに囲まれていた女としては綺麗でも素直に喜べねーこともあるなと思わず感慨深げになってしまう。

「おーいジジイ。カエルうるせーな? ここら辺いつもこんな感じ?」私は聞く。

「ウシガエルか? 今朝食った。食いたいならあとで食わせてやろうか?」

「そんなんいらない。私、そこまで汚れじゃないし」

「スーパー行って、グラム八十八円のササミ買うより美味いぞーい」

「なんでそこで語尾を伸ばす? かわいくもなーい」

 たまに蔦みたいな物へ足を取られながら歩くのが早いジジイに時には追いつき時には引き離されながらひっそりと沈んだ河原の闇を歩き続ける。なんか無限の時間を歩いているみたいな感覚に襲われた。後ろを振り返るともう元には戻れない場所に飲み込まれてしまいそうな感覚。アイドル風にコメントすれば、「鮎川的にわぁーこういうのー嫌いじゃない人なんですぅー」って感じのスリル。とたんにさっきまで静かにしていたガキがなにやら活発に手足をバタつかせ始め「あー、うはー」と遠くにいる人間を呼びつけるみたいな声を上げた。相変わらず起き立てのモモンガの如くなりってやつだ。

「おー」

 とジジイが自分の頭の位置くらいまで高く上げた両手を叩く。私は何事? って感じでジジイの後ろに近づき一発頭を叩いてやろうと手を振り上げたのだけど、ジジイはその私の手を後ろへ振り返りもせず頭を前に倒してかわす。

「おっ! 達人ぶりやがって」私が言うと「ほら、あそこ」とジジイが指差したので見てみるとおぼろげに光る二つの点が浮かぶ。そろって目玉をデメキンみたいに見開いた二人の男が自分達の後ろをさかんに指差していた。ジジイ後ろっ後ろって感じで。納得。

「どう?」

 そう言いながら二人の男に近づくジジイ。一人の男はたぶんライトだと思うけどそれでジジイの顔を照らしたり、自分の顔を照らしたりしながらさかんに相槌を打っていた。そんで、自分の顔にライト向ける度に変顔のオンパレード。タコの口とか肉まんみたいに潰した顔とか。なんか泣かされたフグみたいな顔した奴。

私は退屈なのでアクビをした。するとライトがいきなり私の足元を照らし、そのライトは私を確認するように下から上へまるで舐めるように照らしつけると消え、また点いたかと思うと、今度はカチカチとした音と共に赤いライトも混ざりながら点いたり消えたりを繰り返し、やがて消えた。

「分かんない?」

 声と同時に急に後ろが明るくなったなと振り返ったらメガネが光に浮かんでいた。私はとくにこれといった反応もせず、そのメガネをじっと見つめる。

「なんか用?」私は言う。

「あいさつ分からなかった? ほら」

 とメガネをかけた男は自分のアゴの下でまたライトを付けたり消したりした。冴えない顔のメガネ男。赤いメガネの淵がさらにどこか首を傾げたくなるような気分にさせる。隣の家の、夫から暴力を受けている奥さんをいつか俺が救ってやるぞと望遠鏡覗いて拳を握り締めている三浪の男みたいな奴。

「ほら、こんばんわ、こんばんわ。あなたのお名前は? とか、撃てー止まれー退けー、ねっ? 分かんない?」

 男はしつこくライトをパチパチ。

「信号かなんか?」私は聞く。

「ライトとさらにライトのスイッチが切り替わる音も合わさった二重の信号なのに」

「ふーん。それってポピュラーなの?」

「ううん。俺が独自に考案した『もんた信号』」

 と男はほざいたので私は、

「お前もんたって言うのか?」と聞いた。

「聞かないでそんなこと。昔の名前だ」

 男はライトをまた点けてちょっと寂しげな顔をした。

「お前の寂しげはいいからジジイは? 何すんのか教えろー」

 と私は声を荒げた。

「あんた、美人だけどかわいくないね。まあいいや、ついて来て」

 と男は歩き出した。私も後頭部をかきつつ、ついて行く。やがて人込みのざわめきみたいな、でも静かでどこか色んなものが混ざったような夜の唸りと、一台、二台、ぽつり、ぽつりと聞こえてくる車の走行音と共により深く濃くなった闇の中、私が顔を上げるとそこには橋げた。たいそうご立派なT字型の柱の横にジジイはいて、さっきまでライトで百面相をして遊んでいたデブは柱が地面と接している一番下の部分の一回りほど丸く太くなっている所、鉢植えの鉢みたいになっている部分に腰かけていた。死体は見当たらない。

「おいっジジイ! どこやった?」

 と私は叫びながら歩いた。

「何が?」

「ほとんど隣り合わせだろうけど殺すぞジジイ」

「あそこ」

 あっけなく答えたじじいの視線の先に顔を向けた私の目にはドラム缶。緑の。少しの間、私はダッチワイフみたいに口を開け立ち尽くし、しばらくして意味に気づくと慌ててダッシュでドラム缶の中を覗いた。

(いた)

 中には毛布でくるまれた隆行さん。膝を折ってうずくまった形で。

「どうするつもり? だいたい想像つくけど」

 と私はドラム缶に手をかけたまま首だけ後ろを振り返る。

「堂々としすぎだお前。もう少しうろたえろ」ジジイが言った。うっせい! と思った。だってドラム缶に入っている物は隆行さんの死体に、横には青、白、プラッチックのタンクが二つ。すでに隆行さんの髪はプールから上がったばっかりみたいに髪がべっちょりと包んでいる毛布もろとも濡れているし、隆行さんと缶との隙間には間を埋めるように薪が詰め込まれていて、ついでとばかりにお菓子の袋だの落ち葉だの、ひどいことに魚の骨や玉子の殻みたいな物まで捨てられていた。物凄い匂いだ。ガソリンと生ゴミ、何ヶ月も風呂に入っていないであろう死体、大量の生唾とゲロが口から扇形に放射されてしまいそうな気分にさせられる。おお、神よ。臭いです。

「火葬場で良いじゃんこんなの。なんでわざわざこんなとこで」と私がほざいていたらジジイも私と同じようにドラム缶を覗き込み、

「おう、俺だってそう言ったわ。でもこうしてくれって真面目腐った顔で言いよるし」と言った。ジジイが自分の踵を浮かせ、背伸びをし、ドラム缶に手をかけてやっとの体勢で立っているのを見て私は、よくこんなスケールの小さい体でいくら痩せてガリガリになった隆行さんの体だとはいえ、あの家から一時間近く背負って、そんでこのドラム缶に放り込んだなんて信じられない。たぶんかなりの歳なはずなのに。うーんもし私が昭和生まれだったら惚れてるぜっ! んなわきゃない。

「隆行さんなんて言ってたわけ? ちょっと教えてみ?」

 と耳に手をかざしてジジイの顔に近づける私。

「とりあえず燃やすぞ。いつまでもこんなミカンの皮とかゴミと一緒じゃ浮かばれんし」ジジイは眠いのかアクビをしている。

「はあー? このゴミてめえが入れたんだろうが?」

「知るか。俺の仕事は隆行が死んだらその体を運ぶ、んー、それだけだ。ドラム缶やら準備は後ろの二人がやる。そう決まっとる」

 そう言ったジジイの言葉に私はパッと振り向き後ろのデブとメガネを睨んだ。二人はそろってジジイ、ジジイがやったんだよって感じで口をパクパク動かしながらジジイの背中を指差した。どっちがホントのことを言っているのかなんて明白だったけどまあ、ゴミを燃やすってのも合理的で悪くはない。深く追求しないでおこう。

「もう油はかけてあるから火、付けるだけね? ハイ。熱いから気をつけて」

 と声が聞こえたのでなんじゃ? と私が思う間もなく背中がホットホット! 

「うやっー!」

 私はエビ反りでぶっ飛んだ。

「パチパチっパチパチってぇーなんか、なんか焦げ臭いぞ! 何だこれ?!」

 私は背中に手を回して怒鳴る。手を見てみると縮れてベビースターラーメンみたいになった私の髪が無数にくっ付いていた。

「いやーちゃんと燃えるかなって実験してみただけなんだけど、やっぱ燃えたね」

 メガネの男は風に揺らめく真っ赤な炎を右手に笑いやがった。私はすくっと立ち上がると無言無表情で近づきメガネの男のみぞおちに掘り込むような蹴りを喰らわす。たぶんガキを抱いていなくてもパンチじゃなくてキックだった。触りたくないくらいにムカツキ。

「お、お、おごごごごご。やめてよ、やめてよもう。蹴らないでよ。仲良くしようよぉー」

 と砂利に崩れたメガネの男に目もくれず私は男の手から地面の砂利に落っこちたタイマツを拾い、

「お前が試せ」とメガネの男に投げつける。男はひいーと背中を砂に擦り付けて遊ぶ馬みたいにバタバタと地面へ転がって必死にタイマツの火を消そうとしているのかそれとも火自体から逃げようとしているのか分からないけど、とにかくとても貧素に火と戯れておいでなのであった。

「ほらもう一つあるからこれで火、つけな」

 とデブの男がタイマツを私に差し出した。火に照らされたせいでTV放送が全部終わった時に出てくる画面みたいな虹色のセーターを着ているのが分かった。なぜかネクタイもしている。

「さんきゅーデブ。お前は焼き豚にしないぞん! いつか酢豚で食っちゃる」と新しいタイマツを受け取る私。

「あいつ悪気ないから。ただ常識ないだけだし」デブはメガネをかばっていた。(悪気がないから逆に嫌なの! ああいう奴は)と私は言おうとしたけどやめた。デブに免じてメガネを許す。心の広い鮎川さん。もうすぐ十四。大人じゃーん! けっ、くだらね。

「じゃあ、火葬ショーの始まり始まり」

 とタイマツを高く高くかざす私。橋の下、天井のコンクリはたぶん建築されて初めてだろう、光に、それも火に照らされることなんて。

 火の赤に驚いたのかゴキブリみたいな虫がそさくさと逃げる姿を多数目撃。コンクリの汚れなんかもタイマツなんて自然で不安定な灯りを受けると怪しい壁画みたいにも見えてきてなんだか笑えた。まるでお化けがダンスしているみたいな汚れ。

「おい、火は投げ込め。直接いくと危ないぞ。すぐ燃え上がる」

 ジジイが私に注意した。小賢しい真似を。ジジイのくせに。

「うん、最近はそうみたいね。分かってる分かってる」

 と私はドラム缶から二歩くらい後ずさりして、アンダースロー気味にタイマツをドラム缶へ投げ込む。火は車輪みたいに回転しながら弧を描いて缶に落ち、私の目が点になるほどビックリするような火柱と、目の前を新幹線が一気に駆け抜けたかのような迫力のある音と共に燃え上がった。ここで一応、私は女の子らしく驚いてしゃがみ込んでしまったということを付け加えておきましょう。名誉のためにね。

「お前、中に何入れた?」

 メガネが言った。

「いやー全部灰になるまでなんてわかんねーからさ、油だけじゃ弱いかなーと思って、とにかく力のあるもん入れたれと思って、火薬とかよ、ちょっと昔の現場から拝借したんだ」

 デブは頭をかく。

「爆発したりしないのかい?」

「さー、でも大丈夫だったじゃねーか俺達。柱の後にいたし」

 とデブはメガネの肩を抱いている。「まあな」とメガネも納得したような顔をしてデブと拳と拳をぶつけ合っていた。私はまた世の中に殺したい奴が二人増えたのと、もう少し労わってもらえるようにかわいくなりたいなんて、燃えさかる炎の中で灰になろうとしている隆行さんの抜け殻に願ったりした。

「おう。座ろうや」とジジイが私の前にビールケースを投げつけてきた。転がって私の脛に当たる。痛い。私はガキを抱いていて両手が塞がっているので、足を上手く使ってビールケースをひっくり返し、座る。

 変なキャンプファイヤー。そんだけの感想だった。ドラム缶から上がる炎は、はしゃぐ子供みたいに元気に弾ける音を上げながら踊り狂い、上を走り去る車の音や振動はもうほとんど聞こえなくなっていた。背中は肌寒く胸は素直に喜べない火の暖かさで覆われている。ジジイは私と同じにビールケースに座り、メガネは地べたに体育座り。デブはまた柱の出っ張り部分に腰かけていた。とても静か。静かにみんなで火を囲んでいる。

「痛くなかったか? ケースが当たっとっただろう? 脛に」

 ジジイは言った。

「痛かったよ。物凄く」私は短く回答。

「ふふん。へんな娘」とジジイも短く。

「我慢してるのか? お前」

 デブの男が言った。

「我慢? 何を? なんで我慢なんかしなくちゃいけないわけ?」

 私はデブを横目にほざいた。

「今時の子ってこんな感じなんですかね? ジイさん?」

 メガネが私を指差しながら半笑いで言った。何だかバカにされている気がした。

ジジイが立ち上がってデブの座っている柱の後ろに消え、少し間を置き、また戻ってきた。手には紐で結ばれ、束になった大量の薪があった。ジジイは薪の束を地面に下ろすと色や形の悪い先が割れたやつを束から一本抜き取りドラム缶に投げ入れ、再びビールケースに腰を下ろすと「そっかぁ? 昔にいた女のタイプだぞこいつ?」と笑った。

「昔っていつだよジジイ」私が聞くと、ジジイは「戦前」と答えた。

「アホ。昔どころじゃねーじゃん。もう歴史じゃんそれ。教科書に載っててテストにも出てきそうな時代の話するな。頭が痛くなる」

 と私が舌を出すと、メガネは、

「ボケたジイさん? どう見ても支えそうじゃないよ。旦那さんとか家をこいつ。過去外人のお嫁さんにしたい女性ナンバーワンになった大和撫子の微塵もないじゃん。まあアメリカ女よりはマシだけど」と言った。

「あー知ってる。えっと料理作る女は中国人。愛人とか、恋人はフランス人で嫁さんは日本人が最高ってやつだろ?」

 さっきまでボケーとしていたデブが身を乗り出して喋り出した。

「あーだからジイさんが言ってるのは昔の女ってのはジイさんが世話になった風俗嬢っていうか昔なら遊女か? そういう女でしょ? 根性決まってるっていうか冷めてるっていうか。なら話は分かるよ。この子どこか妖しいもん。色もんの匂いがするもんね」

 そう言ってメガネはただ私に触りたいだけなのか、盛んに背中を叩いてきたり肩に手を回してきたり、寄りかかったりしてきた。痛いのを我慢するよりこっちの方がヤダ。悪寒。

「いや、違う。何て言うのか、その、しゃんとしとったんだ。昔の奴は。少々のことにはな? 動じずに、こう凛としてな? だから案外昔の女はそんなに泣いたり笑ったりと今みたいには忙しくなかった気がするぞ」

「それは勘違いだって。あれでしょ? もう七十年とか前の話でしょうが? ボケてるんですよあなた。それに今の女の子だって感情薄いですよー。感動しないし、言葉はカワイイーとムカツクーとかしか喋らないしね」とメガネがメガネを拭いている。汚い服の袖で。

「それ、お前が毎月五万貢いでた浅野の中学生の話だろ? また思い出したか」

 口を抑えてクスクス笑うデブ。ばつが悪そうにメガネをかけ直すメガネ。

 私は手を大きく上げて背伸びをした。男が理想の女の話で盛り上がっている中の女ほど退屈でつまんないものはない。あきれも付き合って体がだるだる。もしみりんならこんな話に首突っ込んで一緒に盛り上がれるのだろうか? 想像できないね私には。まったくデブとガリのメガネ野郎にちっこいジジイが人を燃やしている火で暖を取りながら女の話に欲望丸出しで花を咲かしているなんてまるで悪魔の宴じゃんこれ。

「ほら、これやる」

 私が三人に呆れて生アクビをしていると、ジジイは短パンのケツからぺらぺらになった何かを私に差し出す。火の灯りの強いほうにかざし見てみたらそれは通帳だった。名義は隆行さん。中を覗いた私の第一声は「うわっ! これは少な……」だった。

「だろ? たぶんもっと貯めてお前に渡したいと思っていたに違いないが、まあ、あれだ、あいつらしい。いつも失敗して苦笑いだ」

 とジイサンは鼻をほじる。

「お前達が勝手に使ったんじゃないわけ?」私はデブとメガネに言った。二人だけじゃなくジジイまで慌てて首を振ったのが面白かった。

 通帳残高七万二千百二円。決して私の金銭感覚の中じゃ安いお金じゃない。むしろ大金かも。でも通帳を受け取った時すぐに私はこの通帳が誰の物でどういった意味を持っていて私の手元にきたのかすぐに把握したので、きっと中には大げさだけど遺産みたいな気持ちの入った金額があるんじゃないかって身構えて通帳を開いたのだ。だから、安って言ったのはそんな、中にいっぱい入っていると思っておもいっきり掴み上げたのにジュースの缶が空っぽだった時のような腕の力にも似た無駄な心のフライング。

 でも、通帳の記述を見て私は動けなくなった。

 千円単位の預け入れ。毎日の細かい積み立て。時には千円預け入れされたあとですぐにまた同じ日に二千円入っていた。五千円入ったあとで千円だけ下ろしてある日もある。きっと預け入れしたあとでやっぱりビール代だけとか煙草を一箱とか思っちゃってたりして、そんで、そんで、そんで……。

「らしい。ホント」

 通帳を閉じようと思って、でも手に力が入らなくて、で、私はその通帳を開いたままに顔を押し付けた。自分の顔を隠すように。

 きっと今、目の前で燃えている物はずっとこの通帳より隆行さんに近い。死体なんだからその物だろう。でも、私はこの通帳の方がずっと隆行さんな気がした。だから上手く離せないんだ。通帳を開いたこの手。

「嬉しいかその通帳?」

 そうジイさんの問いかけに私は通帳で顔を隠したままただ一つ大きく大きく肯くしかできなかった。痛すぎるから。

「お前悪くない女だな。勘がいい。若いのに」

 ジジイはそう言って私の頭を撫でた。黒光りと火に燃えた半々の笑みで。

「でもなんでこんな風にして欲しかったんだろう。そんなに良いかな? ドラム缶で焼かれるの。お風呂だったらありとは思うけど」

 やっと体の金縛りみたいな緊張が取れた私はジジイに聞いた。

「ああ、そりゃジイさんが悪いわけよ。ジイさんの嘘話にハマっちちゃってさ」

 とデブが足をぶらぶらさせている。

「嘘じゃねーよ。ホント話だ」

「なに? オモロイのそれ? 教えろ」私は聞く。

「面白くねーぞ。死体の話だからなー」

「あっそ。そりゃ面白くなさそう」

 私は興味がないふりをする。

「いや意外に面白いかも知れないぞ。なあ? ちょっと聞いてみ」

 甘えるような声でせがむジジイ。キモイ。

「たぶん聞いても面白くないよ。あれでしょ? 死体を並べて焼いてた話」

 とメガネが言った。

「お前が言うな! 黙っとれ!」ジジイが一喝するとメガネは唇を尖がらせてどこかすねたようにブツブツ言いながらデブが座っている柱の方へ歩いて行った。

「いいか? 話すぞ」

 さっきまで落ち着きはらい、余裕ぶっこいていたジジイが今は子供のような表情でとても話したい、聞いて欲しいって顔をした。

「はあ? まあ話せば?」

 長いんだろうな、話。ジジイだし。年寄りに大人気だなんて嫌な才能が芽生え始めているんじゃないかって心配になった。数年経ったら背中に『巣鴨のアイドル』なんて旗差して七三のマネージャー従えて営業してたりして。私はぶるぶると水浴び後の犬みたいに身震いをした。

「俺なあ、昔、市の保健課ちゅーとこにおったんだ。ここらには昔製鉄所もあったし爆弾もよけい降ってきて人も死んだ。で、川やら瓦礫の下になった死体やら運んできては焼いてたわけよ。死体を燃やす臭いと未処理の死体の腐りだした臭いがーほら、混ざり合って凄えのなんのって、もうあれから半世紀以上経つのに今でも思い出すと飯、食う気がうせるくらいでよぉー」

「ほう、それからどうしたっと」

 私は適当に相槌を打つ。

「山があんだよ。百メートルくらい間隔で並んでんだ。死体の山。燃えんだよなーいつまでもよぉー。で、暑いからいつも途中でシャツ脱いで、そのシャツで脇の下とか顔の汗拭きながら眺めんだよ。いつまで燃えてんだってな」

「で?」

「終わり。そんだけ」

「終わりかいっ! ジジイのくせに短か! 話、短か!」

 取り敢えずお約束として私は座っているビールケースから転げ落ち、また座り直す。

「な? 面白くもなんともねーだろ? 小学生が夏休みの登校日に見せられる戦争映画の感想文以下だぞ。経験者なのに」

 メガネは遠くの方でせせら笑っていた。でもジジイが睨むと顔を背けた。

(そういう問題より、この話のどこに感じるものがあるわけ?)

 今さらに隆行さんの思考が想像できなかった。

「一年くらい前か? この二人とか他にも仲間集めて、ここで隆行に診察してもらっててよ。そん時俺が最後に診察してもらってて、あいつが、その、いきなり」

「死ぬかも。別に死にたくないもないけどって?」

 すっと出た。私の口からこのセリフ。でも正解でしょ? ジジイ。

「おっ? ちょうどそんな言い方だったぞ。冗談かと思ったが、前に話した死体の話聞かせてくれってせがむんだよ。七つ八つのガキじゃあるまいし」

(想像できないな)

 きっと私には絶対見せない顔をしたんだと思った。雪樹に対してするべきだったはずの顔。

「栗食ってた時も打ち合わせみたいなもんで、まあ、最近はちょくちょく顔出して面倒見てた。さっきお前が来てた時も隣におったわ。悪い」

 ぺこんと頭を下げるジジイ。

「別にぃー。私のことは何か言ってた? 雪樹のこととか?」

「言わんでもなあ、分かるだろ? お前、勘がいいから」

 隆行さんみたいなことを言うジジイ。

「一人でめいいっぱい痛がって、うろたえて、我慢したかったんでしょ? どうせ」

 全て推測だったけど、でも良いじゃんと思った。死んでしまったらこっちのもんだ。痛いくらいに美化してやる。

「なあ? もう帰ったらどうだ? 全部灰になるまでにはもう少しかかるしな。夜も明ける。ガキがこんな遅くまでブラブラするな」

 とジジイの言葉に(ここまで連れ回しといて何ぬかす)と当然思ったけど確かに疲れた感じがする。火を炊いているといったってやっぱり寒いからガキにもキツい気がする。今さらだけれども。

「帰ろうか?」

 ちょっとだけ、燃えさかる火に後ろ髪を燃やされる……ううん、引かれる気分だった私はガキに尋ねる形で席を立った。ずるいっす。

「気をつけてお帰りやっしゃ。物騒だからね、ここらへん。見ての通り真っ暗だし、格好のレイプスポットだから」

 デブの声が聞こえる。少しむせた声だと思ったら何かを食ってやがった。まさかこの火で焼いた物じゃねーのかと一瞬引いて疑う。

(なんかつい最近も似たような忠告されたな)

「僕、送っていこうか?」メガネが言った。当然断る。もうその手には乗るかい。まあ、何かあってもどうせ勝てるだろうけど。

(同じようなこと言ってた奴がいたな。歴史は繰り返すか)

 私はしみじみしながら死体焼きの煙舞う中を通り抜け、また同じ煙みたいな少し青みかかった霧の漂う河原を歩き出した。

 確かに今は明け方で霧も漂っていて視界はないに等しい。けどそれを差し引いたとしても土手の上は車以外、ほとんど通らないし下は背の高いススキが全てを覆い隠していて見えにくく、何より昼間は車の騒音が凄い。高速の入り口があるからいつもバカでかいトラックが走りまくっている。まさに格好のいたずらスポット。もしくはエロ本とペットボトルの墓場。

「お? どーした?」

 ガキが急に泣き出した。泣き叫ぶような泣き方じゃなくて、あっあっあってしゃっくりを繰り返す感じの泣き方。オムツかミルクか? いまだに表情だけではさっぱり分からん。桜子は分かっていたみたい。さすがに。雪樹はたぶん分かってないだろう。

「泣きやみたまえ。あー僕が、僕が命にかえてもー必ず、必ず君を守ってあげようー。さぁ僕にしっかりと掴まっているのだよ? 君を連れ、このうごめく漆黒の闇をみごと切り裂き駆け抜けてみせる!」

 私はガキを高く高くかかげて朝がすぐそこまでやってきている薄い紫な霧の中をクルクル回った。宝塚風に。

「うええ」

 バカだから回り過ぎて土手に倒れ込むように寝っ転がった。体中に草のカスがこびりついていて何だか青臭い。

 あー疲れた。なんかとても疲労だ。体を大の字に大きく広げてみても心地良くない。きっと自分で考えている以上に消耗しちゃってるみたい。部品不足、回復不能、回復不能、ピピ……。

川沿い、土手で明け方のしんと冷たい朝靄の中にいるのに妙な汗をかいていた。頭が痛く目がパチパチして妙な動悸がする。

「そう言えばお前も男か」ガキを胸に抱いたまま楽な体勢になろうと横に体を倒す私。なんか、男は疲れる。男は何かを欲しがって私を尋ねてきて私が何も持ってないと言うと黙って私を削り取っていく。

 私、私、私、私の時間は今やこのガキが半分以上を持っている。光彦は私の昔を持っていったまま眠る。隆行さんは私の気分を持っていったまま燃えた。小太りの男は痛みの感覚を奪っていった。 

(携帯?)

 バイブの振動。ガキが震えている。じゃなくてガキを包んだコートのポッケが揺れていた。メールじゃなく電話。

「はい?」

「ひどい。地図まで書いて待ってたのにぜんぜん来ないし真樹」

 電波の向こう側は黒い声。

「近くにいるわけ? 車の通った音がした」

ライトが私の体を横切るのと同時に、大小、同じような騒音が聞

こえた。どちらも車が走り去る音で大きい音は辺りに響き、小さい音は携帯の向こう側から。

「見上げてみればいるよそこに」

 体を反転させ土手にうつ伏せになり見上げると土手の上にはマッチ棒みたいな影が一つ。

「今日はオーバーオール着てるのか?」

 声を張り上げれば聞こえない距離でもないだろう。でもオーバーオールと話す時はこれで、携帯で話したほうが良さそう。

「前は真樹が近すぎたから。うまくできなかった。この格好」

「また訳の分からんことを」

 と私は口を尖らせる。霧でよく顔が見えない。モザイクがかかっているみたいに見える。ちょうど良い。こんな朝に見たくない顔。

「ここまで上がって来れる? 土手を」

「行けるよ。でも行かない」

「嘘だ。来れないんでしょ? 疲れてるね真樹。自分が思ってる以上に。無理がきてる」

「分かってんじゃん。だから待ち合わせはキャンセル」

 と私は目をつぶり大きく両手を広げ仰向けになった。湿気のせいか草の匂いが凄い。お世辞にも良い匂いなんて言えないもの。私は何となくガキが産まれた時のあの血と公衆便所の臭いが混ざったような吐き気誘発剤ともいえる臭みを思い出していた。でも不思議と嫌な気分はしない。きっとここら辺の草は毎朝この霧に濡らされ露をまとい青臭さと共にもう一度、緑の力みたいなのを得てしぶとくその日一日を生えていくのだ。乾いていることはさっぱりしていて気分は良いかもしれないし無臭も理想だきっと。でも力はない。今の私みたいに。

 私は大きく息を吸い込んだ。目の前をただよう霧を吸収するつもりで。この土手の草のように朝露にまみれ濡れて回復するために。

「どんな顔してるの今。教えて」

 オーバーオールは言った。

「痛い顔。ガキが今髪引っ張ってるから」

 私は言った。

「僕の見たことない顔だ。羨ましい」

「なら殺すか? 止めないけど」

「悲しくないの? 赤ちゃん、死んでも」

「そうしたらお前が喜ぶだろ? 私、人の喜ぶこと大嫌いなんですー」

「じゃあ女の子が死んだ時も悲しくなかった?」

「女の子? ああ、お前がバラバラにした子か。お前は悲しかっただろ。私が哀しまなくて」

 私の言葉にオーバーオールの返事はなく、沈黙が続くなか少しずつ霧も晴れていく。

「よっと!」私はガキを抱き体を起こすと無理なくらい全力で土手を駆け上がった。

 もういない? 周りを見渡して探す。オーバーオールのシルエットを。

「人のことばかりだね。真樹は。先生の言う通りだ」

 ホントの声。初めて聞く大きな声。×印の背中、オーバーオールの背中。

「また先生か」

 そう私が近づこうと一歩踏み出すと、オーバーオールの背中は一歩遠ざかった。

「自分の知らない顔が大嫌いだった。想像するだけでも哀しくて死にそうになる」

「何それ? 想像? オカズか? どうぞどうぞ好き勝手に脱がすなり犯すなりやってクリ」

「初めはもっと一緒にいたいって思っただけなのに。こんな凄い力になるなんて思わなかったよ。どうにも止まれない力。息のしかたも忘れてしまっていたのに」

「ほう? 朝起きてたら神様にでもなってたか? それともあれか? 金色のオーラでもまとってたとか?」

 もう慣れたものだ。サイコさんとのトークは。

「真樹が誰に会おうとどんな新しい顔しようと別にムカツカないよ。でも真樹は同情したろ? 一瞬だけどあの女の子に」

「同情?」

 変な感じがした。言っていることは相変わらず訳が分かんないけど、どうも変だ。気持ち悪さがない。何て言うかハッキリしている。いつもぼやけた印象なのに。朝靄が残るこんな虚ろな空間でとても際立って存在しているのだ。今日は人間な気がする。こいつ。

「同情は僕の物なんだ。真樹の同情は。他の誰にも分けたくはない」

(感情が出てんなー今日は)

 私は感心した。リストラされた証券マンのようなオーバーオールの後ろ姿に。

「あれか? なんかの腹いせで分解したのか? 女の子」

「どうにもならない時間があるんだ。遠くで見てるしかない時間が。体が熱くなって。周りはとても真っ赤で。心の中を裏返しにされたみたいになるんだ。だから真樹のことはなるべく考えないようにしてた。でもダメだね。だって僕には他にすることなんてないんだもの。せっかくこんなに上手く動けるようになったのにね」

 懐かしい顔だった。いつものようにキャップを深くかぶって読み取りにくい顔ではあるけど。口元が笑っていた。いやらしくではなく、それこそこいつが殺したあの日の、公園で私の髪を掴んで離さなかったあの女の子が見せたのと同じように。

「殺り逃げか? 殺さなくて良いのかこいつを」

 と私はガキを両手で前に突き出した。

「そんなことしたら先生に怒られるでしょ」

「またまたまた先生か! そいつ連れて来い一回。掘りコタツに突っ込んで一酸化炭素中毒にしてやる」

「良い先生だよ。僕を切り刻むこともしないしね」

「学校の先生かなんかか? いや違うか。お前学校行ってそうにないもん」

「真樹よりも前に会いに来てくれた。僕が寝ている時でも。毎日決まった時間に話に来てくれた。真樹の話」

 ――私は口を閉じた。あんなに湿って順調だった口を。閉じずにはいられなかったんだ。

「煙、見える。さっきは霧で見えなかったけど」と隆行さんの抜け殻を燃やし続けている橋げたの方を指差すオーバーオールの横顔。その大人びた顔に声が出なかった。

 いつも私は言っていた。そんな大人の顔するなって。

「今、辛いでしょ真樹。ごめん僕のせいもあるけど。でも、きっと無理がきてるんだよ。気持ちは良いけどね都合良く記憶を書き換えるのって。でもほっとくと僕みたいになるよ?」

 すぐ、駆け寄りたかった。名前を呼んでやりたかった。でもたぶん、私が近づくほどに遠ざかる。それを知っているから哀しんでるの? お前、狂うほどに。

「かわいそうだ。お前」

 どうしてそんなに哀しそうな笑い方ができる? 目を細めて。

「ホントかわいそうな? 最悪だよお前。頭撫でてやるからこっちにこい。ね? こっちに」肩が痛いくらいに荒く呼吸してる。私、今。肺がいっぱい、胸いっぱいで痛くてしかたがない。どうして昨日からこう痛いのかな? どうしてこんなつまらないことしか言えないわけ? 私。

「ありがと。同情してくれて」

 空から降ってくるような声。土に帰ることもできないのに。

「良いからこっちに! 膝の上に座らせてやる。好きなポーズとってやるから!」

「一緒に行けたら良かったけど地図の場所。帰ってごらん真樹。そしたらきっと、もっと痛くなるだろうけど楽になるよ。きっと」

 どっかに行ってしまう。いや、帰るの? 嫌に決まってるのにあんな退屈な場所。ひどい場所。白い地獄。でもかわいい顔をしている。両手で包んでやりたくなるような顔。

「もう会いに来ないで。あまり見られたくはないんだ」

 オーバーオールはいなくなった。消えたんじゃなくて、立ち去った。用がすんだから。気持ちがすんだから。

「そんなに顔見るな。今私も、あんまり見られたくない」この時、私の瞳を覗き込むように無条件で甘えてくるガキの瞳が初めて、たまらなく卑怯に思えたんだ。

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