夕の帳
“どこかに行きたくもないし、何かしろって囁いても欲しくない”
今のお前の形が理想かもってベッドでスターウォーズのダースベイダーみたいに篭った呼吸を丁寧に繰り返している光彦の額に、氷を死んじゃうってくらいに強く握って冷やした自分の手を置き、冷やしてやる。光彦は昨夜から熱があるらしい。氷は、自販で紙コップに氷が落ちてきた時点で素早く抜いた。先に氷が落ちてくるタイプのやつで良かった。私は氷が溶けてなくなるまでそれを繰り返す。光彦の母親はいなかった。キツネに聞くと最近はあまり姿を現さないらしい。よくは知らないけどどうも四国の方に行っているらしい。どうして四国なのかは知らないということだった。私も知ったこっちゃっない。
私はしばらく窓の外を見下ろしていた。ここは三階で病院の庭が全部見渡せる。庭にはもっと車椅子の人や包帯を巻いた人がいるのかと思ったけど、上から見た分には人影もまばらでそこにいる人達もごく普通。パジャマを着てよたよたと歩いているくらい。建物自体が高台の上に位置しているので街が一望できて景色も悪くない。
「そのうちこの景色にもあきると思う。だって毎日来るから」
と私は光彦に言ったのだけど、こんな状態の光彦に喋りかけていると心の中で呟いているのか言葉にして表しているのか自分でも分からなくなってくる。とても変な感じ。自分の中と外の境界線みたいなものがボヤけてしまっている感じ。それにしても今の光彦はホントに不思議。中身はどこに行ってしまったのかな? かわいく言えば光彦の中にいる小さな光彦はお茶でも飲みによそへ遊びに行っている感じ? きっと同じような状態の奴らとつるんでいるのだ。みんな初めての場所にくれば他に人はいないかと探すだろし、光彦もきっと同じ奴らと一緒に呼び合って、増えて、世界みたいなもの、作っちゃってるのかも。じゃあ死んじゃっても同じか。複数の意識や存在が集中して世界になる。同じ意識の者同士がお互いを探して惹かれあって、明確な場所なんてものがなくても世界になっちゃってるんだろうな。その世界の住人はたぶん自分達の世界のことを死後の世界なんて思わない。かってにパラダイス808なんて名前作っちゃってるのかも。じゃあ世界で一番最初に死んだ人間は寂しかったのかね? やっぱり。一人だと世界にならないから。真っ暗なまま。もしかしたら次にやってくる人間を待つことも我慢できずに自分側に引っ張り込もうとしたのかも知れない。たくさん、たくさん。
(ふーむ……オーバーオールの世界もあるのか)
あいつの住民票がある世界、いやもっと規模がちっちぇーだろうからオーバーオールの区みたいなものが存在するんじゃねーか? と私はどうせ考えないようにしても無駄なので、ちょっくらの間、どうせ病院の個室で何もすることもないし、めちゃくちゃ積極的にオーバーオール論みたいな本が協力出版できるくらいに考えてやろうと窓辺に寄っかかりながら一人、肯く。
「もうこなくてもいい」
わっ!
この時の私のビックリ度ときたら、朝起きてトイレのドア開けた瞬間裸で便器の上に立ったまま笑っている冬実を見た時をはるかに凌駕するものだった。でも私のビックリは初め、その声の主が光彦かと勘違いしたもので、必ずしも光彦のベッドの下から這い出てきたオカッパの女、つまり本当の声の主に向けられたものじゃなかった。
「つまんない。あまり驚かなかった。それにもう素に戻ってる」
そう立ち上がると……オトコは穿いている紺のスカートのホコリを何度か手で掃い、不自然なほどに私の目を突き通すほどに見入っていた。私が見た瞬間すぐに女と思ったのは単に髪形と服装によるもので、今は確実に分かる。こいつはオトコ。
「待ってた。っていうか待たれてた?」私は睨み返す。
「そうでもない」
とオトコはアゴを光彦の方へ上げて見せ、合図する。
「オーバーオールは? 着てないと困るじゃん。呼び方」
白いシャツに黒のカーデ、紺のスリットスカート。凄まじいモデルチェンジだオーバーオール。髪も初めて見た。歴史の教科書のザビエルみたいなオカッパ頭。でもキャップをかぶっていた時と同じく今度はそのごわごわした髪のせいで顔がよく分からない。
「このスカートbebeっていうところのなんだって。よく知らないけど着てた女が言ってた。ちゃんとそういうの聞いとかないと人に尋ねられたら困るから」オーバーオールは私から視線をそらし、前と変わらず、天井を一周ぐるっと首を回して見たり、床から舐めるような視線で私を眺めたりとさっきまでの強い突き通すような槍みたいな視線はどこに行ったのかしら? ってくらいにいつものオーバーオールに戻っていた。着てねーけれども。
「盗んだのかそれ? じゃあもっとマシなのにしろ」
「盗んでない。その人に悪いじゃん。ただ公園でベビーカー押すのには向いてないんじゃないかって思ったから頼んで譲ってもらっただけ。うちの母親も昔そうだったから」オーバーオールは口紅で口裂け女のように真っ赤に塗りたくられた自分の唇をさらに大きく広げるように指で何度もなぞることを繰り返す。
「うるさい。無理やり脱がしたろお前?」
「無理やりでもなく、了解も得られなく……しかたがないので赤ちゃんと交換でとお願いしました」
(人質取って交換か。私の時と同じって分けね。バリエーションのないやつ……っていうかなんで急に丁寧語?)
私はかなりイライラしてきた。その証拠に体が微妙に揺れ始めている。シェイキング。素敵に言ってみればさかんにリズムを刻んでイライラを抑えている。痛い言い方をすれば貧乏揺すり。とにかくストレスだ。この空間、このオトコ。段々と自分がストレス緩和に揺れているこの揺れ自体にもムカついてきた。スポーツニュースで新人女子アナが選手の名前を間違いたのを見た時みたい。お前、自分が分かってないってことくらい自分で分かっとけって感じ。たぁーくそっ! って小さい波を繰り返すいちいちチクチク刺さってくるみたいなこの不快感はなに?
「イライラさせる奴だなお前。もうさ、殺しちゃえば良いじゃん? 全部さ。何でもかんでもそこらじゅうの物壊して回れ? 私止めねーし。そうだ、お前が切ったり踏んだり潰したりしたこと報告してこい。私に。点数つけちゃる。嬉かろ?」
と足をワニの口みたいにパタパタと床につけたり離したりしながら私は首を回した。
「点数? 貯まったら何かくれるの?」オーバーオールは淡白に笑った。
「褒めてやる。海の男風に。「おう! 坊主元気かぁー」って頭グシャグシャしてやろう。これは結構人気のメニューになってるんだぞ。ウチの店では」私は胸を張った。
「そんなんいらない。褒めるのは先生がしてくれるし」
「先生? 前もそんなこと言ってたな。お前なんかグループにでも入ってるわけ? なんとか学会とか名前が付いてたりするやつ。そういうサイトも好きっしょ? 自分?」
「なるほど。僕のイメージはそうなのか。じゃあこれからパソコン買いに行かなくちゃ。あと、気持ち悪い笑い方も練習しないと」
オーバーオールは両手を暖めるように擦り合わせると蝿でも追っているかのように目玉を上や下にと盛んに動かす。十分キモイ。練習の必要ナシ!
「さてそんな話はさて置き」
といきなり万歳をするオーバーオール。
「置いちゃうのかよ! 質問に答えろよ!」真顔でつっこむ私。
「どうせ言ったって君は覚えてないみたいだし、それだと先生にも失礼だ。それにそれに僕にとってはあまり重要なことでもないのだし」
おっ! 私はオーバーオールの動きに思わず身構える。万歳をした腕を振り下ろした瞬間に何か袖から取り出したように見えたから。
「先を先を言っちゃって悪いけど、これナイフじゃないよ。僕ナイフ持ってないし」
とオーバーオールは背中に何かを隠した。
「嘘。ちっちゃい女の子も桜子もナイフで殺ってんじゃん」
「僕は殺ってない」
スゲェー顔隠してやがったな、こいつ。オーバーオールの満面の笑みを見た私の第一印象。顔の筋肉がその酷使された笑顔についてこれないのか、今にも全部のスジがブチ切れそうな勢いだった。なんかこの笑顔を見ているだけで成人女子の一日分のカロリーに匹敵するくらいのエネルギーを消費してしまいそう。もっとも成人したことなんてないけど。
「つーか、完全にお前じゃん。女の子の指、喰ってたし」
くだらない問い詰めを私はしかたなくやった。ウゼェー。
「殺してないし。僕」
本のページをめくるようにぱらっと顔が変わってまた無表情になるオーバーオール。何だこの嘘?
「低レベルで話したいわけ? 殺したなんて一言も言ってないから殺ってないとか? そんなんだったらもういらないから」
と消えてくれって感じに手を振る私。
「ダメだよあんまり殺すとか言っちゃあ。命はかけがえのない物なんだから」と言うオーバーオールの言葉に私はその場で素ッ転びそうになった。でも同時にこいつの確かな一部分が分かってしまったような気がした。まるで絵本。その日その時その瞬間でページが違う本。毎秒更新されるホームページと言った方が簡単なのかも知れないけど、とにかく毎回感じが違う。でも根本的な気持ち悪さはいつも同じ。
「あっやっぱり殺したかも知れないかも知れないか?」
私を嘲笑うようにオーバーオールは自分の顔をまるで、二枚の重ねあった扇子で隠しているみたいに広げた両手で顔下半分を隠しながらクスクス笑う。
「ふん! どうせ次は「あっ! やっぱり知らないや」とか言うんだろうが。お前って取調べじゃ御免なさいって言って裁判で知りませんってタイプだな」
と私はオーバーオールを指差す。
「あーあ。今度は僕の先が取られちゃった。真樹に」
「お前、なんか劇団にでも入ったら? 結構、特殊な役で当たるかもかも!」
私は飛び跳ねた。新宿二丁目のニューハーフみたいに。
「今朝ここに来る前に本屋に寄ったんだ。背中が猫みたいなお爺さんがレジに座ってて、お客さんも他にはいなかったかな。お爺さんは居眠りしてるのか半分死んでるみたいにコックリコックリしてたから中途半端で嫌だなと思ったんだ」
「はーん? じゃあまた殺したんだ? 命はかけがえじゃなかったの?」
「レジって結構持ち上げられるもんなんだね? もっと重いかと思ったよ。もっともお客さんもいないようなお店だったからお金もほとんど入ってなかったし。なかなか見ごたえはあったな。ちょうどアニメの中でキャラが大きなハンマーで真上からペチャンと潰されちゃう感じがあるでしょ? あんな感じ。お爺さんはレジのある机には寄りかかってなくて、椅子に前屈みに座ってウトウトしてたから頭ゴン! って感じにしたら水中にいるみたいに、まず先にお尻がプカって上に浮いてその後で顔面が床にドン。大変だったぁーお札が散らばっちゃって拾うの。真っ赤になっちゃってるのなんて使ったらおもちゃのお金みたいだから捕まっちゃうもんね」
(どれかが嘘だろうなー爺さん殺したのが嘘か……本屋自体に行ったことがないとか)
「なに買った?」
コロコロ変わるオーバーオールのページにいちいち付き合っている私はなんて良い奴なんだろうと感心する。教師の素質があるかも。
「なに買ったって決まってる。この服」
「うそーん! さっき子連れの女から盗ったって言ってたじゃん!」
「盗ってなんかないよ。買ったに決まってるじゃん」
また堂々と前を否定する新しいページのオーバーオール。
ふーん。……盗ったって私の言葉にはちゃんと反応したから、自分が女から奪ったんだってさっき私に話したことは憶えているってこと? じゃあどんどん違う人格みたいなのに入れ替わって前のことを都合よく忘れちゃうタイプとか病気じゃないんだ。いろんなページを持っているみたいだけどそれは全部繋がっちゃってるわけね。スゲェー、下手したらちょっとした才能じゃん。超ド級嘘つき大王。
「でも男にはちょっとキツくない? その格好?」
私はあえて普通に会話する。なりたたないと分かっていても。いつか私に必要なページを見せるかも知れないし。
「勘違いしてるね真樹。僕の一人称とか聞いて誤解してるみたいだけど僕、女だから。初めに断っとくけど」
うっひゃー! 出ましたぞ最大級のアホページが! 私はひっくり返りそうになるより失神してしまいそうだった。い、いや待てよ?良く見れば確かに背も私と変わらないくらいだし、色も白くて肩幅もない。でも声は低いし、いや、でもこいつはその時々で声が高かったり低かったりするしな。もちろん声が低い女も世の中にはいっぱいいるし……まったくわけ分からん。うーん言われて見れば女か? 嘘かも知れないと思って見ると男にも見える。あれ? 段々女に見えてきた。うえ、気持ちわるぅー。
「あ、こんにちは。それじゃ用件を話すよ?」
まるで今この瞬間会ったばかりのようなことを言うオーバーオール。私は混乱させられながらも徐々に対応が出来始めているのか、それほど驚かなくなっていた。少し成長してしまった気がする。寂しいやら楽しいやら。まったく。
「それ以上こっちに来るな。じゃないともう話してやんない」
オーバーオールが何かを持った手を後ろに隠したまま光彦に近づこうしたので私は威嚇する。もちろん足首を回して蹴りの準備もする。
「これ水性だから大丈夫だよ。じゃ!」
と私の眼球がオーバーオールの手にある物をマジックだと認識し、まだその情報が脳に到達するかどうかっていうタイミングでオーバーオールは素早く光彦の横に走り寄って上にかかったシーツに向かい、まるで曲のクライマックスに入った指揮者のように右手を激しく動かした。上下左右、円と何かをシーツに描く。
(シンナー臭い。また嘘かよ。油性じゃん)
徐々に何を描いているのかがあきらかになる。私がそれを地図だと分かったのは曲がり角の所にオーバーオールが郵便のマーク『〒』を描いた瞬間だった。
「ここに来て。先生も待ってる。でも僕の為に来て。そしたらもう良いから。全部」
激しく振り乱れたオカッパ頭の前髪が額にピッチリ貼り付き、息も切らしている。そうとう頭の切れた絵描きの誕生。私はやれやれといった感じでシーツに描かれた地図を覗き込む。
「どこ、ここ? 面倒くさい。デートならゲーセンは入れてねん? 映画はNGでヤンス」
と私が振り返るともうそこにオーバーオールの姿はなかった。
「丸投げかよ! どうすんの! こんな、こんなシーツに描いて?持ち歩けないじゃん! 憶えるわけ?」
もの凄い自分でもビックリするようなデカイ声で独り言の私。急にいなくなったオーバーオールに対するムカツキもあったけど、なんかほっとするような解放感を感じる。実感は乏しかったけど私はある程度、何らかのプレッシャーをあのオーバーオールに感じていたみたい。かなりヒシヒシと。
「いやー私も女じゃーん? か弱い、か弱い」
と腰に手を当てて首を横に振っていると、急にシーツが上にフワーと持ち上がったので、
「うわっ! カッパーフィールド? テンコウ?」
とビックリしていたらケツを蹴っ飛ばされた。
「――お前洗えよ? つーか弁償」
私じゃなーい。って目はどこにあんだよキツネ。
うえー苦しい。胸が。心理的にではなくて物理的に。ガキがいて胸がデカくなるなんてしゃれになんない。桜子の呪いか? 太ったってわけじゃないぞ。体重四十四キロのまま。身長もたぶん一六七か一六八のまま。(測ってないから確実じゃないけど)寝ている時に関節が痛くてしょうがない時期があったけど最近はそれもなくなった。なんとなくもう伸びない気がする。小学校の頃はどこまで伸びるんだよ? って思っていたけど結局ちょっと大きいかなってくらいで終わったみたい。
「おい、焦げてるぞ。タコ焼き」
どうせ焦げたってなーって感じなんだけど一応私は注意してやった。
「甘いなぁー真樹ちゃん。俺はある日気づいたんや。そう、あれは先月ママさんバレーの試合の日に頼まれた三十パックを一斉に焦がし、途方に暮れていた誕生日前日の薄曇の日……」
マンネリの話が長くなりそうだったので、店頭に作り置きされ積んである焦げていないマヨタコのパックを一個パクって私は公園のベンチに避難する。マンネリ作の中でも辛うじてこのマヨタコはチッと舌打ちせずに食える味。マヨネーズがタコ焼き本来の味を全てかき消してくれていて、むしろ食えるタコ焼きになっている。マンネリは私がベンチに座ったところでちょうど「というわけや、っておらんのかい!」と言った後で首をひねっていた。間が気に入らなかったのか? どっちにしろマンネリ。
「もうあんまり抱きたくないから 早く歩け?」
と胸で寝ているガキに話しかける。最近めっきり重い。ミルクをあまり飲まないので立ち読みした本に書いてあった、砂糖水を入れるってのをやってみたら良く飲むようになった。でもその頃から急速に重くなってきたような気がする。ムカツキ。
「真樹ちゃん不景気な顔してんな? まあ俺も不景気やけど」
とマンネリはウーロン茶の缶を差し出す。
「尼崎に帰れば? で、公園に住むの」
「それ、ムカツキや。俺はまだまだ社会人じゃ。現役現役」
「だいたいこのタコ焼きで生活していけてたってのが不思議」
「アホやなぁータコ焼きだけで生活してたわけないやん。情報、情報。情報売るだけやったら、そうそう捕まらんし」
「どうせどこにいるバイヤーが安いとか安全とか栄子達に教えたりしてただけじゃん。あと家出娘のリストでしょ?」
「それだけではないのだな。極道君達にチャイニーズさん達の秘密基地教えたり、ケツ持ち探してるちーむ紹介したり、ある時は逆にチャイニーズさん達に留守ばっかりしてる家教えたり、大活躍よ。言わば街のマトリックスよ。僕は」
とマンネリは煙草の先を歯で浅く噛んだまま上下にクイクイと動かす。
「情報も不況か? ふーん。でも慣れてるだろお前? 元々不況顔だし」
「慣れるか! お金欲しいわっ! お金欲くれー。それと、もっと面白くなりたーい。真樹ちゃーん」
マンネリは話の延長線の中で合法的に私へ抱きつく。冗談っぽく、まー良いじゃん風セクハラ。お前は部長かい! 私は何も言わなかったけど顔の表情だけでこの嫌な気持ちを察しろと眉間を歪めたけどマンネリは気づかないふりをしたので、手をチョキにしてもれなく目潰しを喰らわした。
「なんやねん、なんやねん。ええやん! 癒し系演じてくれても。最近栄子達もちーとも見かけへんし、若い奴もあんなにけだるそうにダラダラ歩いとったのに今はどこ行った? あの地面を掃除してるようなパンツは? 道路の線上にケツの線、合わせて歩いてるようなローライズは? ゴミ袋みたいなパーカーは?」
「みんな出て行ったんじゃないの? 市長がやたら橋ばっかり作るから」
「まあ、あいつらも感じてるんかもなー。街の変な雰囲気。お巡りもやけに出回ってるし。嫌な空気感じてるんかもな。ゴミみたいでもやっぱりあいつらみたいなのがおらんとダメや。街には肉がないと。俺も肉が食えへんわ。真樹ちゃんは何か感じへんの?」
「私、不感症。それにどうでも良いし」
「いやーん。もっと感じてぇー」
この時のマンネリの腰振りはオーバーオールに匹敵するくらいキモイと思った。ゲーセンの太鼓叩くゲームに縛り付けて、一億万点出るまでしばきあげたい気分。
「確かに人、消えたかもねえー。極道くん達は相変わらず多いけど」
「前、湾岸地域に大友ガラスってあったんやけど、あれが潰れた時に似てるわ。新聞とかで大々的に知られる前にやっぱりあの時も段々若い奴、おらへんよーになって、それやのにパチンコ屋とかディスクカウントショップとかやたらと増えて」
「お前いくつだよ? 年サバ読んでるだろ絶対! 産まれる前の話じゃん私のー」
「なあ? 真樹ちゃん。もうちょっと触ってええ? なんか最近ものごっつ気持ち良さそうやねん。真樹ちゃんボデェー」
と油臭い顔を近づけるマンネリの顔面に私ははずしたてほやほやのガキのオムツをぶっちゃけ、公園をあとにした。私はマンネリと街の話をしたのでしばらくあちこち街を歩いてみることにした。どうせ歩くならベビーカーを持ってくれば良かった。重、ガキ。
元気がないってわけじゃないのだろう。だいたい前から元気がある街じゃない。私が好きな部分はしっかり残されている。乾いてていつもあきらめている感じ。それでいてしつこくてウザくて都合良く無関心。ただ、空気の違いみたいなものは感じる。乾いてはいるけどどこか重く、致死量じゃないけどわずかに煙たいくらいの毒を含んでいるような空気。街が放っているのか? この毒。人を近づけたくなくて。栄子達もきっと感じたのだろう。有無を言わせず人を遠ざける理不尽なこの威圧感はまるで雪樹みたい。桜子がいたらどう感じたのかな、この雰囲気。きっと言われるまで気づきもしない不感症ぶりに違いない。だから母親ってのをやっていたのだ。バカなくらい不感症じゃねーと勤まんねー仕事に違いない、マザーワークって。だから雪樹には無理ってことだな。あいつは感じすぎる。
「はあー風、強」
『関係者以外立ち入りを禁ずる、市長』って赤字でかかれた看板を当然無視して湾岸エリアに侵入。横並び十台分くらいの駐車場があってそこから石段を下りるとさらに船の駐車場がある。パンチラ全開でヤンキー座りして遠くを眺める場所だなーと思ったけど和式トイレに一分と座っていられない私には無理。後ろにずっこけてしまう。
大友ガラスってのはもうないんだろうけど、対岸を見渡す限り工場しか見えない。生ゴミ臭さが混じった潮の匂い。目が痛くなる風。風も潮も全部自然のものだけど、この工場しか見えない風景の中で感じる風や潮はもの凄くガキに悪いんじゃないかって、私は疑いたくなった。だいたい潮の匂いにしたってわざわざ海にまで来なくても、ここら辺の川は海が近いから橋の上でちょっと身を乗り出して下を覗けば、プンプンとベタつくくらいに撒き散らされた潮の香りを感じることができる。風の強い日や満潮の時はとくに。だからわざわざこんな所に来る必要もなかったのだけど、あのオーバーオールが描いた地図を見た時に一番最初に潮の匂いと強い風を思い出したのでこの湾岸に来てみた。でも私は忘れている。そして何で思い出さなくちゃいけないのかってムカついてもいる。忘れてしまうことなんてのは忘れていいようなことなのだ。脳が私に必要ないって私を想って消去してくれているのに。どうしてわざわざゴミ箱から拾い出して貴重な脳の容量を狭めなくちゃならないわけ?
「おっ! スリリングんっ!」
腕の中でガキが急にムズがってあやうく抹茶パフェの溶けかけたみたいな海に落っことしそうになる。でも落ちたら落ちたで泳いでしまいそうな気もするし、波止場の岸壁に群がったふじ壺を掴みながらよじ登ってきそうな気もする。なんかいつもそうだ。ガキの顔を見ていると、いつも私は手足が大きいからデカくなりそうとか、あまり泣かないから無口な奴か? とか果てはいきなり空に向かって飛び出したりしそうなんてアホな想像をしてしまう。たぶんこれはこのガキがどういう奴なのかってことを私が知らないからだ。当然まだ赤ちゃんなんだから性格も好みも分かるはずはないのだけれど、でも分からないってのは可能性だ。これはきっと凄いことなんだと思う。なんか、何もかもが止まってしまったかのように感じている今の私には、唯一このガキだけが動き流れ続けている存在みたいに思えた。
「あんまり私が抱かない方が良いかもね」
そう口から出そうとした瞬間、私は思わず口を手で塞ぐ。なんてくだらない話なのかと。抱いてないと動けもしない奴の気持ちを勝手に想像してこの手を離すなんて。今までで一番ガキを重く感じる。何度も何度も抱き直しても手が震え力が抜けてしまう。なんかやだ。
夕暮れにこんな心は欲しくなかった。卑怯。海風の冷たさと空の真っ赤は反比例で余計にこの寒さが痛い。こんな時、こんな気持ち、普通ならどうすれば良い? 答えは出ていた。夕暮れに時が五時を刻めば子供は何をすれば良いかなんて。
「帰ろう。家に」
出ねえよ光の速さなんて。でも、せめて音速で。着ていた白いコートでガキをくるんで胸に強く抱き締めると私は走り始める。こけたらガキはジ、エンド。
「しがみついとけ? 私は、荒いから」
そう言って走っている自分がバカみたいに思えて、でも悪くないなって感じで、凄く無茶な走り方してて、障害物になるものは老人だろうが子供だろうが知ったこっちゃないって感じにトランス状態のままどんどん風を切っていく。湾岸エリアを抜け、込み始めた風鈴の店の前を雪かきマシーンみたいにうろつく男ども掻き分け、橋を渡り、お城の前を駆けつつガキを抱き直し、踏み切りを賭けにも似たタイミングでくぐり抜け、立った。前に。私の家の前、診療所の前に。
「ぐええ、はあ、はあ、おえー」
肩が抜けそうで骨盤が割れそうで、ガキもうるさく泣いて、足の脛がポキッと折れそうで、子宮が真下へ垂直に落っこちそうで、でも見上げれば嬉しかった。とても。そんなに私を喜ばすな。家。
外階段の前でぎゅーと左胸を握り潰す私は息を整えるとゆっくり階段を上がりドアの前でしばらく立ち止まる。自分が決めたことの確認と、それに対しておもいっきりわがままになれるかを自分に確かめるため。やがて湯気立った体が次第にひんやり冷たく湿り、ニットが体にからみ吸い付いてきた頃に私はドアへ手をかけた。鍵は持ち合わせてなかったけど、そんなことどうでも良かった。ブチ破ってでも中に入る。そして居る。ずっと私はこの家に居続ける。
(開いてる?)
隆行さんはいないだろう。またどっかだ、きっと。ドアを開けて玄関に入る。脇の冷蔵庫に手をかけてブーツの紐を緩める。
「懐かしいよぉー!」
と叫ぶ私。超感激してる。マジすげー飛びまくってる気分。
(さすがに掃除しないとだな。あとビールとかマカデミアンナッツとかも買い込まないと)
ブーツを脱いでソックスも放り投げてキッチンのテーブルの上を指でなぞってどれくらい汚れてしまったかを確認して、私はリビングを振り返って、そして、息が止まった。
「何してんの」
この言葉しか出てこなかった。目に映ったものに対する私のコメントは。どんなに心を振り絞ったってこれしか出てこない。まるで石コロみたいにテーブルの上へガキを放り投げ隆行さんへ私は飛び込む。
「何? 何?」
一発、二発、隆行さんの頬を夢中で張る。隆行さんが寄りかかり座っているリビングの大きな窓がバウンドするような音を立てて震えた。肩を揺すろうとして隆行さんの肩を掴んだ瞬間私の息はまた止まった。掴んでいるの? 何にも触ってないみたいに白いシャツの肌触りだけが手のひらをくすぐる。探るように指を動かす私は、シャツの向こう側にあるやけに固く、それでいて壊れてしまいそうな肩の軽さに震えと嗚咽を覚え、床へ立てていた膝を崩す。
「臭いだろ?」
声が聞けたと感じて間もなく、私の両手は隆行さんの頬を挟む。最悪の感触がした。肩を掴んだ時と同じ弱さ。頬骨に手を添えるしかできないくらいに頬は痩せ肉は削げ落ちていた。隆行さんの体は窓から差し込んだオレンジにまるで生きながら火葬されているみたいに淡く燃えて見える。頬から手を離した私の胸に倒れ込む隆行さんの体は軽くて、隆行さんがもう自分自身の体さえ支えきれない状態になっているのだという現実に激痛がした。床に崩れて座った私の体は現状に対応しきれなくて胸に倒れた隆行さんを抱き止めることもできずに、隆行さんの体が私の胸からお腹の辺りへ、砕けた彫刻のように倒れ込むのを呆然と見下ろすしかできない。
「あっあっ、あーあー、教えて教えて、何これ?」
声なんて呼べるものじゃなく、ただうめきが変わっただけの音が私の喉を上がっては泡のように消えていく。
「そこのペットボトル、開けるなよ?」
「え?」
見渡すと部屋中に水がいっぱい入ったペットボトルが立っていた。ボーリングのピンみたいに綺麗に整列して。
「お、お腹空かせちゃダメじゃん。なんか食べようよ。買ってくるから」
分かってる。単純に痩せてしまっているからご飯を食べればなんてそんな状態じゃないってことくらい。もう私の言葉は力を失ってしまっていた。半分は逃げ出したいのだ、この部屋から。怖いから。でも出て行こうとする臆病な私の手首を掴んだ隆行さんの手にまだ大丈夫だよねって希望を無理やり感じようとする私。
「頭良いと損だなお前。感じやすい」
顔も上げずに私のお腹でうめく隆行さんの唇の振動に必死で耐える。
「私小卒だって。どこが賢いの?」
「頭良いよ。かわいい顔に? 手足長いし。良かったな」
「キモイよ。なんでかわいい顔ってとこだけ疑問系?」
あーと深いイビキみたいな声がしたかと思うと隆行さんは私の体を登るみたいに体を起こす。
「セクハラかよこれ?」
「児童ワイセツ禁固三年」
真っ赤なままでと願う。部屋の中が夕陽に浸されたまま暗くならないよう。それくらいのわがままが何だっていうわけ? と暗くなり始めた空に怒りさえ覚える。
「ねえ? 今から私傷つく?」
「大丈夫。お前丈夫だから。目殴られたって、アスファルトに投げつけられたって、いるじゃん。ここに」
隆行さんの息の臭さを喜ぶ。証拠だから。心臓がまだ動いているって。
「もう褒めないでよ。吐き気だよ」
「俺が臭いからだろうが。嫌だ嫌だ娘はこれだから。男の子が欲しい」
ゆっくりゆっくりした声。もっとゆっくりでも良いと思った。もっと遅く、一秒が一年のように。
「じゃあ今度は男やる。だって六年も雪樹の役、演じたんだもん。評価してよ助演」
どんなになっても隆行さんだ。私は再び隆行さんの頬を支える。
「やめろ」
「良いじゃん」
「やめろっ!」
怒鳴っても怒鳴っていない。きっと自分が情けなくてしかたないんだ。
「私は強いんだから従って!」
そう顔を近づけた私から最初は目をそらしていた隆行さん。でも観念したのか次第にその瞳に映る絵は影に黒く染まったリビングの壁から、髪の長い空っぽの笑顔を浮かべた女に変わる。
影が渦巻く両目。左眼は完全に閉じてしまっていて右目はようやくの状態。暗い屋根の下みたいな、目というよりもただくぼんでいるだけという感じのもの。とてもシワが目立っているし、元々薄かった唇はもう見る影もなくて色もない。十歳の頃の私の乳首みたいな色。髭は昔から薄いタイプだったからなのか焼け野原の跡みたいなものが口の周りに散らばっているだけ。
「ちょっと前じゃん? 何ヶ月か前でしょ会ったの? なのにこんな、こんなの」私の問いかけにしばらく黙ったままの隆行さんは何度か深い震えのかかった深呼吸を繰り返したあと、ちょっとだけうわずった声で再び喋り始めた。
「急いだだけだ。疲れるからな」
「病気? それとも薬?」オーバーオールがとは考えなかった。パターンが違う。それにこの瞬間、隆行さんとのこの時間にあいつのことなんて考えたくもなかった。
「薬は使わない。我慢大会だったら独走で優勝だったぞ。その代り十回は死んだな。痛くて」
「痛いのどこ? どこ? ……どこぉ!」
私叫んでる? もう分からない。
「ここら辺だろたぶん。煙草好きだし俺」
と胸に私の手を持っていく隆行さん。そこは枯れた胸板。骨だけの壊れた傘みたい。舌の根本まで「病院へ」という言葉が出かけた。でもダメなんだ、たぶん。
『欲しい物なんてない』って人間関係は身の回りの物と同じで必要最低限の数があればいい。ずっとそう思ってきて、今日そのしっぺ返しをくらう。
『持ち合わせが少ないから、なくすと死にそうになるくらいに怖い』
家を出て行けと言われた時を越えていた。体中の血管を締め切られてしまいそうな恐怖。
「水欲しくない? このペットボトル開けちゃだめなの?」
「もうほとんど飲んだ。今入ってるのはほとんど俺の小便」
「バカな宗教みたい。それ。ひどいよそんなの」
部屋中に置かれたペットボトル達は世界一汚い光りの揺らぎをお互いに映し合い、反射していた。
「世界で一番汚いキラキラ。いらないよこんなの」
「世界で一番汚い影絵」
リビングの壁に映る影二つ。目を背けたくなるくらいにくっきりと存在していた。本人達よりも。
「体汚いけど中身は綺麗だぞ。水分もほとんど全部出し切ったし、クソももちろんない。計画通り」
と一言一言確かめるように喋りながら自分のお腹をぽんぽんと震える手で叩く隆行さん。私はそんな隆行さんの頭を横に抱く。息苦しくないように。
「ひど。そんな費用止められちゃいそうなプロジェクトのせいで追い出されたんだ? 私」
「最近俺の前でかわいくしようとしすぎだお前。キモイ」
「またひど。それって私の成長じゃないの? 認めて」
「パフェへさらに砂糖かけて食っても吐き気なだけだろうが。普通にしとけば綺麗。勘もいいし何より面白い」
「また褒めた。やめてってそれ」
私は笑う。隆行さんの笑顔も釣れるように。
「決めてた。お前、ウチに来た時に。俺が褒めたらお前、笑ったから。だから決めた。ずっと褒めてやろうって絶対。なあ? 嬉かろ? 笑え」
釣れた隆行さんの笑顔。それでも私のための無理。
「雪樹も褒めてやれば良かったのに」
「あー肺、痛てえ。真樹、真樹?」
抱いているのに私を探す隆行さん。会話は壊れた。トークのキャッチボールは終わる。私は隆行さんの耳たぶを噛む。合図はもうこれしかない。
「悪いけどさっきの位置に戻してくれ。窓辺に。あれベストなんだ」
私は隆行さんの耳たぶをさっきよりも強く噛んだ。
「そうか。お願い」
もうほとんど聞き取れないほどの声が私の耳に沈む。こんな軽さ嫌だよ。冷たく軽い隆行さんの体をまるでガキを扱っている時みたいに抱き上げると私は隆行さんを元の位置に戻し、また耳たぶを強く噛んだ。
「ありがと、ありがと」
こんな言葉、聞きたくない。
「あー!」
耳を抑えて首を振って奇声を上げてまるで死ぬまで言い続けるじゃないかっていう隆行さんの『ありがと』を必死に遮る。
もう聞こえないのは分かってる。でも、だけれど、聞こえて! 聞こえて! この人に。
「私、なんちゃって雪樹でしょ?! いつまでもやるから。雪樹の役やるから! だから、だからさーそんなのやめようよ!」
いったい何年、何十年、いつまで私の耳はこの世の中に散らばった無限の音を広い続けるのかなんて分からないけど、でも、確かに拾ったんだ、
「雪樹ちゃん、好きだったなー」
最悪で、でも私の今までを褒めてくれる音を。
「くっせーオヤジじゃんもう」
親が撃たれて、なぜもう動かないのか分からない動物のガキはきっとこんな風に一生懸命親の反応を探るだろう。鼻先を首筋に当てがい、頬を舐め、そしていつかもう親は動かないんだってことを悟ってそれで、それで、どうしろっていうの?
「ぎぎぎぎぎ」
オレンジは終わりの色。そして闇に帰った。いつしか真っ暗になった部屋で指を噛んで団子虫みたいに丸まってなぜか必死に笑いをこらえている自分。なんで? なんで笑ってるわけ私? 唇が噛み切れそうなくらいに笑いを我慢するけど次から次へと湧き上がるように私を苦しめるこの衝動。とても苦しい。吐き出したいけど吐けない感じにも似てる。胃に何も入っていない常態で吐くのが一番苦しいのと同じ? 悲しいっていうこともそうなのかな? ホントは悲しくなんてないからこんなにおかしくて苦しいの?
「わっわっわっ! うわー! うわー!」床に丸まったまま壊れたメリーゴーランドみたいにのたうち回り、ペットボトルや周りの壁を蹴りまくる。じゃないとドス黒いマグマのような熱に体を破裂させられてしまいそうだった。
私は隆行さんの娘、私は雪樹の娘。隆行さんは私の、私の、私の。そう私の。
たぶんこんなの、こんなのもう一生の中で絶対ないことだと思うんだ。人に、大人に、男に、死体に向かって、やりすぎの歌舞伎役者みたいに前へ髪を振り乱して、
「ごめんなさい。ご、ひゃはははははははは!」って大笑いしながら土下座するなんて。