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Fish  作者: 真田奏
11/14

漆黒

 最近寝不足気味で頭が狂っていたのか久しぶりにカレンダーなる物を見た。だいたい私は今日が何日だとか何曜日だとかには興味がない。寒ければ冬で暑ければ夏。桜が咲いていれば春で雨が多ければまあ、梅雨なんだろうなと思うくらい。それは隆行さんにも言えることで家にカレンダーなんてあるはずがなかった。けど現実にこうしてトイレに座っている私の目の前に、ドアに、ジャニーズ系の奴らが燃費の悪い笑顔や汗を振り撒くカレンダーがかかっている。たぶん桜子が勝手に掛けたんだろう。

(やべぇじゃん)

 もう十一月になっていた。どうりでブラ一枚ブラブラしてたら鼻水が止まらないと思った。あとちょっとで十四になってしまう。スタンダードな歳になる。なんの面白みもない。なんとなく十三歳の方がマニアックでオートマチックな気がする。

「何か着ろよ。教育に悪い」

 産まれてちょっとしか経っていないガキを抱いて桜子は言った。私は元々バカなんだからわざわざ親バカになる必要はないと桜子に言っていたのだけどやっぱり桜子は親バカになった。

「大丈夫だよ。お前に抱かれてる方が教育に悪いから。うん」

 と私はノースリーブで白黒ボーダーのニットを手に取って着て、黒い皮パンを穿く。ちょっと今日は寒いかな? と思ったけどネックタートルになっているからノースリーブでも私的には気合でOK。桜子は黒い霜降りニットに下はデニム。ちぢれた金髪のライオンみたいな髪もショートでふんわりパーマなアッシュブラウンに落ちついちゃってる。髪金鼻ピアス女がずいぶんとシンプルになったもんだ。

「ゲッゲッげげげのげー♪」

 抱いたガキをゆっくりと横に揺らしながらソファに座った桜子は鬼太郎の歌を歌っていた。子守り歌のつもりらしい。たしか昨日はバカボンの歌を聞かせていた。スゲェ子守唄だ。

(ごちゃごちゃ入れやがって)

 冷蔵庫を開ける。

 桜子がウチに来る前、冷蔵庫にはビール以外、マヨネーズとケチャップしか入っていなかったのでビール缶を出すのなんてとても簡単だったのに、今では鮭缶とか味噌とか薬を入れるケースだとかに占領されてしまっていて、愛しのキリンラガーは奥の奥。私は無理やり腕を冷蔵庫の奥に突っ込み、野菜と豆腐の間をこじ開けてビールを抜き取ると、栓を開けながらヒップアタックで冷蔵庫の戸を閉めた。

「真樹ってホント鬼太郎みたいな?」

 と私が一口飲んでテーブルに置いたビールを桜子が勝手に取って飲む。

「はぁ? 何が?」

「真樹には学校もぉー試験も何にもないー♪」

 と左手にビール、右手に赤ちゃんを抱くバカマリアこと桜子は歌う。

「私は毛針も飛ばさないしチャンチャンコも着てなーい」

 そう言って私は桜子の手からビールを取り返し、一気に飲み干すとタートルネックの部分を摘み、ぱたぱたと揺らして空気を入れながら玄関へ行きしゃがみこむ。

「どっか行くのか?」

 桜子が靴を選んでいる私の後ろに立つ。

「どっか行く」

 そう答える私の背中に生暖かい重りがズシリときた。

「大掃除するからこいつ連れてって。ホコリっぽい部屋より外の方がいいじゃん?」

 とガキを私の背中に乗せる桜子。さっそくガキは私の髪の毛を「うーうー」と言って引っ張る。これがけっこう力があったりする。首が後ろにガクンっ! てなる。

「やだー重いー髪が痛むー!」

「じゃあ抱いてってよ。ほれ!」

 私の背中に張り付いたガキを取ると、桜子はUFOキャッチャーみたいにガキを両脇から抱いて私の胸元に置く。

「ふふん。まあカイロ代わりにはなるか」

 とガキを抱いて私は立ち上がる。ガキは私をただ見上げている。クレヨンで描いたような赤を頬っぺたにのせて。

「お前はへっちゃらだろうけど外、寒いから」

 そう言いながら桜子はガキに暖かそうなモコモコたっぷりのボアつきキャップをかぶせた。

「うーあー!」ガキが手をばたつかせた。

「バーカ思いっきりかぶせるから」

 と私はガキの顔半分を覆ってしまっているキャップを小指に引っ掛け、上へ引っ張り上げてやった。

「良かったな。お姉ちゃん珍しく奇跡的に優しいぞ」

 と花が満開ってくらいの笑顔でガキの頭をぐりぐりと撫でる桜子。バックでドクダミとか菊とか咲き乱れている。

「ん? なんか今日は嬉しそうじゃんお前。それってムカツキなんだけど? 人にガキ預けといてさ。なんかあるだろお前?」

 桜子がいつも以上にハイテンションに見えた。妙に慣れなれしいし。私は桜子を射抜くような厳しい視線で睨む。

「私だけじゃなくて真樹にも楽しいことだよ」

 桜子は笑った。

「何それ?」

「たぶんもうすぐ俺、出るからここ。アンタの家。OKでしょ? 真樹も?」

 となぜかガッツポーズの桜子。

 私は桜子の話しが意外に良い話しだったので抱いているガキを桜子に投げ返してやろうかと思った。ふっふっふ。

「あれか? 新しいスポンサーが見つかったか?」と私。

「まあ、そんなとこ。知り合い」偉そうな桜子。どうであれ、人の力に頼った方向だけれど桜子らしいと言えば桜子らしい。

「よし、綺麗に出てけ?」

「うん、お願い」と桜子は言った。

そして私達はサヨナラ。

 


 私はいつもの二階が雀荘になっているラーメン屋の角を曲らずに風鈴の店に行くことにした。つまり裏通りを通らないということ。

でも表通りって言ったって単純な目に見える明るさは裏通りより暗かったりする。車道の上を走っているモノレールのせい。だから歩道はいつも影。建ち並んだビル群も良い感じの物なんてなくて消費者金融しか入ってないビルだったり、屋上に貼り付けられた巨大なネームプレートが今にも落っこちてきそうなビジネスホテルだったり、一階のコンビニ以外空っぽのビルだったり、お昼にマックのカウンターで並ぶのが嫌ってだけでやって来る客専門のロッテリアくらい。昔から良い意味であまり変わらない。人通りが多いのもお昼だけ。制服にカーデのOL三人組もしくは二人組みで恋人のいなさそうなユニットの行進。三人組だとだいたいその中の一人はバカっぽいパーマをかけている。しかもチビ。制服の上からブカブカの背広を羽織っている女も見かけた。寒いということで男の社員から上だけ借りてランチに行っているみたいだ。

「うん、願い。うん、お願い。うん、お願い」

 と歩道を歩きながら、信号待ちをしながら、横に広がって歩く女どもの一人のケツを後ろから蹴り飛ばしながら私は独り言を言った。

『うん、お願い』

 家を出る時に桜子が言っていた『うん、お願い』って言葉。その言葉自体には何の興味もなく、ただ私はその言葉を言った時の桜子のスマイルを見た瞬間、なぜか風鈴の顔を思い出してしまっていた。似ても似つかない二人。あの笑顔は風鈴だけのものだってずっと思っていた。嫌味のない、それでいて汚いシワなんてよらなくて、必要以上に頬の肉も盛り上がって目が線みたいにならない、いたって自然な微笑。体の中を直線的に貫いていって言葉が出なくなってしまって頭の中真っ白って感じのもの。さすがにパンチの効いた桜子の顔面では風鈴ほどじゃなかったけどかなり近いものはあった。

(私にはできませんなー)

 けっこう風鈴の喋り方とか、考えごとしている時に親指の爪の上を人差し指で何度もなぞったりする癖とかチビッ子の頃よく真似した。もちろん鏡の前で笑い方とかもやってみたけどそれはすぐにやめた。秒速で無理だと理解したから。根本的に私の中にはないものだと。資源がなければいくら頑張ったって生産できない。きっと桜子の中にはあったんだと思う。この抱いているガキくらいの時に誰かから植え付けられて、このガキみたいな奴が側にできてそれに呼応して育ち咲くもの。

「うーうー」

 腕の中でさっきまで寝ていたガキが目覚めたみたい。活発に動き始めた。夜のモモンガみたいに。

(冷た)

 ビル風が私の頬を叩く。去年潰れたデパートの真下を私は歩いていた。壁がピンクってだけで私はすぐ潰れるかもって思ってたけど五年はもった。

「あー」 

と風が吹くたびにガキは楽しそうに手足をバタつかせる。たぶん風が吹くたびに鳴るぴゅーって笛みたいな音に反応しているのだ。

「寒いな。カイロ使お」

 と私はガキの頬っぺたに頬を寄せる。冷たいのに柔らかいお餅といった感じ。意味ねぇー。

「何がそんなに楽しいわけ?」

 よく笑うガキ。笑いながら私の頬をぺしぺし叩く。

「私には無理。そういう顔する仕掛け、ついてないから」

 とビルに跳ね返され、吹き下りてくる暴れん坊の風に背を向けな

がら歩く私。一応、ガキ専用防風兵器マキと化してみた。通行人にビル風より冷たい視線を浴びながら幅のある長いデパートの前を背中丸めたままカニ歩き。

「風が当たってないんだから早く熱くなれ? カイロ」

 でももう私にはカイロ、いらないかも。恥ずかしさで真っ赤です。わたくし。 

「変な歩き方。でもかわいいね」

 後ろから声が聞こえた。変な声。外なのに篭った声。まるでトンネルの中で反発しあっているような音。

 しばらく私はその声を無視してカニ歩きを続けた。ガキ抱いてカニ歩きしているような女をナンパするっていうマニアックな奴の顔も見てみたいと思ったけど、たぶんキャッチとかなんかだろうと思ったので無視。まあ、ガキ抱いてなかったらAVスカウトもありかなって気もしたけど。

「ぐっ」

 いきなり背後から肩を掴まれたかと思ったら凄い力で引っ張られた。いつもならこれくらい平気なのにガキを抱いているせいで両手が塞がっていたので私はバランスを崩し、引っ張られた方に、つまり後ろへ半転しながらこけそうになる。でもなんとかガキを左手一本で抱いたまま片膝の状態でアスファルトに右手を突き体を支えた。

(とりあえず殺す!)

 誰? とか何でこんなことを? とか私は肩を掴んだ相手を確認するより先にまず一発蹴りを入れようと思った。やっぱりアクシデントにはまず一発だ。

「えっ?」

 別に油断していたわけじゃなかった。自分自身に降りかかってくる攻撃には自慢だけど警戒心百パーだ。常に。でもさすがにガキにまで私は百パーではいられなかったみたい。私の左手は軽くなっていた。あれほど重かったのに。

「七面鳥みたいでしょ? 丸焼き」

 と言いながら男は私からかっさらったガキの足を掴み、釣った魚を見せるように逆さまにしていた。真っ白い顔、口元がわずかに歪んだだけの笑顔、そして何より男はオーバーオールだった。

(あっ……猫の頭)

 冬の街のビルの下、乾いた空気の中で乾燥してぴりぴりする目を瞬きすることなく男を睨み続けながら私は背中に生暖かい感触を思い出していた。

 普通の人なら忘れたり薄れたりすることなんてないのかもしれないインパクト溢れる記憶。 私が光彦の家の帰りにクソ熱い熱帯夜なトンネルの中で背中へとストライクで食らった猫の頭。男は黄色のオーバーオールと長靴で現れて、たどたどしい口調で喋っていた。私は変な負けず嫌いを発揮してその背中に当たった猫の頭を絞るようにしておもいっきり握り締め、左手にしたたるドス黒い猫汁を舐める真似をした……って何でその時の変態がここにおんねん! と私は関西弁でツッコミをいれたい気分になっている。あの時と同じ黄色いオーバーオールだし長靴。最近はノビ太くんだって衣装変えするんだぞって言いたくなる。紛れもなくあのトンネルで会った変態さんみたい。やっぱりオカルトチックなものじゃなく現実だった。

「ねえ真樹? 連れてってよ」

 とオーバーオールは言った。

「へえー私の名前知ってんだ? どうやって調べたの? 簡単? 教えてよ。私も知りたいなーオーバーオール着てる奴の」

 私は適当に返事する。

「真樹のママの所に行きたい。返したい物がある」

 そう言いながらオーバーオールはガキの足を掴んだ手をまるで重さを量るように上下させ、科学室の人間模型についているような無機質にも見えるその眼球も一緒に上下させた。

(雪樹のことまで知ってる?)

 こいつ面倒くさいことをやってるなーと思った。私なら調べようと考えただけでも耳から血が出てきそうになる。もしかしたら家で出たゴミとかも漁っちゃったりしてるのかな? マッチョな話だ。今度桜子の使い終わった生理用品でも山ほど溜めといてゴミに出してみよう。きっと変態さんには喜ばれるかも。

「真樹のママ、警察。僕はそこに行く。真樹は連れて行く」

 とオーバーオールは笑った。

「は? それって決定事項なの? 委員会には引き続き協議を要求します」

 と私が手を上げてもオーバーオールは黙ったまま。どうもこいつは自分の喋りたいことだけ喋るみたい。目もさっきから私と合わせようとはしない。だいたい空とか地面とか見て喋っている。でもトンネルで会った時よりまともに喋っている気がした。あの時は演技でもしてたのかね? アホくさ。

 私はしばらく自分の体をバナナみたいに横に大きく曲げてオーバーオールを見たり、立ち位置を変えたりしてオーバーオールを観察してみた。なんか単純にネジ曲った奴に思えたので自分も曲ってみてやろうと思ったのだ。でもオーバーオールは私の行動などおかまいなしでガムを噛んでいるのか、口をくちゅくちゅやりながら頬を風船みたいに膨らませたり、膝を上げて今にも泣きそうなガキの頭をつっついたりしている。

(決めた! パワーで圧倒しよ)

 ちょっと観察したけどオーバーオールはそんなに大きくない。前にや殺ったカラコン男より小さい。私と同じくらいの体。いや、もしかしたら重さだけなら私の方が重いかも。それ、ちょっとムカツキ。

 私は息を止め、男に掴まれ逆さまに吊らされたままのガキの顔面をじっと見つめる。ガキの合図を待っていたのだ。

(けっこう我慢したじゃん。良いよ。もう泣いても)

「ぎゃあああああああああん!」

GO!

 乾いた空によく響くピストルみたいなガキの声は最高のよーいドン! になった。私が突っ込んで来るのにも気づかず横を向いたままのオーバーオールの頬めがけておもいっきり左ストレートをブッ放つ。ガキのことは特に考えていなかった。殴れば当然ショックでオーバーオールは手に掴んでいるガキの足を離す。最悪、ガキは脳天からパイルドライバーって感じでアスファルトに落ちて桜子は明日からご乱心モード。私はどうもしないし、どうしようもない。後はガキの実力の問題、ツキの問題だったりする。まぁまだ産まれたばっかりなんだから普通の人の二倍増しくらいはボーナスポイントでもらってんじゃないの? ラッキーを神様から。

 左の拳に押し返してくるような肉圧が感じられたと思った瞬間オーバーオールは殴られ歪んだ顔面のまま後ろへ崩れていく。そのまま仰向けに倒れるのかな? と思ったら意外意外、オーバーオールは後ろへ倒れそうになる体を踏ん張り、アスファルトに片膝を突く。殴った瞬間落としたと思ったガキは折った膝の太ももの上で体を前屈みにして抱くように何とか抑えているといった感じ。

「おお! 凄い凄い。曲芸に近いですなー」

 と私は変態オーバーオールの頑張りに拍手する。でも内心ショックだった。助走をつけたパンチで吹っ飛ばせなかったから。でも、

(私も少しはかわいくなってきたってこと?)

 と腕力の減退みたいなものを勝手に良い方に考えて私は納得する。

「まあ良い。とりあえずガキは返してねん? もうすぐお昼だからおっぱいあげないとねー……って出るわけないじゃん!」

 ガキを抱いてうずくまったままのオーバーオールに向かって私は周りの気温と同じくらいの寒い一人ツッコミ。

「連れてってよ……」

 ぼそっとギリギリ聞こえるかどうかっていう声がしたと思ったらオーバーオールは顔を上げるなり、私のナックルの痕が桜色にくっきりと残った頬を少しずつ歪め笑みを浮かべると、まるでゼンマイ仕掛けのおもちゃみたいに首をきりきりと横に傾け、いきなり、

「すいませーん! すいませーん! 連れて行ってくださーい!」

 と大声で叫び始めた。

ガキを宙吊りにしている男とそれを殴った女。その周りにはパラパラとだけれどそれなりのギャラリーが集まってきた。でもこの、水槽の中の魚が片っ端から仰向けのまま浮かんできそうなサイレンみたいなオーバーオールの叫び声のおかげで、だいたい見える範囲にいる通行人は片っ端から私達の方を振り向き新しくギャラリーサークルに参加し始める。電通も顔負けの広告効果だ。

「しつこーい。雪樹に用があるなら勝手に行けば良いじゃん。警察でしょ?」

 と私は自分の薄い耳たぶを親指でいじくる。

「あー?」

 でもオーバーオールは死んだ笑顔で私を見上げるだけ。ガキを放すそぶりもない

 ――カチャ! 頭の中でスイッチの入る音がした。

「痛いからあんまり好きじゃないのに。ナックルって」

 とオーバーオールの鼻っ柱に向けて左手のナックルを打ち下ろす。続けて左手の痺れが消えないうちに右手で同じ場所を殴る。ワンツーワンツー! 太鼓を叩くように鼻骨折り。みるみるオーバーオールの鼻は赤く腫れ上がって鼻血は垂れ流れて私の拳も赤く汚れた。 

 相当痛いはず。ああ、人を殴るのってこんなに、こんなに心が痛いものなの?……ってそんなわけなく単に手が痛かった。だから私はパンチ嫌いなのだ。蹴りラブリー。

(まだ放さない?)

 喉元をつたって自慢の(本人はどうか知らないけど)オーバーオールまで鼻血で染めているにも関わらず、オーバーオールはずっと何かをクチャクチャと噛みつつ口元を動かし、鼻血を滝のように流しながら笑みを浮かべてガキも抱いたまま。

「オラっ!」

 頭突きを喰らわしてみた。でもオーバーオールは変わらず。逆にこっちの頭がガンガン。ほ、星が、キラキラ。ヒ、ヒヨコが、ピヨピヨと頭上を回っている。

(し、深刻かも、これは)

 ちょっとクラッとした。頭突きの後遺症じゃない。こんなへぼいオーバーオール野郎に時間をかけている自分自身に。とても衰えてきている気がした。さっきの倒せなかったストレートといい、この鼻骨折りといいイマイチ精彩に欠ける気がしないでもない。キレがない。ノビもない。

(せ、世代交代なのかもしれない)

 わ、私は晩年なの? 引退? もうOG? 悲しみが次から次えと浮かんでは消えていく。いったい、いつ自分の時代が来ていたのかどうかも分かんないっていうのに世代交代。そ、そのうち栄子とかに負けちゃったり、男に色んな場所へ色んな物入れられちゃったりしたりして。なんてこった。

「キィー!」

 ムキになってまた私はオーバーオールの鼻を殴る。

「おい、あれ、やりすぎなんじゃねー?」「うあ、ひでえー」ギャラリーの声がする。キレていたので別にそんな声は気にならかった。でも次の「旦那が何したかしらねーけどな。ヤンママっていうより極道の妻だぜありゃ」という声を聞いて私の殴る手は凍りつく。

(こ、こんな、ひどい……)

 家の破産したお嬢様が借金のかたに成金のおっさんの愛人されてしまったその初夜みたいな感じで走って逃げ出したい気持ちになった。ヤンママっていうのはひどい。勝手にこんな変態さんの奥さんにされてついでに桜子と一緒にされた。お、大人ってひどい。よってたかってこんな子供をいじめている。

「連れてけよー」

 オーバーオールの奴はそんな私の嵐の中の子犬みたいな気持ちなどおかまいなしに潰れた鼻で下品に笑っている。青白い顔面に、ドス黒い鼻血でお歯黒に染めあがった歯はまるで麻呂みたいに見える。かぶっているキャップは教科書とかで見た烏帽子ってやつみたい。

(もしかしてこいつガキが欲しいのか?)

 当然そんな気になる。普通はこれだけ殴って脅しをかけたら、本当の親でもガキを放す奴はいたりするかもしれないし。(雪樹なら三桁ほど積まれればどこへでもやりそうだけれども)

「よし分かった。それやる。じゃあな」

 と私は快くガキをプレゼントすることにした。

「ダメ。連れてって。真樹のママのとこ」だけどすぐ、後ろを向いて立ち去ろうとする私のパーカーの裾を掴むオーバーオール。

(けっ! なんだよ会話できんじゃんか)

「だからー、一人で行けばー」

「連れてって。あーあーあー」

 オーバーオールはまた大声を上げ始め、また会話できなくなった。最悪。ヘルプミーだ。

「連れて行くしかないの? それって憲法何条なの?」

 そう私はオーバーオールに言っているのか自分に言っているのかひどくあやふやなセリフを呟く。釈然としない気持ち。何かこう、あとちょっとで死んでしまうからこの爺さんにフェラしてあげて下さいって遺族の奴に頼まれているくらい納得いかなくてちゃぶ台でもひっくり返してしまいそうな気持ち。

「お前を私は連れて行く」

 まるで他人事のように私は言う。するとオーバーオールはさっきまでの頑固さとはうって変わってさっと立ち上がった。でもガキは抱いたまま。

(雪樹の所につくまではってことですか)

「ちょっと待ってろ。すぐ終わるから」

 雪樹の所へオーバーオールを連れて行く前に、私にはやることがあった。まず周りのギャラリーを見渡す。

「あ、お前だ。うんうん、違ってても謝らないよ」

 そう言って私はギャラリーサークルの中にいる紺のブレザーを着たリーマン風の男に近づく。男は自分のことを言われているのに気づいていないのか道を開けようとする。あーだこーだと一番耳につく野次を飛ばしていた奴。

「ああ、開けなくていいから。自分で掘るし?」

 とリーマンの口めがけてワンパン一発食らわす。

「あが、あがが」

 リーマン、口を抑えてしゃがみ込む。

「あ、お前も死ね」

 と私はついでに隣にいた女の顔面に張り手を見舞う。

「いやー」

 泣き出した女。蜂の子を散らすように途端に道が空きだした。まさに十戒。

「最近かわいくなってきたからあんまり効かないっしょ?」

 とナックルを握った左手を回して私はストレスを解消した。



「そうじゃねーよ。首の後ろに手を回しーのお尻の所を持ちーの……」

 オーバーオールにガキの抱き方を教える。渋々と。だってしかたない。ガキを放そーとしないんだもん。

(何でこんなことだけ素直なんだよ)

 言われたとおりに忠実にオーバーオールはガキを抱き直し、歩いていた。横断歩道を渡り、お城の堀が脇に広がる長いまっすぐな歩道に差しかかる。汚れた風呂のタイルみたいなグレーの歩道は車でも頻繁に乗り上げられているのか、そこらじゅうにタイヤを引きずったような跡があって余計に汚れていた。この通りってよく工事中になっていることが多いのにぜんぜん綺麗になってやしない。通るたびに思う不思議。歩道の並木はすっかり建設中のビルって感じで枯葉さえない骨組み。枝だけのものがずらって続いている。

「ここまっすぐ行け」

 オーバーオールに自分の前を歩かせる。その方があいつの動きに対処しやすいかなーと思ったから。まあこれなら、いきなり後ろからどつかれる心配はない。そりゃーいきなりガキを横の車道を走っている車に向かってパスしたり、城のお堀の鯉の餌にしようと放り投げられたりしたら私にはどうしようもないけど、そんなのは知ったこっちゃない。十三歳はそういうことを心配しちゃいけねー。心配なのは髪型とファッション、体重にその日のテレビ欄オンリー。

とかなんとか考えつつ、堀の水を見ながら(冷たそうー、飛び込めるかな? 抱いたまま泳げるかなー)とか私は考えてしまっていたので軽い自己嫌悪を感じていたのだけど、もうすぐ十四になってしまうので少しはバリエーションのあることを考えてもありかなって考えていたらムカつかなくなった。

「あれだ、あの建物。雪樹がい・る・と・こ」

 と見えてきた警察署を私は指差す。オーバーオールに何か変化があるかな? と思っていたけどオーバーオールはただ目をぱちぱちするだけ。その仕草を私は見て、

(署の中までってことね)

 と分かって溜息をつきながら署の前の横断歩道を今度は私が前になって渡り、署の門を通る。もうすぐ私の仕事は終わり。っていうか元々私の仕事じゃないのに。無職なのに。ハローワークなのに。

「ついて来てんの? 迷ってんならこの音の方向」

 と私は皮パンの上からパーンと自分のお尻を叩き後ろを振り向く。

「いないじゃーん!」

 叩いたお尻の音は虚しい空砲になった。振り向けば誰もいない。しばらく呆然と立ち尽くす。でもすぐに首と体をフル回転させて辺りを見渡す。門の外は車が普通に車道を走っているだけだし、人通りもあまりない。この短時間で見えなくなるほどの遠くには行けるわけないし、だいたい視力の低い私が周りを見渡しても意味がない。これって迷子だ。私が迷子か? いや、オーバーオールの方が迷子なのかもしれないけど、とにかく迷子だ。

「よ、よし。とりあえずお巡りさんだよね? これは。だって迷子なんだもん」

 私は自分自身に確認を取って署の玄関に突撃していく。結局どういう訳か自分の意志で警察に行くことになってしまっていた。オモシロ過ぎて笑いも出ない。でも、

「なんじゃそりゃー!」

 勢いよく突っ込んだ署の玄関。オーバーオールはそこにつっ立っていた。さすがにこれは面白かった。はははは……

「もう何も言うことはない。好きにしたまえ」

 と私は両手を広げ天井を仰ぐ。

「携帯かけて。呼んでよ」

 とオーバーオールはキャップを下に引っ張り深くかぶり直す。

「あーあー雪樹を呼べは良いわけね? はいはい呼びましょー呼びましょーここにいれば良いねー」

 携帯を皮パンの後ろポケットから取り出して雪樹のナンバーを呼び出した後、髪の下に滑り込ませる私。

(雪樹なんか呼んでどーするのかね? もしかしたら殺してくれたりして)

 そんな夢見る少女みたいな純粋な願いごとをしつつ私は二回、三回と呼び出し音に耳をすませながら雪樹の声を待つ。

 十回、十一回、――雪樹はよっぽど携帯の画面に出た私の名前が気に入らないらしい。よくあることなので私はひたすら待つ。しつこくてもずーと鳴らしていれば「殺すっ!」か「消すぞ!」かどちらかで電話に出るはず。

「あー出ないや。クソー」

 なかなか雪樹は出ない。私は何度となく髪をかき上げたり、かかとを床につけたまま、ワニの口みたいな足踏みを繰り返したりと体全体でイライラを我慢するリズムを刻んでいたけど、それもついに限界にきた。

「出てきてくださーい。お願いしまーす、返したいんですー。いないのー」

 私が叫び出しそうになった瞬間、オーバーオールがいきなりのタイミングで甲子園の試合開始のサイレンみたいな甲高い声を響かせた。私はビックリして、叫ぼうと大きく吸った息が胸に詰まって咳き込んでしまい、緩くなった股間から何かが漏れちゃいそうにもなった。(最近、緩すぎるぞ私)

「何してるの? 大声出さないで下さい」

 と大声出しながら婦警が歩いて来る。

「ねえーどこー!」

 オーバーオールは叫びまくり。

 どうにもめんどうなことになりそうなので私は、いつになく低姿勢で、

「あのーすいません。ゆ、ゆき……あーいや、母います? 鮎川なんですけれどもー」

 と婦警に聞く。さっきまで私もムカついて興奮していたけど、オーバーオールに先に暴発されてしまい頭の中は一気に冷めた。最近特に熱しやすくて冷めやすい。ジュースの飲み過ぎかな?

「ああっ! そっくり! そう? あーそう! 鮎川さんの? へー」

 婦警は急に目を丸くして私の顔を覗き込む。

「気持ち悪いくらいに似てるわねー。何? お母さんに会いに来たの? そう」

 どうでもいいことをぺらぺら喋る婦警。私はただ一回肯くだけ。

「この子は?」

 と眉をしかめて婦警はオーバーオールを指差す。まったくうるさい婦警。

「あー友達。ガキはそいつの弟。途中で会ったからついで。うん」

 いい加減なこと言ってるなーと思ったけど、婦警が信じようが信じまいがどうでも良いと思った。

「あっそう。いいわ。呼んで来てあげる。たぶん外には出てないと思うし。ここで待っててね。歩き回っちゃダメよ?」

と何だかあっけないくらいに婦警は私を信用して去って行く。警察の明日は明るいなーと思った。合掌。

「これで来るね。真樹のママ」

 無表情でクチャクチャとただ口元を動かすオーバーオール。計算通りといった顔にも見えてムカついたけど我慢する私。

(また一歩かわいくなっていく。ふふん!)

 しばらく待っていると携帯が鳴った。雪樹から。

「何の自首? それ以外は回れ右。帰れ」

 と廊下の遠くで婦警と一緒に(雪樹も婦警には変わらないけど)早や歩きでこっちに向かって来る携帯片手の女がいる。髪は一本にまとめてて、上は白いニット、下は珍しくデニム。相変わらず外づら良くしているらしい。嘘癖ぇーさわやかさだ。

「じゃあねー」

 雪樹を連れて来た婦警は一人去って行く。

「良いお知らせ」

 雪樹は私の前に来るなりそう言った。

「何?」

 期待してない私。

「美人なねって言われた」

 雪樹は笑う。

「へえーあの婦警に言われたの? へえー」

「だから私が美人ってこと。アンタはそれをパクってるだけ。分かる? 偽者。ひゃははは」

 それはそれは楽しそうに雪樹は私を指差して笑った。今すぐさっきの婦警を連れ戻してこの邪悪な笑顔を見せてやりたいと思った。

「バカ? 結局自分の顔指差して笑ってるのと同じじゃん」

 と私は頭をかく。

「最近思うんだよねー。アンタのセックスしてるとこ見たいって。なんか自分の目の前で自分がられてるみたいで興奮しそうじゃない? 少年課の奴紹介してやろうか? 一人すっごいロリの奴いるから。ああ、でもアンタってロリになるのかなー? 歳はロリだけど体は私に似て濡れ濡れじゃん?」

(濡れ濡れの意味が分からん) 

いつになく雪樹はべらべら喋っていた。機嫌が良い部類に入ると思う。けっこう下ネタが多い。

「どうでも良いけどこいつ連れて来たから」

 雪樹の機嫌が良いうちにと、私は横でボーとつっ立っているオーバーオールに向けて手のひらを返す。

「はーん命中しちゃったか? いつ産んだ? 生でやりすぎなんだよ」

(言うと思った)

 雪樹の関心はオーバーオールよりその抱いているガキにいっていた。ホント、みんなよってたかって私が産んだことにしたいらしい。一度だけガキを抱いてマンネリのタコ焼屋に行ったことがあったけど、マンネリのやつ、私の顔見るなり「今日は泣いてええか?」って言いながら一人で焼きかけのタコ焼、片っ端から凄い勢いで食っていた。最近はどいつもこいつも私が母親っていうオチばかり。ボキャブラリーってものが貧困でイケてない。ガキを抱いてたら「あら真樹ちゃん、変わった幼虫つれてるわね? 食材?」くらいの挨拶が欲しい。

「この子が父親? へぇー真樹、自分の兄弟自分で産んだってわけじゃないんだ? まぁ、法律的にってことだけで別にいいんだけどさ。名前は隆樹とか行子じゃないわけ? ひひひ」

 ケラケラと腰が砕けたような抜けた笑い声の雪樹。自分が一番傷つくことを自分で言って楽しんでいる。真性M女。

「私のガキじゃない。このオーバーオール野朗がお前の所につれてけって言うから来ただけ。ガキは知り合いのガキだっての。こんなガキ出したらガバガバになっちゃうじゃん? 勘弁してよ」

「はん! もうガバガバでしょうが。――あーうん? 誰よこいつ? ぜんぜん知らないんだけど?」

 きっ! と私の顔を睨んだ後、雪樹は自分の頭を人差し指でトントンと叩きながらオーバーオールの顔を見た。こうして永遠に続くかと思われた母娘の下ネタ合戦は終わった。

「さあ? お前に返したい物があるとかパンプキンとか言ってたぞ?」

「パンプキンは減点」

 口元を引きつらせながら雪樹は言った。目が笑っている。こういうくだらないのが好きなのだ。こいつは。

「大変だったでしょ? 部品が足りなくて」

 オーバーオールが静かに口を開く。変な声がしたと思った。さっきまでのオーバーオールの声じゃないのだ。はっきり聞こえるっていうか、前はもう少し篭っていた気がする。

「お前、口にナプキン詰めて引っ叩くぞ! こんなバカ連れて来て。お前がバカなのはいいけど類を呼ぶなバカ!」

 雪樹は私に怒鳴った。

「たぶんストーカーだと思う。雪樹か私の。凄い調べてるみたい。豆豆な奴」

「ほほう? ストーカーか。で? 自首しに来たわけ?」

 と雪樹は私の話になんて関心なしって感じでいる。

「これ・も返す。可動する所はあまり変わらないや。肉も同じだろうね」

 とオーバーオールはガキの指を摘み、いじくっていたかと思うと急に私へガキを返してきた。

「口の中でゆっくり解凍してきたから品質は良いと思う」

 オーバーオールが廊下にガムを吐き付けた。私はガムだと思った。たしかに。その瞬間は。

「ああ、心配しないで。悪いことをしてるのは分かってるよ。僕は普通だし、罪悪感もちゃんとあるから。だから盗ったと思われてるんじゃないかと思って返しにきた。お巡りさんに」

 飲み込まれてしまいそうな底暗い瞳で、初めてオーバーオールは私の目を見て話す。まるで違う人間に見えた。トンネルで会った時、元デパートだったビルの下、そして今、急激なのかゆっくりなのか分からないけど確実に、なんか確実に変わってきている。着たオーバーオールも、かぶっているニットのキャップも変わらないのに。何だこの感じ? こいつの眼は?

「帰る。僕は帰ります。寒い。あー寒い」

 またオーバーオールの様子が変わった。自分の頭を両手で抑えたまま、その場で足踏みしている。

 あっ?

 いきなり、もの凄い勢いでオーバーオールが玄関に向かって走り出した。またたくまに私と雪樹の視界から消え去る。驚く間もないくらいに。突発に。

「何だったわけ?」

「さあー? 私はただ望みを叶えてやっただけだもん」

 雪樹と私は唖然とただ顔を見合わせるだけ。鏡を見ているみたいに。

「あら、まだこんな所にいたんですか? ロビーの椅子にでも座ってゆっくりお話すればいいでしょうに?」

 呆然と立っている私と雪樹の後ろから、さっき雪樹を連れてきてくれた婦警がやって来た。

「んー? 誰よもう! 廊下に、お掃除のおばちゃんが大変じゃないの」

 と婦警は廊下にしゃがみ込む。

「まぁ、いいでしょ。それでお金もらってんですからー掃除のおばちゃんって。必要悪、必要悪。あー煙草吸いてぇー」

 だるそうに首をかく雪樹。

「真樹、煙草」

「NOースモーキング。かわいくなろう月間ですから」

 と私は両手を上げる。

「ちっ! あーすいません新庄さん煙草持ってません? もちろんここじゃ吸いませんけどね」

 と舌打ちした雪樹は新庄という婦警の肩に手を触れる。

「新庄さん煙草下さいよ。――新庄さん?」

 雪樹の言葉に新庄っていう婦警は反応を示してないようだった。なぜかずっと座り込んだまま動かない。だけどしばらくして婦警は動きだしたのだ。まるで痺れているかのようにとてもきめ細かくバイブレーションして。

「ぎゃあああああー!」

 思わず耳を塞ぎたくなるような婦警の超絶音な絶叫。また私はオシッコに行きたくなってしまった。

「何ですか? うるさいなー」

 雪樹はペタっと廊下にお尻を突いてしまった婦警に文句を言っている。

「風鈴のとこ行くか?」

 と私は手元に戻ってきたガキの頬っぺたをつっつく。風鈴の所に行くはずだったのに早くしないとあいつの忙しい時間帯になってしまう。私は用事もすんだことだし、こんな居心地の悪い所からはさっさと消えようってことで、ガキを抱き直して警察署を出ようとした。

「ちょい待ち」

 なんか知らないけど婦警と同じようにしゃがみ込んだ雪樹にストップをかけられる。

「何?」

「アンタ、これ何に見える?」

 と雪樹は廊下を指差す。いつになく真面目な顔だ。

「はあー? そんなのあれだろ? オーバーオールが噛んでた……」

 ん? ちょっと私は自分の目が疲れているのか心配になった。だって雪樹が指し示している人差し指の先にもう一個指があったのだ。なんか溶けかけているっていうかデコボコして見えるけど指だ。ちっちゃい指。

 ――指。指?

「あーもう逃げちゃってるかー」

 そう立ち上がった雪樹は遠くを見るような目をして署の門の方を眺めた。

「ガム? こういうガム?」

 私は聞く。

「はい、違うねーこんなガムはないねー」

 雪樹はポケットからハンカチを出し、落ちているぐちゃぐちゃを拾う。

「明菜ちゃんの破片みーつけた」

 と雪樹はハンカチで指を包む。

「うーむ。良く分からないけど私は帰った方が良いみたいですな。うん。ご苦労様です」

 私は帰ろう。うん。子供が邪魔しちゃいけねー。

「さて、美人なお母さん似のお嬢ちゃん。ちょっと署まで御足労、願えますでしょうか?」

 と雪樹の世迷言。

「はて? 美少女な娘似のオババ。ここはどこだったかしらん?」

 と私の戯れ言。

「あーあーあー」

 とガキの泣き言。

今日私、風鈴の所には行けそうにもないらしい。

 


 通算何度目かな? この、机と椅子二つのブラインドがいつも下りている部屋で向かい合って話すの。でも新鮮なのは目の前にいるのが雪樹ってこと。初めて。

「ねえ花束くれないの? この歳では最多入室でしょ? 取調室」

 と頬杖をついて私は言った。

「嬉しいでしょ? 親の職場じゃなかったら普通アンタの歳じゃあこんなに入れてもらえないわよ? 取調室」

 と雪樹は笑う。

「いらないそんなフリーパス。せめてスポーツジムのにして」私は自習を要求する生徒みたいに取調室の机を揺りカゴみたいにガタガタと揺らした。

 雪樹の他には若い男の刑事がいる。青いネクタイでマッシュルームみたいな髪型をしていて、何度となくハンカチで首や額の汗を拭いている。そんなに暑いのかね?

「ねえ、眠むいからあんまりアンタにからみたくないわけ。分かる? だから簡潔にいくわよ?」

「いくわよって私、一回もイったことないんだけれども?」

 と私は軽く背伸びをする。

「この写真の女の子知ってるでしょ。知ってるわね?」

 そう言いながら雪樹は指に挟んでいた写真を机の上に置く。私の話は無視だ。もうあくなき下ネタ合戦はしないらしい。忠実に職務遂行ってやつ。

「はいはい、知ってますよー会ったことありますよー」

 と私は頭の両端で髪を掴み、おさげを作って左右に体を揺すった。写真の女の子もおさげ。小さな小さな女の子。タコ焼き好きの女の子。私の髪を掴んで離さなかった女の子。家まで送って行ったあの女の子。

「桑田明菜ちゃん。五歳」

 雪樹はたんたんとした感じで言った。

 無視する雪樹、冷めた雪樹、そんなものは小さい時から知っている、いつもの変わらない雪樹だけど、今私を調べている雪樹は初めての雪樹だった。きわめて普通に私との会話をこなしているけど、なんか変だった。いつもに比べて威圧的でもないし、嫌味も言わない。でも私は凄く嫌な感じがした。ふざけても反応ないしね。

「ふーん五歳か。でも五歳・・・だったんじゃないわけ?」

 と写真も雪樹の方もろくに見ずに、私は下を向いたままひたすら自分の髪の毛をシクシクと編み込んだり毛先を掴んで束にして、鼻の頭をなぞったりと遊んでいた。

「そう、五歳だった。過去形」

「誘拐? それとも潰されたんだ?」

 と私は腕組みをしたまま腰を左右にニ、三回ひねる。

「後者のほうね。この子の母親は結構頻繁に家を空けていたみたいで子供の世話っていうか、ご飯とか作って上げるだけでしょうけど、そういうのは全部家政婦がやってたみたい。比較的、人なつっこい子だったらしくて家政婦さんの声がするとすぐに走り寄って来たらしいわ」

 と雪樹は写真の女の子を指でなぞった。

「たしかによく一人で遊んでたみたいだけど、よくは知らねー。一回だけ家まで送ってっただけだもん。言っとくけどぉーオーバーオールのことだって知らねーぞ。ホントさっき会ってお前のとこまで連れてけって言うから連れて来ただけなの。ホントだぞ。アホー」

「嘘とは言ってない。アンタ、都合が悪いことは嘘で誤魔化すより完全に黙秘するタイプだもんね。それだけ口が回るってことは嘘じゃないんでしょーよ」雪樹は自分の目を見ない私の前髪を掴み、顔を無理やり向けさせた。ほとんど一センチ感覚まで。

「で、さっきのオーバーオールが吐き出した指ってやっぱりその女の子のものだったわけ?」

 と私は雪樹の鼻先をぺロッと舐めてやった。

「うわっ! 汚なっ! 知らないわよ! まだ鑑識から何にも言ってこないから」

 雪樹はそんなに拭かなくってもってくらい袖でごしごし拭いた。失礼なやっちゃ。自分のDNAが入っているのに。

「あれだ? やっぱりゴミ袋とかに入ってたのか? 女の子のバラバラは?」

 と雪樹が慌てたので話の内容とは別に私はニヤけた。

「ご丁寧に組み立ててあったわよ」

 と雪樹は溜息をつく。

「はあ? それ面白くないぞ。ばーかばーか」

 くだらねーこと言いやがってと私は舌を出す。

「ホントに組み立ててあったのよ。家政婦が女の子の家に行ったらいつもみたいに駆け寄ってこないから子供部屋を覗いて見たら、暗い部屋の中で壁に寄りかかって座ってたらしいわ。で、声をかけても反応がないから寝てると思ってベッドに運ぼうとして抱き上げたら――取れちゃったんだってさ」

 気の抜けた感じで笑う雪樹。

「取れちゃったって何が?」

「首が。ぽろんって」雪樹は親指を下にして首をかっ切るポーズをした。雪樹の話しを聞いて、さすがに私もボーぜんとしてしまった。

「だ、ダメじゃん、ぽろんってダメじゃん」

 自分で自分が何を言っているのか分からなかった。

「一回バラバラにした女の子の体をガムテープで引っ付けてたのよ。まるでプラモみたいに」

 雪樹の言葉を聞きながら半分、上の空だった。肉を食べ過ぎた時みたいなじりじりした胸焼けの気持ち。面白い映画を見た後の変なハイテンションにも少し似ていた。

「指も全部切り落としてあったんだけど、左手の小指だけなかったのよねー。良かった。断定できないけど戻ってきて」

 と雪樹は私の頭を撫でた。

「やっぱあのオーバーオールが殺ったの?」

 私は聞く。

「さあね。限りなく怪しくて、私の中では疑う余地なしって感じの段階かな? オーバーオールが今日来るまではアンタを疑ってたんだけど。外での目撃証言、アンタがあの女の子を連れて歩いてたってのを最後に途切れてたから。深い考察とかは抜きにして。単純にね」

 と雪樹は机に両肘を突き、開いた両手の手のひらに顔を乗せたまま笑った。アイドル雑誌の表紙によくあるポーズ。

「じゃあ案外次は私かお前かもよ? 良く知らないけどお前と私のこと、色々知ってた」

 私も雪樹と同じポーズを取って言った。

「それ分かんないんだけど、ホント、あのオーバーオールのこと何も知らないわけ? ぜんぜん接点ないじゃん」

 と雪樹が顔を左右に揺らしながら言ったので私も真似して、

「女の子が死んだのって最近だろ? そのずっと前に私、神嶽の近くのトンネルでオーバーオールに会ったんだよ。ひひひ。猫の首投げつけられた。どうも、ずっとつけられてたみたい」と言った。

「んーなんだそりゃ? 女とかガキとか動物とか、そーいうや殺りやすいのを狙って遊んでるごく普通の少年Aなわけ? つまんないわねー」

「さー? でもお前は狙われてねーだろ? 私の流れでお前も調べてるだけなんじゃねーの?」

 と私は雪樹の髪を引っ張っる。

「あら分かりやすい。じゃあアンタを張ってたらあのオーバーオール、捕まえられるじゃないのさ。イエーイ、ポイントアップ」

 雪樹がガッツポーズをした。

「もう良いでしょ? ガキがいるもんでねー、早く帰らないと」

 と私は席を立つ。

「うん、良いわよ。赤ちゃんは一階の自動販売機の前のソファにいるから。たぶん誰かが抱いてるわ」

 と手を差し出して雪樹は言う。

「ねえねえ? それで女の子の母親とかどうなったの? やっぱとち狂って入院しちゃったとか?」

 私は雪樹の後ろに回りこんでしめ縄みたいに一本にキツクまとめられた雪樹の髪を引っ張っる。

 ガリガリっと床をこする音がした。雪樹が椅子を引きずって回し、向きを変える音。

「入院したことはしたわよ。でも睡眠薬の飲み過ぎだけど。私がさ、何気なく聞いてみただけなのよ。切断された痕以外に青染みたいなものが見られたんですけど、お子さん、何かお怪我でもされてたんですかって。そうしたら次の日彼女の口には溢れるばかりの白い錠剤がわーらわら」

「ああ、やっぱ虐待してたんだ。OH! ジーザス! ドメスティックバイオレーンス?!」

 と私は取調室の机の上にお尻を乗せて雪樹を見下ろした。今度はこっちが取調べしているみたいで面白かった。

「さあ? まあ、してたんじゃない? 虐・待。青染みも新しい腫れをともなったものは少なかったから犯人がやったってものでもないんだろうし、曲ったままの親指とか、肋骨に自然治癒した骨折痕みたいなものもあったし。まあ、愛情はあったってことなんですかね? 自殺未遂までしたんだから」と雪樹は机の上に乗った私の太ももを叩く。パチンと良い音がした。ピチピチだからね。ひゃひゃひゃ。

「ほんまに愛情表現の自殺未遂なん? じゃあアンタも死ねばええやん? なー? オカン?」

 適当大阪弁で私は言う。

「パンツ、上から出てるわよ。ケツの線まで見えてる」

 と雪樹は胸ポットからボールペンを取り出して、私が穿いている皮パンとお尻の間に空いた隙間にペンを差し込んだ。

「そう言えば割れ目でポン! って番組なかったっけ? 昔」私は机を降りる。

「喜多くん。悪いけどこの子送ってってくれる? 別に家までじゃなくてもいいから。適当な所で離しちゃって。パチスロに行ってたのは黙っててあげるからぁ」雪樹は私の皮パンに差したペンを抜き取ると指先でクルクル何回も回す。マッシュルームみたいな頭をした刑事が雪樹の言葉に小さく肯いた。

「へえー珍しい。産み捨て主義解消?」

 と私は両手を広げる。

「せいぜいオーバーオールの食いつきがいいように美味しそうに歩くのよ。エ・サ」

 足を組み直して雪樹は言った。

「バカ? そんな努力するわけないじゃん。立ってるだけでたた勃起せる!」

 と私は胸を張った。

「へえーそう? 喜多くん勃起した?」

 雪樹は中指を上に立てる。

「はいはい痛いくらいですよ。じゃあ娘さん送ってきますから。――じゃあ行こうか?」

 喜多という刑事は私の背中を軽く叩くと取調室のドアを開け、外に連れ出した。

「先に玄関口の所まで行っててくれるかな? 俺は赤ちゃん連れて来るから」

 取調室を出て階段を下りている途中で刑事は言った。

「はあ。分かりました」

 と私は敬語で答えた。別に良く思われようというわけじゃなく、初対面で殴ってもいい部類以外の奴が苦手ってだけで、本能的に敬語っぽい感じで喋っとけば面倒じゃないだろうってだけの話。敬語で壁を作ってあまり親しくならないようにしようってのもあるかもしれないのだけど。

 玄関を出てすぐの小さな階段の前で背伸びをしたり、パーカーの中に手を全部入れ、隠したままぐるぐる回ったりしながら刑事を待っていたら自動ドアが開いてガキを抱いた刑事がやって来た。私が敬礼ポーズを取ると刑事も敬礼した。なかなか礼儀正しい奴。

「ごめんねコート探してたんだ。いつも適当なとこに置いちゃっててさ」

 と刑事は自分の着ている黒いハーフコートの襟を摘んでみせた。

「ラムレザー?」

 私は刑事のコートの袖を掴み、言った。

「へえー? 触っただけで分かるんだ。凄いねー」

「いや、なんとなく。あ、ガキ貸してください」

 そう言って刑事からガキを受け取ると私は一人スタスタ歩き出した。ガキはめくるめく環境の変化なんてものともしねーといった感じですやすやと眠っていた。桜子と違って将来有望かも。

「ははは。やっぱり俺が抱いてるより赤ちゃんも気持ち良さそうだね。柔らかそうで」

 足早に歩く私に追いつき、刑事が言った。柔らかそうとかそういうのはいらないと思った。

 帰り道、私はお城の堀の脇を通らずにTV局の前を通って、税理士とか弁護士の事務所が並んでいるちょっときな臭い通りを歩く。こっちの道の方が家まで近いのだけど、街灯があまりないし、踏み切りを渡らないといけないので普段はあまり通らない。怖いとかじゃなくて昔から隆行さんにこっちの道はあまり通るなって言われていたので習慣みたいなものであまり通ったことがなかったから。今日はへろへろっぽいけど男の刑事も一緒にいるし、気分転換の意味も込めて珍しくこの道を歩く。

「暗いねーこの道。いつもここ通ってるの? 危ないよ? この間もここでOLが一人、顔切られてるんだ。通り魔」

(言われなくても知ってるっつーの。住んで長いんだから)

「時と場合です。今日は刑事さんがいるから通ります」

 嘘は言ってないけどうそ臭い返事をする私。

「あーそうか。うん。今日は大丈夫だ。うん」

 自分に確かめるように刑事が肯く。

「ふふふ」刑事が一人笑いを始めた。特に気にならなかったので私がほっといたら自分から笑いのわけを喋り始めた。

「さっきの君とお母さんとの会話凄かったねー。鮎川さんも普段の雰囲気と違うからさー。さっき君を送ってって言われた時、俺、何も言わなかったでしょ? あれ、笑いを我慢してたの」

「バラバラの女の子の話、そんなに面白かったですか?」

 と私は意地悪を言った。

「おっ! 意地悪いね。お母さんと一緒」

 なんかこの刑事、一言多いタイプだなと思いつつ、でも和ませて話しやすい方向に持っていこうしているのだと思ったので「良く似てるって言われる」と私は敬語をやめて話すことにした。

「うんうん美人だね。とっつきにくいって言うか、からみにくいっていうか」刑事は肯く。遠回しに私もそうだと言わんばかりに。ホント、一言多い。隆行さんとはま逆な感じ。隆行さんはいつも一言少ない。

「ね? 正直モテるでしょ? 案外あのオーバーオールの子も彼氏の一人だったりして」今度は一言どころじゃない刑事。この遠回しな感じがオッサンは嫌。直接言ったらどうだとか、遠回しだとあれだとかって、こういう会話に作戦を立てていること自体がムカつく。一気に喋りたくなくなる。そんで結局途中で自分からキレだしたりなんかして「何で俺がお前なんかに、こんなに気を遣わなくちゃいけないわけ? バカじゃねーの?」とか言ったりする。で、そのキレた態度も後で利用して、こっちに「ちょっと悪いことしたかな?」って思わせようとしたらバッド! テーブルの上にある物とか乱暴に置き直したり、「はあー」とか溜息つきながら外の景色とか見て指でトントンとテーブルなんか叩き始めて自分のイライラを見せようと身振り手振りも加えだしたらもう死んでくれる? 成層圏で燃え尽きちまえ! って感じ。相手の気持ちを考えてってより、相手の気持ちを自分勝手に型取りして好きなようにしようなんて、大人な感じを勘違いしちゃう歳なのかねーまったく。クールになりたいお年頃ですか。私はしばらく刑事が喋りかけるのを無視して歩き続けた。

「あの、なんかごめんね? 怒った? ほらあのさ、俺三十だけどさ、君から見ればオジさんに感じたろ? いやー自分で自覚がないとこが怖いよね?」

 刑事がフォローを入れている。もう勘弁してよって感じ。無視して歩くのもイライラするし、キレるのも疲れる。もうホントに疲れているのだ。今日の、いや日付が変わっているから昨日から今日にかけての私は。

「あの、色々ありますけれども、また用があったらその時話しますから。メリハリつけていきましょ? 取り合えず今は事件の話はしません」

 一気に溜まった物を吐き出すようには言わなかった。言いたかったけど慌てた感じじゃなくて落ち着いて言いたかったから。

「ああ、これはご丁寧に。すみません。じゃあ今はどんなこと聞いていいの?」

 刑事は謝った。

「そうですね。夜ですから胸のサイズとかなら差し支えなしです」

 無表情で私は言う。

「へ? あああ、大きいね……いくら?」

「推定Cです。公式にはDにしてます」

「どうもありがとうごさいました!」

 と刑事は深々と頭を下げた。それ以後刑事は静かになった。私は勝ったのである。

「もうあの踏み切り渡ったらすぐですからここで良いです」

 踏み切りを渡ってぺプシの自動販売機をすぎればすぐに自分の家。私は振り返って刑事にお別れを言った。つもりだった。

 振り向きざま、いきなり刑事の硬く冷たい拳が私の顔面を襲う。右目の上辺りを弾くように直撃。私は思わずガキを落としそうになったけど気合で抱いたままアスファルトに倒れこむ。同時に電車が唸りを上げながら真横を通り過ぎる。何だこれ? 私、殺されそうになった? 一瞬の出来事の中で、一瞬の思考が私の中を電車と同じように走り去る。通り過ぎて行く電車のコントラストなライトが走り寄って来る刑事の姿をまるで電気信号みたいに点いたり消えたりさせながら照らし続け、その浮かべている笑顔は私が産まれて初めて見るって言っていいほどの気持ち悪くひどい生物の笑顔だった。刺身を生卵につけて食うような生臭い顔。

 あまりに瞬間的な出来事と殴られたダメージで私は声が出なかった。刑事はというと倒れている私の手を強引に引っ張り上げ、私を無理やり立たせると後ろに回りこみ口を抑えた。とにかく貧素に見えた体からは想像できないほど凄い力。私はとっさに刑事の手へ噛みつき、刑事の力が一瞬緩んだのを見るとそのまま後頭部で相手の顔に頭突きを喰らわし、その隙に立ち上がってムカつくけど、ここは冷静に逃げようした。ガキもいるし先制パンチのダメージもある。モロに肩から倒れたので肘から上に電流が走っているみたいでメチャクチャ痛い。しかもなんと最悪なことに踏み切りが下りたまま。バットタイミング、開かずの踏み切り。

「へへ。ばーか……」

 潜って渡ろうという判断に手間取ってしまった私は刑事に足首を掴まれ引っ張り倒される。前のめりに倒れそうになったのでガキがアスファルトと自分のサンドイッチになってしまうと、ギリギリで体をネジらせて背中から地面に叩きつけられる私。頭を浮かせたので意識にダメージはなかったけど背中がバラバラになりそうな衝撃が脊髄を駆け上って脳天を突き抜ける。その背中のダメージに対してまだ私がショックを受けている最中に刑事は私の上へ馬乗りになってきて三発、四発と顔面に向かい拳を振り下ろしてくる。とっさに真正面からパンチを食らわないように顔をそむけて頬で拳を受ける。

殴られている途中で他の人の気配と足音を感じた。やがてその気配と、急激に加速し、近づいて来る足音は私のすぐ真横までやって来て……そのまま通り過ぎて行った。殴られている最中だったのでよく分からなかったけど男の二人組みに見えた。別になんにも期待してないんだからゆっくり通れば良いのに。踏み切りだって上がったばっかりなんだから。

ガキを抱いているから手でガードもできないし、ひたすら頬で体重の乗った重たいパンチを受け続けたせいで口内に鉄分がにじみ、奥歯がきしむ。たぶん折れてる。ホント、これを鼻に食らって折れたりなんかしたらブスになっちゃう。勘弁してよ。もう!

「もっと静かな所に行こうか? 俺は騒がしいとこはダメなんだ」

 そう言うと刑事は私の足首を強引に引っ張り始めた。私は無理やりにアスファルトを引きずられ、さすがにガキを抱いていられないと思って引きずられながらも周りを見渡し、ガキを隠そうと考えた。

(あーくそ! 遠いか? もうっ! いけー!)

 踏み切りの前の空き地、網も壊れてボロボロ、安心保証人って闇金っぽいずれた看板、真下に草むら、私は半ば投げるようにガキを放った。うまくいった? 暗いし、私の体勢は仰向けになってしまっているからよく見えない。

「あーあーあー、ぎゃあーん!」

 ガキの泣き声。さっきまであんなに静かだったのに。

(まあ、泣くか。産まれてちょっとでこんなことばっかり続いたら。普通は)

 刑事に引きずられながら世界が逆さまに見えるなかで、なぜか私は笑顔だった。訳が分かんないけど、笑顔じゃないといけないと思った。ガキが泣かないように。安心するように。ガキが私の顔、見てるわけでもないのに。

「うるさい」

 と刑事が吐き捨てる。

(やばっ)

私はガキの泣き声が刑事を刺激したのかと思い、あせった。けど刑事は私の足を放してまた私の後ろに回りこむと手で私の口を抑え、もう片方の手を私の脇の下へ入れてきて、さっきより早いスピードで私を引きずった。ガキのことは眼中になかったみたいなのでまあ、OKかな? と思った。

刑事のなすがままの私。動こうと思えば動けたけど無理はしない。無駄に動いて殴られて体力を削られたらもったいない。パワー充電。顔も体も痛いし、もしかしたら歯以外で折れている所もあるかもしれない。当然、仲間みたいな奴がぞろぞろ出てきちゃったらどうしようかなーという考えもあったけど、仲間がいるくらいならもうワゴン車とかすぐ脇に用意しているだろし、とっくに出て来てもいるだろうなと思った。

 引きづられ、シューズのカカトがアスファルトに削られていく音を効果音にゆっくりと動き続けていた私の狭い視界。そこに映っている映像のスクロールがついさっき通ったばかりのちっこいビルの前で停止する。てっきりどこか工事中の場所にでも連れて行かれるのかと思ってたけどえらく手身近な所で止まってしまった。

「エロそうな体な分、やっぱ重いな。まあいいかここで」ビルの階段は見向きもせずに刑事は一階部分の駐車場へと私を引きずっていく。

「はあー。ほら、転がってけ」

 疲れたのか刑事は私を駐車場の入り口の緩い傾斜になった部分に寝かせると横顔を踏みつけ、まるでブレーキを踏むみたいに強弱をつけながら足首を上下させた後、足で私の体を蹴り押した。私はわざと勢いよく転がって刑事が見失うくらい早く駐車場の奥に行ってしまおうと考えた。この暗さだし、向こうが来るまでに体勢も整えられそうだしと。そうしたら意外や意外、すぐに私は壁にぶつかってしまった。駐車場、すっげー狭かったのだ。ついてないことに鼻もぶつける。せっかくさっきから守ってきたのに。

「さーて抜いとくか」

 とゆっくりと上から降りてくる男。じーっ! 音を聞いてうつ伏せのまま薄目を開けると男はチャックを下ろしていた。

(ブサイクな形。こいつの)

ベルトはそのままで簡単にすませようって感じがありあり。私は携帯トイレか! ってツッコミ入れたくなった突っ込まれそうな私。

後ろ髪を掴まれた私は、顔を刑事の方へ向かされる。

「ねえおっさん? 雪樹には内緒なわけ? これ」

 私はウインクする。

「なんだよ。気失ってないのか。俺はブチ込んでる最中に目を覚まされるのが好きなのに」

 と刑事が私のみぞおちにアッパー気味のパンチを入れてくる。私はウッと息が詰まって意識が消えそうになるのを、唇を血がにじむくらいに強く噛み込んで我慢する。気を失ったら終わり。と思ったら刑事が私を蹴るたびに、いきり立って飛び出している刑事の如意棒が大きく立て揺れするもんだから、思わず口の中にある折られた歯と一緒に噴出して大笑いしながら蹴られ続けた私。おかげで私のお腹には笑いと蹴りのダメージがダブルで。気を失う暇もないくらいに地獄の苦しみだった。

「我慢するなって。ほら。消せよ。い・し・き」

 くの字にうずくまった私が抑えているお腹に刑事はまた一発蹴りを撃つ。

「母親と同じで嫌な奴だねーお前。気にするな。事件と関係ないからさ。たんなる俺の趣味。お前みたいに親にも吐き捨てられてる奴の相談に乗って気持ち良くしてあげてるわけ? わかる?」

 そう言うと刑事は私の上になって私の皮パンのチャックをゆっくり下ろす。いきなり最終段階に突入する気まんまんだ。前戯もなしか? ニットくらい脱がせてよ。もう!

「いいこと教えてやる。お前の母親も俺がどんな奴かってことくらい知ってんだよ。それ知っててお前を送らせてんだ。どうだ? 泣きたいだろ?」

 と刑事は私の皮パンを一気に引き抜くように脱がし、投げ捨てた。刑事にしてみれば一番盛り上がってるとこ。でもねー雪樹も私がどんな奴か知ってて送らせたと思うよーって言って上げたかった。

「へえー白いねー」

 そう刑事が私の下腹を撫でながら感触を確かめるように指で押したりなぞったりしていたかと思ったら、次の瞬間刑事はまたその場所にパンチを撃ってきた。今度はとても深くエグるように。刑事は拳を私の下腹部に当て続け、そのまま拳を引かずにグリグリと痛ぶる。よっぽど気を失わせたいらしい。失神マニアか? でもさすがにこれはやばかった。唇の端から唾液混じりの泡だった血がにじんで流れ、涙目になる。コンクリートの天井がにじんで消えそうになるのを、唇を噛むのと太ももを自分でつねることで必死に食い下がる。自分で思っている以上にダメージは深いんだろうなと感じる。感覚と体を動かすタイミングがずれてきている。

 私が目を閉じたので満足したのか失神したと勘違いしたのか男は嗅ぐようにして私のヘソ下へねじこみ気味に顔を埋めてきた。

(一撃必殺モードだなー。ワンチャンか)

 私は完璧に動くのをやめて静かに、刑事のなすがままにじっとした。あまりにもキモイので一応意識的には(犬が股間を舐めている)ってことにしていたけど無駄で、やっぱ超S級にキモイくって早くシャワー浴びたいって気持ちでいっぱいだった。

 太ももの付け根の場所に刑事の唇が当たる。思わずピクッと動きかけた。どうやらそのまま刑事は私のパンツの紐を噛んで下ろし始めたみたい。この世で最悪の瞬間だーって言っていいくらいの感触が太ももから膝にかけてをチクチクと何度も往復する。絶句! 髭地獄。むしろ私はやらせてやるからその髭はやめろって言いたかった。

「ふーん。意外に薄いじゃん。そういえばあいつも薄かったな、顔は濃かったけど」

 という刑事の言葉と同時に生暖かい息が股間に当たる。吐き気がした。あんまり腹が立つので桜子みたいにオシッコでもかけてやろうかと思ったけど、こいつ逆に喜びそうだし、私の体の機動準備も完了したのでやめた。

 かぱ! こんなに綺麗にいくとは思わなかったと言うくらい綺麗に刑事の頭は私の太ももに挟まった。今まで我慢していた分を爆発させた私は最大出力で太ももを締上げると間髪入れずに地面へ手を突き、上半身を浮かせ、そのままおヘソを冷たいコンクリートの地面につけるように腰をひねり回転させる。挟まれた刑事の頭も一緒に綺麗に回転。まんまと刑事の後頭部はコンクリにドッカン! まさに花びら大回転って感じ。刑事は詰まったような小さな悲鳴を上げたかと思うと狂ったように私の股をかきむしってはずそうとする。

「静かにしろ! 感じちゃうじゃん!!」

 と今度はマウントポジションを取って刑事の上に乗っかった私は股に刑事の顔面を抑えこんだまま直下型ナックルの連打連打連打!

「天国でしょー? いっちゃえ! いっちゃえ! いっちゃえ! いっちゃえぇー!!」

 噴出す刑事の鼻血が私の股間を真っ赤に染める。アーン、まさに出血大サービス! 段々と静かになっていく刑事。百発やられて一発で勝つ。しみじみと人生だなーと感慨にふけっちゃうね。

「あーあ。こんなに血だらけじゃーさー、やら犯れたんじゃないかって思われちゃうじゃん。もー責任とってー」

 と私は刑事のネクタイを掴んで起こす。でも刑事の目はすでに死んでいた。

「はーあ。やっぱ今年もついてないのかなー。腹立つなー抗議してやろう。慰謝料くらいもらわないと」

 そう言って私が刑事の背広の中を探ろうとした時、急に笑点のテーマが駐車場のコンクリの壁の中を反射しながら鳴り響く。何? と思って耳をすますと、どうやら音は私の投げ捨てられた皮パンから聞こえきているらしい。そうだ、笑点、私の携帯の着信音だ。私は立ち上がると膝下まで下げられたパンツのせいで二人三脚みたいな歩き方になりながらよちよちと皮パンの所まで行って後ろポケットに入った携帯を取り出す。なんと電話は雪樹から。正直携帯を叩きつけてやりたい気持ちになったけど電話に出る。

「勝たれましたな」

 雪樹の第一声。

「お前、出て来い! 見てやがっただろ! 殺す」

 私、超憤慨。

「いやさ、お前もホントバカだね。普通気づかない? ケツにボールペン入れられてたらさー。見てみ? 皮パンの中」

「は? ボールペン?」

 湯立つ頭を抑えて私は皮パンの中を探る。するとたしかに雪樹が持っていたボールペンが淵に掛かっていた。

「あれ? このボールペン? お前たしか抜いてその後も手で回してたじゃん? ってそんなことどーでも良いの! 何だよ! この変態は! お前知っててやっただろ! どこに隠れてんだよ!!」

 私は当然荒れ狂う。

「ばーかボールペンなんか何本もあるもーん。ばーか。そいでそのボールペンのキャップはずしてみ? はずれないから。はずれたら何もあげない」

(あークソもうムカつくー。どないせーちゅうねん)

 と力いっぱい私はボールペンのキャップを引っ張った。けどなかなかはずれない。やばい。かなり弱ってるかもと私は自分の体が心配になった。段々とアドレナリンも切れてきて痛みが体中を襲う。

「あのさー神嶽の地下街があるじゃん? そこのビデオ屋で裏がけっこう出回ってるって聞いたからお仕置きに行ったのね? そうしたらそこ、携帯の形とか腕時計型とかまねき猫型とか色んな盗聴器置いてんのよー面白くって全部譲ってもらっちゃった。どう? お気に入りなんだけど良くない? そのペン型」

(豚玉の店かぁー!)

 と私、ペンを壁めがけて投げつける。

「有限実行じゃん? 喜多の奴勃起させたんでしょ? 良い餌じゃん! オーバーオール用かと思っちゃってたりしてた? もしかして?」

 という雪樹の言葉に私はしっくりくっきりと明確に殺意を感じる。今目の前で倒れている刑事に対してより激しく。頭の中が真っ白になっていく。いや、真っ黒に。

「ほら、その喜多って奴さー少年課にいる時から有名なレイプマンだったのぉー。家出してるガキってさぁー家に連絡されるのを死ぬほど嫌がるでしょ? そこ狙って相談に乗るって感じで自分が喰ったり、お風呂に沈めたり、やりたいほうだい。無駄に頭だけは良いからなかなか証拠残さないし、被害受けた女の子は絶対、家に連絡なんてされたくないから被害届は出してこないし。それにまあ、表沙汰になんないなら、それにこしたことはないって空気ももちろんあって、今までどこの課でも持て余してたの。で、私が引き取ったのよん。ひひひひ、やったね。こんなに上手くいっちゃうなんて良い年だわ今年。今からそっち行くから喜多、ちゃんと見張ってるのよ。現行犯って形でいくんだから。まあそれだけじゃたいした罪にもなんないけど」

 携帯で雪樹の声を聞きながら私は足に引っかかったパンツを脱ぎ捨てて、刑事のそばに寄った。

「きゃーいやーやめてーやめてよぉーおじさーん! 痛いよう!」

 と当然録音されていて後で編集されるであろうペン型の盗聴器に向かって語りかける私。やっぱかわいい声は入れとかないとね。

(あーもう何の液かわかんない)

 汗 刑事の血、唾液、私の……? と指で自分のあそこに触れ、この不思議な混合液の成分を考察したりする私。

凍てつく夜の空気に下半身を固められているのにも関わらず、股から頭にかけて体の中心が一本のとても熱い熱線のようなものにブチ抜かれてしまったように感じる。おまけに脳腺も一本ブチ切れているみたい。

「うわっうわっうわっあああ!」

 あんまり憶えていないけど、喜多という刑事の左の眼球にはペンが突き刺さっていた。血がドップリ。私は刑事に突き刺さったペンを可哀想にと引き抜いてやる。これはちゃんと記憶にある。

 眼を抑え、打ち上げられたばかりの魚みたいにビチビチ暴れ回る刑事。私と同じ見えなくなった左眼。おそろい。

「あっガキ?」

 もう刑事のことなんてどうでも良かった。私はペンを投げ捨てるとパンツを拾ってアソコを拭き、目を抑えて痙攣しながらうずくまる男のずぼんのポケットにそのパンツを仕込み、その後、刑事に投げ捨てられた皮パンを拾い穿いて、ガキを放り投げたはずの空き地へと走った。私に「もうほっといて!」ってくらいの寒さと肩や背中の激痛が襲う。マジで倒れることができるのなら、どんなに楽か分かんない。でも倒れないこの体。ああ、早く人間になりたーい! って人間だっつーの。ちょっと健康過ぎるだけ。

 踏み切りの音が聞こえる。電車が通過し始める。するとその前に人影があった。その人影は別に歩いているわけでもなく、ただ踏み切りの真正面に立っていた。私は警戒する力も残っていなくてただ漠然とその影に近づく。

 影はガキを抱いていた。

「あー良かったねーお姉ちゃん帰って来たぁー」

「雪樹と同じか。お前も遠くで見て楽しんでたわけ? それとも何? お前もつまんねーことに一口噛んでるってわけ? まあ、わたくし超健康優良児ですから別に平気なんですけれども。永久機関でも積んでたりして? 子宮の中に」声が上手く出せなかった。お腹が痛い。どうせ倒れても、そのまま放置されて、朝になって、冷たくなっているだけ。風鈴のそば以外で私を起こしてくれる所なんてどこにも存在しない。だから立っていないといけないんだけどね。なんとなくでも。永久機関なんてなくたって。

「はーい。大きいお姉ちゃんから小さいおねいちゃんへ贈呈ですぅー」

 と冬実は抱いているガキを私に差し出す。

「逆だろうが。お前の方が小さいじゃん」

 ガキが鉄の塊みたいに重く感じて、ふんばった足がアスファルトにめりこみそう。パワーの残量が残り少ないのを感じる。

「さー帰ろう、とっとと帰ろう。そさくさ帰ろう! シチューが待ってるわけでもないのだけれどぉー」

 手をパンパンと叩きながら冬実は言う。

「ああ帰れバカ。消えろ」

「消えよう消えよう。もう真樹ちゃんがお姉ちゃんだからねー冬実お姉ちゃんは引退です」

「お前は産まれた時から引退だろ。大事にしたくない天然記念物みたい。トキだトキ。早く死んで欲しいトキ」

 踏み切りが上がる。冷たい風が冬実と私の横をレールを敷いていくように伸びていく。

「もうすぐだねー真樹ちゃん。もうすぐブウァと弾けて混じっちゃう。ね? だから行ってらっしゃい」

 冬実はギャルソンがお客を席へ招待しようとするみたいにお辞儀をして片手を広げた。なんか変な感じがした。妙に冬実の顔が懐かしい。いつもゴキブリみたいに沸いてくる顔なのに。

「へいへい。どうもどうも」

 と高く上がりきった踏み切りを私は渡る。隆行さんの閉めたままの診療所が見えてくる。私の家。そういえば最近見てねーなあのひと男。前は一週間に一度くらいは顔を合わせていたのに今では月に一度ペース。三年目の夫婦ペースだ。深い意味じゃなく。

「私も最近よくブラブラしてるから今一番家にいるのって、お前の母親だね。ワリにあわねー話。お前もでかくなったら新聞配達からやらすからなー。そんで親子共々私に貢げ?。じゃないと親子丼にして東南アジアに売り飛ばすぞ?」

 と診療所の外階段を上がって二階のドアに向かう途中でガキがムズがるというか、泣いているわけでもないのに手足をバタつかせたりして暴れ始めた。

「うるさいー。もう落とすぞバカガキ!」

 ガキを片手でちょっと強めに抱き上げながら家のドアを開ける。カギが閉まっていたら桜子を絞めてやろうと思いながら。

「桜子」

 ――ガキが桜子を見て手を伸ばす。とても元気だ。リビングには近所のいくら大きな声を出しても奥から出てこないうどん屋さんの看板が掛かっている古道具屋の爺さんから買った3800円のテレビが点けっぱなしになっている。キッチンで料理をしながら音だけ聞いていたのだろう、音量がでかい。まったく近所迷惑だ。私はいつものように玄関のすぐ横にある冷蔵庫に手をかけたまま靴を脱ぎ、流し台の前で膝をつく桜子の髪を掴み後ろに引っ張り倒し、仰向けに寝かす。乱暴だけれどしかたがない。ガキで手が塞がっているし。

床へ仰向けになった桜子の胸の辺りにガキを置く。さんざん行きたがっていたのでガキは嬉しそうに手でぱんぱんと桜子の胸を叩いている。体が久しぶりに軽くなった感じ。どうもガキを抱いていると物理的に手が不自由ってことより精神的に不自由だ。一歩歩いて十歩疲れるって感じ。私に愛情がないっていう証拠なのかも。やっぱ桜子は母親だから精神的な不自由さってのは私に比べれば少ないのかも。よくガキ抱くの好きだって歯抜けの顔で笑っていたから。

「笑え。ガキ抱いてんじゃん」

 私は桜子の手を取ってガキの上に重ねる。目も手をかざして閉じてやる。TVの二時間サスペンスみたい。あっでも勝手に動かしちゃったから後で雪樹に怒られるかも。

「何これ? いくら私が二日目のやつ好きだってこれ煮込みすぎ」

 と私は電気コンロのスイッチを切り、キッチンの窓を開ける。何しろ部屋中煙で真っ白なのだ。さっきまでカタカタとさかんに踊っていた鍋蓋は熱くて持てそうにないから手で払い除け、流し台の中へと弾き落とす。

「見てみろ。火力の弱いタイプで良かったじゃん? 火事にならなかったでしょ?」

家のコンロは電熱線式の古いコンロ。元々コーヒーとカップ麺のためにお湯を沸かすだけの物。桜子は火力が弱いと文句を言って私に引越し記念一発目の鼻骨折りを食らった。鍋の中には二日目、じっくりコトコトを通りこした黒いコールタールみたいなカレー。

今この状態の桜子に対し、話しかけるっていう行為がバカバカしいとは思いつつも私はやめれなかった。マンネリが見たら笑うと思う。「真樹ちゃんがマンネリやん」って。

「ミュージカルだったらお前の頭抱いていきなり歌い出すとこかな? こういうシチュエーション。吉本新喜劇だったら、その抱いたお前の頭落っことして、ゴンッ! ってなってお前は目覚めるかな? TVにミュージカルのCMが映ると秒速連打で他のチャンネルのボタンプッシュプッシュだってのは、唯一意気投合って感じだったけど、案外ミュージカルも間違ってねーな。頭の中ぐるぐるに狂っちまって踊りながら歌うしかない心境なんじゃない? まあ私はいたって正常だからそんなことしないけどね」

 とまるでハンドブレーキが生えてしまったように桜子の首から飛び出たエメラルドグリーンの柄を私は指で弾いた。ニ、三度。その度にナイフの銀が見えなくなるほどに深く突き刺さった傷口から赤黒い泉が湧き出て、きめの荒い泡が立つ。桜子の首に網目状の真っ赤な血水路ができあがっていた。

気が付けばガキが桜子の胸から顔の辺りにまで這って行っていた。ガキは桜子の頬をパチパチと叩く。ガキの手も服も桜子の血で汚れていて叩かれた桜子の頬にはガキのつけた血のスタンプがいっぱい小さな紅葉みたいに押されていた。「親の体でウォークラリー? でもスタンプはもうやめて」

 と私はガキを抱いて桜子から放す。

「うん。そう。だからこっちこい。あっ、言っとけど私はや殺ってないから。そこんとこよろしくー」

 雪樹へ連絡をする。さすがに雪樹は驚いていた。ガキが私の髪を盛んに引っ張る。なんかいつも以上に力が入っているみたい。

「悪いね。私に怒って欲しい? それとも泣き入れて欲しい?  でもそんなことしたらお前を床に落としちゃうじゃん。無理無理。だから、な? そんなに引っ張るな」

 聞き分けの悪いガキ。まだ引っ張っている。

「痛いってば」

 膝が急に折れたかと思ったら私はその場に座り込むように倒れてしまっていた。天井と床が大回転を始める。意識を強くと思ってガキをおもいっきり抱き絞める私。だけど私のエンジンも限界みたいで、ただひたすらガキの泣き声だけが耳の奥に鳴り響いていた。


遅い更新につきあってくださっている方感謝です。

;^^

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