永訣の夜
私は、過去の私から幸せを奪いとることができなかった。この10年間を、リセットすることはできなかった。
【10年後もまだ磯本と付き合っているのか?】
過去のたっちゃんから返事が届く度に、私の心は揺れた。
『もう別れちゃったよ。今は恋人募集中』
私に告白するかどうか、それを決めるのはたっちゃん自身だ。将来別れることになったとしても告白するというのなら、私に止める権利はない。……そう考えた私は、私が死ぬことを「別れる」と言い換えて、過去のたっちゃんに伝えた。……つくづく自分勝手だと思う。
【ちょっと待て。今の状況を詳しく説明してみろ】
『それはさ、別に知らなくていいことだと思う。ただね、今磯本に告白すれば、絶対にOKしてくれるよ。俺が経験してるんだから、間違いない』
将来は別れる。だけど、今告白すれば必ずOKしてくれる。告白するかどうかは、君次第。こんな命題に、たっちゃんだったらどう答えるんだろう……。
【ふざけんな、告白なんかしねーからな!】
私は、消沈した。……そうだよね。可愛い女の子ならともかく、私だもんね。その上、将来別れるんだもんね。何にもメリットないよね。そりゃ、そう……なるよね……。心のどこかで「告白する」という返事を確信していただけに、ショックは……大きかった。
『そうか。それならそれでいいんだ。今の俺とは違う道を歩むのも、悪くはない。いい出会いがあることを祈ってるよ』
たっちゃんが告白しないって判断したのなら、それを尊重することしかできない。今のたっちゃんと違う道を歩めば、こんなに苦しむことはないはずだし、もっと幸せにもなれるだろうから……。私とお付き合いさえしなければ、私が死ぬことも知らなくて済む。
これで、終わっちゃうのかな。もし過去が変わったら、どうなるんだろう。私たちの今までは、消えてしまうんだろうか……。
明日、たっちゃんが来てくれなかったら……どうしよう……。
すごく不安になったけど、その次の日もいつも通り、たっちゃんは来てくれた。そして、笑顔で私と話してくれた。
「もう来てくれないんじゃないかって、心配で心配でたまらなかった……」
「なんでだよ、来るにきまってるだろ? 俺はリリの夫だぞ?」
「……そうだよね。いつまでもずっと、そうだよね? 急に消えていなくなったりしないでね?」
「どっちかというと、それは俺のセリフだ、リリ。俺はいなくならない」
よかった、よかったよ……。あなたがいなくちゃ、私は……
たっちゃんが帰った後、私は慌てて冊子を開いた。
【やっぱり俺、磯本に告白しようかと思う】
過去のたっちゃんの気持ちは、いつの間にか変わっていた。心のどこかで安心して、心のどこかで喜ぶ私が、そこにはいた。
『どうして?』
彼の気持ちを変えなきゃ……という良心と、変わらないで欲しいという欲望との間で葛藤しながら、恐る恐る返事を書き込む私。
【やっぱり好きだから。お前もそうなんだろ?】
『まぁね。でも、絶対別れることになるんだぜ? いいのか?』
【そんなのわかんねーし。だいたい昨日、“今の俺とは違う道を歩むのも悪くはない”とか言ってたくせによ。前のページ見返せ。未来は分からないってことだろ?】
確かに、そうかもしれない。必ず私がガンで死ぬと……決まっているわけじゃないかもしれない。もし私が死ななければ、二人とも幸せになれるんだ。だったら、このまま告白……してくれたほうがいいのかもしれない。
【最後に一応確認しておく。告白したら、OKされるんだよな?】
『されるよ。告白は絶対に成功する』
きっとこれで、十年前の明日、たっちゃんは私に告白してくれる。これでいいんだ。これで……いい。
【今日磯本に告白して、OKもらって、一緒に駅まで帰った】
次の日の夜、冊子にはこんな返事が届いていた。……よかった。これで今のたっちゃんがいなくなることもない。私の幸せが消えることもない。これからもずっと……
……何やってるんだろう、私。バカなんじゃないのかな。
これからって、何? もう死ぬのに。だったら、何もかも失って一人ぼっちになって、生への未練をなくした方がよかったじゃん。それこそ、自殺したくなるくらいに自分を追い詰めれば良かったじゃん。
なんで幸せを求めるの? すぐに終わるんだよ? 全部消えるんだよ?
分かってるの!? 磯本理々!!
その日の翌日から、私の体調は急激に悪くなった。冊子とのやりとりも厳しくなり、朝日を見て、目が覚めたことにほっとする毎日が続いた。
「……たっちゃん、苦しい。辛い。お願い、もう……殺して。殺して……」
体中が痛くて、喉には痰が詰まって息もできない。鎮痛剤も効きにくくなってきて、生きていることがもはや地獄だった。どうせすぐ死ぬのに、なんで私は生かされているんだろう。
「俺のために生きてくれ!」
どうして……って聞く度に、たっちゃんにそう言われた。だけどもう……無理だよたっちゃん。私も生きたいけど、もう、無理だよ。
「ありがとう」
ある日の夜、ふと口からこぼれた感謝の言葉。言おうとしたわけでもないのに、いつの間にか喋っていたみたい。
「なんだよ、改まって。別にいいよ、お礼なんか言わなくても。看病は、俺がしたくてしてるんだし」
たっちゃんは照れくさそうに笑っていた。その笑顔を、私は潰したくなかったけれど。
「看病のことじゃなくて。今まで全部」
「今まで?」
「今までずっと、私と一緒にいてくれてありがとう」
なんとなく私には分かっていた。たっちゃんとお話できるのは、これが最後になるかもしれない……って。
「よせよバカ。もう終わりみたいに聞こえるだろ!」
たっちゃんはそう言いながら、なぜか天井を見上げた。
「……言えるときに、言っておこうと思って。本当に嬉しかったんだ、私。あの日、たっちゃんが告白してくれて。つい昨日のことみたいなのに、もう、10年も前なんだね」
「……そうだな!」
たっちゃんの声は震えていた。そっか、涙を見せたくなくて、さっき上を向いたんだ。せっかくの笑顔……台無しにしちゃってごめんね。
「私ね、見ての通り……すっごく地味だったから、本当に、全然男の子に相手にされなくて。中学の時なんか、罰ゲームで告白されたりしてさ。私、一回本気にしちゃったんだよね。……みじめ……だったよ。それからはもう、男の子が恐くて……」
今までの思いを、たっちゃんに伝えてゆく。
「……俺は、よかった、のかよっ……!」
「うん、だってたっちゃん、いつも一人だったから。友達とふざけ合って私に告白するような人には見えなかったし、たっちゃんなら、私だけを見てくれそうな気がしたんだ。ずっと、似てると思ってたんだよ。私とたっちゃん」
「そんなこと言われても、あんまり嬉しくないっつーの!」
たっちゃんは袖でゴシゴシ涙を拭いてから、私の手を握りしめた。
「もう、もう止めてくれよ! 死なないでくれよっ! 死なないでくれ! 死ぬな! 死ぬなよ! ずっと俺の隣にいろよ! いつまでもずっといろよっ!」
私だって、そうしたい。……でもね、たっちゃん。もう……限界なんだ。
「ありがとう、たっちゃん。私はとっても、幸せだったよ」
私は、ベッドに顔を押し当てて泣き続けるたっちゃんの頭を、そっと、なで続けた。
……明日はちゃんと、目が覚めるかな? 明日の太陽を、私は見ることができるのかな。目を閉じるのがこんなに怖くなるなんて、考えたこともなかった。……これが、死ぬってことなんだ。
心配になった私は、彼が帰った後……、震える手をなんとか駆使して、彼にメールを1通、送った。
[どらやきたべたいな]
彼の好きな食べ物。好きだっていう割には、あんまり食べている姿を見たことがなかった。せっかくだから、一緒に食べたい。食べられるかどうかはわからないけど、たっちゃんと一緒に……。
どら焼き食べなくちゃ、私は死ねない。だからきっと、明日も目が覚める。これで、安心して今日は眠れる。きっと明日、嬉しそうにどら焼きを食べるたっちゃんを、私は見ることができると思う。
楽しみに待ってるからね。絶対、来てね。
たっちゃん……。