5-5 悪魔の眼
◆
気づいた時、俺はうつ伏せに寝かせられていた。
無意識に起き上がろうとして、激痛でできなかった。背中が痛む。しかし全身の感覚はある。どこも損なわれていない。
記憶を探った。
カナタと斬り合いになり、敗れた。川に飛び込んで逃げたのだ。
この背中の痛みは精神剣によるものだろう。
俺自身の精神剣を使って、背中を確認した。深い裂傷だが、骨には届いてない。手加減されたわけではないから偶然だろう。
そんな具合で、実際の目を使わずに俺は全身を確認した。
怪我が癒えればすぐに治るだろう。しかし非常に細やかで、丁寧な治療である。
自分がいる場所に考えが及んだ。小さな小屋だ。まるで俺が山奥に立てた小屋である。
人の気配はない。留守なのだろうか。
俺の剣がすぐそばに置かれているのもわかった。長剣、短剣、両方が揃っていて、一安心していると、小屋の外に人の気配がした。
入ってきた男を寝たまま首をひねって確認する。
「起きたか」
逆光の中で見えた顔は老人のそれだった。
何歳だろう? 七十は超えているように思えるが、身ごなしはもっと若い。不思議な老人だった。
俺の横まで来て、背中を改めると、静かな口調で言った。
「私には医療の知識はない。知り合いに診てもらったのだ。また来ると聞いている」
「あなたは?」
「悪魔よ」
悪魔?
老人の目がぎらりと光った気がしたが、それは気のせいではない。
老人の瞳は人のそれではなかった。揺らめくように色を変え、見据えられると怖気を感じる。
何が見えるのだろう? 何を見ているのだろう?
「食事にしよう」
すっと目をほそめると、老人が立ち上がり、囲炉裏の方へ行ってしまったのでもう瞳は見れなかった。
老人が粥のようなものを作り、俺の前に持ってきた。俺はうつ伏せのまま、両手で椀と匙を持って、食べた。美味いとも不味いとも言えない、奇妙な味だ。
「どこから来た?」
食事の間に老人が問いかけてくる。
「パンターロから」
「遠いな。どこを目指す」
「シュタイナ王国を」
老人が細めた目でこちらを見る。感情は読み取れなかった。
老人はゆっくりと匙で粥をすくっていた。
「剣聖の国だな」
呟くように、老人が言う。
「恐ろしい国だ。非情こそが力、そう考えているのだろう」
あまり聞いたことのない見方だった。非情こそが力、か。
「殺し合いこそが利、など、いずれ滅びる発想だ」
俺の試案に気づく様子もなく、老人はそう言うと、動きを止めた。
「愚か。愚の骨頂だよ」
それきり彼は話をやめて、食事に集中した。俺もそうした。
食事が終わると老人は俺に粉薬を飲ませた。
「あなたの名前は?」
やっとそれを尋ねていないことに気づいた。あまりにもいろいろなことがあり、当たり前のことに意識が回っていなかったらしい。
「名は捨てた。ただの悪魔に過ぎない」
「あなたは人間です」
「いや、人ではない。私は、人ではない」
頑なな態度に違和感を感じたが、問い詰める気にはならなかった。自らを悪魔だと決めつける、何かがこの老人にあったのだろうと思うよりない。
薬の効果か、眠りがやってきて、俺は意識を失った。
ハッとして眼が覚めると、周囲は薄暗かった。明け方、だろうか。それとも月明かりが強い深夜か。
背中の痛みは少しずつ弱くなっているようだ。良い兆候だ。
老人は? どこにいる?
見える範囲にいない。精神剣で探ると隣の部屋で本を読んでいるようだ。身じろぎもせず、時折、ページをめくる以外は動きがほとんどない。
精神剣を解いて、俺は体の力を抜いた。
早く回復しなければ。時間を無駄にする余裕はない。
カナタをどうやって切るべきか、それを夢想した。
勝てる。勝てたはずだ。わずかな気の緩み、動揺が勝敗を分けた。
モエのことをは忘れるしかない。
俺は一人の剣鬼となって、剣聖を切り捨てるのが、俺を最強にする道筋だろう。
勝たなくては。
どこまでも思考が落ちていきそうなのを耐え、俺は考えを切り上げた。
目を閉じ、じっとしていると、自然と眠った。
翌朝、目を覚ますとすでに老人は料理をしており、囲炉裏では鍋が湯気を上げている。
「お前には心の目がある。それがわかった」
食事の間に、唐突に老人が言った。
心の目?
「昨夜、私の様子を見ただろう。お前の視線を、私は見た」
訳がわからない言葉だが、精神剣のことだろうか。
「私には見えるのだ」
そう言って老人は軽く笑った。しかし楽しそうではなく、どこか悲しそうな、控えめな笑みだった。
「俺の精神剣のことですか?」
「精神剣の持ち主にあったことはないので、わからない。だが、お前が私を観察したのが事実なら、私の目は精神剣を見たことになる」
やはり理解不能だった。
老人の瞳を真っ直ぐに見る。
やはり揺らぐような、不思議な色をしている。
「私の目は悪魔の瞳だ」
悪魔の瞳……。
食事が終わって、老人は俺のすぐ横に座った。
「お前が多くを切ったように、私も多くを切った。私には全てが見える。この瞬間さえも、私には見えていた」
「どういうことです?」
「お前がここにいるのは、偶然ではない、必然なのだ」
必然?
「私はお前に瞳を託すために、ここにいた。いつになるのか、私にはわからなかったが、お前が来ることには確信があった。私の瞳は私を裏切らない。そして実際に、お前は来た」
この老人は何を言っているのだ?
「隻眼の剣士よ、お前もまた悪魔になるのだよ」
ゾッとした。こんなこと、剣を向け合っていてもそうそうあることではない。
この老人は狂気に取り付かれているのか?
何を言っているのだろう?
「明日だ。明日、私はお前に剣を向ける。お前は私を切らねばならん」
この老人の剣術の程度は、実はわかっている。
彼の動きを精神剣で無意識に観察し続けたからだ。身ごなしは軽やかで、力もありそうだ。
だが老人である。
俺が切れないわけもない。
何か勝算があるのか。それともただの妄言、妄想か。
誰が用意したのか、何の薬かもわからない薬を飲んで、俺は短く眠り、食事をとり、また薬を飲んで眠った。
そうしてまさに明日と指定された日が来た。老人は剣を持って現れ、俺に堂々と言った。
「約束の時だ。剣を取れ」
俺は起き上がった。背中はまだ激しく痛む。
だが、戦えないわけではない。自分の剣を掴み、外へ出た。
老人が俺と向かい合い、ゆっくりと剣を抜いた。
「さて、見せてもらおうか、精神剣とやらを」
老人が待ち構えるような構えを取る。
俺の万全ではない体でも、静寂の太刀を繰り出せば、終わりそうだった。
手加減をするべきだろうか。
この老人には恩がある。殺すわけにはいかない。
俺はすっと踏み込んだ。老人の剣を弾き飛ばすつもりだった。
体に衝撃が走り、すぐにはそれに気付けなかった。
剣に力が入らない。いや、それは違う。
離れたところに落ちたのは、俺の左腕だった。肘の少し先で、切断されていた。
灼熱、激痛。叫びたいのをどうにか堪える。
「本気で向かってこなければ、死ぬぞ」
老人がそう言って攻め立ててくるのを俺は片腕で凌ぐ。老人の剣術は基本の域を出ない。早くもなく、強くもない。
だが、まるでこちらの動きを予測しているように、不意をついてくる。
失血で頭が朦朧とし始める。
それでも老人の攻勢は止むことがない。
脇腹が裂け、肩を切られる。胸を剣がかすめ、危うく足を貫かれそうになる。
必死だった。
思考はすでに回ることがなく、経験と反射、直感が俺の体を動かしていた。
ここで死ぬのか?
目的を成し遂げることなく、こんなところで?
思わず吠えていた。
片腕での十二弦の振り。老人が距離を置く。
少し冷静になったのは、いよいよ失血が進み、意識を失う寸前だからかもしれない。
だが、その冷静さは、俺に活路を生み出す余地になった。
和音の歩法の連続から、旋律の歩法へ。
片腕のないことによるバランスのズレを、即座に補正。
老人の側面から、背後へと走り抜ける。
老人はこちらを目で追っている。いや、目で追うより先に、こちらを見ようと動いている。
俺の精神剣とは違うのだ。
彼は見なければ、見れない。
俺は見ずとも、見える。
超高速の歩法が乱れれば、そこで終わり。
結果、俺は老人の背後をすり抜け、さらに逆に側面へ。
見ることなく老人が剣を振ってくる。
その程度には見えたのだろう。
だが、俺には完璧に見えている。
剣が交錯した。
左肩に老人の剣の切っ先が突き刺さり、貫通する。
一方の俺の剣は、老人の首元を貫いていた。
致命傷だ。
老人が笑みを見せた。
「良いだろう、瞳をくれてやる」
瞳をくれてやるも何も、俺にはそのやり方がわからない。そう言おうとしたが、俺は失血が限界を超え、倒れ込んでいた。
老人がどうなったのかは、わからなかった。
命が抜けていくのよう感覚と、眩しい光の中で、誰かが俺の名前を呼んだ。
堪えることもできず、俺はその眩い光の中を見透そうと、目を細めた。
(続く)