5-4 次席剣聖
気が咎めたが、モエの持ち物を漁った結果、アンギラスへ抜けるための通行証が出てきた。
しかも気が利くことに俺とモエの二人分だ。もしもの時、パンターロを脱出することを想定したんだろう。
当然、偽名で、これがシュタイナ王国側に漏れている可能性は少ない。
昨日の昼日中の決闘は首都を大いに賑わせたが、警察は捜査中という発表を繰り返し、関係者である俺は何の足止めも受けずに首都を発ったのだった。
ここからは速度も必要だが、目立つわけにはいかない。
シュタイナ王国はパンターロにまで剣聖を送り込んだ。アンギラスに奴らがいないと考える方がどうかしている。
アンギラスとの国境地帯まで、歩き通して二週間が過ぎた。モエの容態が気になったが、こうなってはカイに任せるよりないし、俺には医療の知識はないから、願うしかできないのだ。
国境の検問を抜け、アンギラスに入った。念のため左頬から額への傷を隠すために、包帯を巻いておいたが、逆に怪しかっただろうか。
アンギラスは比較的平地が多い。
街道を進んでいる時だった。川沿いの、堤防の下の道で、ついさっき、船で川を渡っていた。
通りかかった茶屋にいた男が立ち上がるのがわかった。
俺の精神剣はその男の動作を一瞬で読み取り、使い手として際立っているとすでに判断していた。
足を止める俺の前に、男が進み出てくる。
壮年の男だ。穏やかな挙措。表情も冷静そのものだった。
「カナタ・ハルナツと言う」
そんな自己紹介でも、わかることはある。
カナタ・ハルナツの名前を知らないわけもない。次席剣聖にして、精神剣の使い手。
相手にとって不足はない。
第二位の使い手を異国に送るとは、シュタイナ王国は本気なのだ。
じりっとお互いが同時に間合いを詰めた。
街道で戦うことに、お互い、否やはないのだ。
間合いを計り、位置を変える。
動作は突然だった。
二人がすれ違う。お互いに剣は鞘の中。
振り返った俺に、カナタが笑う。
「素晴らしく速い」
奴の頬に切り傷ができている。
一方の俺は、胸を一文字に切られていた。深くはないが、血が滲んでいくのがわかる。
変な剣だった。届かないと見切ったはずが、届いてくる。
さすがは剣聖、癖があるな。
俺は容赦することをやめ、両手で剣を取った。二刀流の、最速攻撃で仕留めるのが礼儀というもの。
和音の歩法で、間合いをゼロに。
カナタはまるでそれを待っていたようだ。
俺の連続攻撃が始まる。十二弦の振りを組み合わせる、二十四弦の振りとでも呼ぶべき、俺の攻撃の真骨頂。
カナタは回避し、次に捌こうとするが、それほど甘いものではない。
奴の全身から血飛沫が舞う。
甲高い音を立てて、俺は距離を取った。
「これほどとは思わなかった」
余裕のある声で、カナタが笑った。
俺の二十四連撃は完全に防がれた。もちろん、それで消沈する俺でもない。
回避され、払われた、そこはわかる。
最後の手応えは、虚空で生じていた。
つまり精神剣を使ったのだ。
精神剣による防御を無視する手法は、一つしかない。
相手が気づくより先に切る。
最速の攻撃は、練り上げた静寂の太刀になる。だがあれは一撃だ。
それを防がれれば、次がない。
考えている暇はなかった。カナタが気づくと踏み込んできている。いやに不自然な、計りづらい動き。
剣を回避したが、見えない力が俺の周囲で渦巻く。
あとは逃げる一方だ。転がり、跳ね起き、飛び込み、仰け反り、また転がった。
大きな間合い出来上がり、やっと俺は姿勢を整えられた。
「本当に精神剣が見えるらしいな。稀有な能力だ」
そんな評価を下している男を、では、俺はどうやって切るのか。
自分の精神剣が、心底から恨めしかった。
攻撃力では、俺はカナタには敵わない。防御力でも。どちらも俺には縁がない。
見えるだけなのだ。そして、見えても回避できないものは回避できない。
それでもこのまま逃げ回るわけにはいかない。
こちらから仕掛ける。
和音の歩法を複雑に組み合わせ、旋律の歩法、と名付けた連続運動を繰り出す。
これは誰にも見せていない、俺の研究の成果だった。
カナタの精神剣を、俺はすり抜けるように回避した。この間も和音の歩法は途切れることなく続く。
滑らか過ぎるほどの歩法の連続は、俺は滑るように進ませ、カナタを間合いに捉える。
逃れようとする奴の側面へ滑るように移動。
際どいところでカナタの剣を避ければ、奴には精神剣以外に防御手段がない。
そうと分かれば、こちらも対処できる。
精神剣をも回避し、奴の背後へ。
剣をつき込もうとした。
「モエ・アサギを捕らえたぞ!」
誰かが叫んだ。
動きが止まっていた。
失敗したと思う間もなく、俺は吹っ飛ばされ、地面を転がった。起き上がるが、意識が朦朧としている。剣だけは手放さなかった。
額が切れたのか、血が目元へ流れてきて、全てを赤く染める。
カナタは無言でこちらへ向かってくる。俺は後退した。と、背後に傾斜。精神剣の知覚では、堤防らしい。
ここに賭けるよりないない。
俺はカナタに背を向けて脱兎の如く逃げ出した。
堤防を駆け上がり、その向こうの川に身を投げる。空中で背後から精神剣の一撃を喰らったが、構わなかった。
死ななければ、それでいい。
勢いよく水中に落ち、流れにそのまま流されていく。
剣を強く握った。
モエが捕らえられるわけがない。そのはずだ。
カイのことを考えた。
嘘だ。さっきの声は、俺を動揺させるための、嘘だ。
流れが強くなる。呼吸が苦しい。
それでも剣だけを強く握り、歯を食いしばった。
呼吸が限界に達し、息を吐いた。
水が流れ込んでくる。
苦しい。
死ぬかもしれない。
意識が失われていく中でも、いやに剣の柄の感触だけが、はっきりしていた。
◆
その頃、首都では傭兵たちが活発に動いていた。
モエをこのまま首都に置いておくのは危険と判断し、傭兵がいくつもの班に分かれ、まるでモエが護衛されながら首都を脱出する、という演技を続けているのだ。
適当なところで、カイともう二人の傭兵で、本物のモエを首都から出すことになっていた。
カイは自分がついていることで、自然とモエ本人だと認識されるんではないか、と危惧していたが、今の味方ではカイが一番の使い手である。
そして今回の敵は、並みの使い手ではない。
危険を承知でも、カイはモエのそばを離れるわけにはいかなかった。
そうして夕暮れ時、カイは傭兵二人を伴って、モエを病院から連れ出した。
モエはまだ意識を取り戻していない。医者の治療は必要だ。病院に置いておきたいのが自然だが、病院では命が危ない。ジレンマだったが、命を守るのが第一なのは、譲れない。
首都を出て、街道を進む。借りた馬車の中にモエは寝かされている。
山岳地帯が近くなったところで、カイは馬車を止めさせ、モエを背負って外へ出た。御者が不思議そうな顔をしているのに、多めに金を渡して、帰らせた。
傭兵二人を連れて、山の中に分け入った。が、すぐに傭兵たちとは別れる。
「それぞれの別の方向へ歩け。痕跡を盛大に残してな」
「なるほど、偽装ですか、面白い」
こうしてカイはモエと二人だけで山の中に分け入っていった。
夜の森の静けさは、落ち着く一方で、不安にもなる。
まるで自分が孤立無援でここにいるような。
大丈夫だ、とカイは心の中で繰り返し唱えた。
人の気配を置き去りにするように、カイは歩き続けた。
誰とも会わなかった。ただモエの呼吸と、荒いカイの呼吸の音だけがしていた。
ミチヲからの便りはなかった。これからは便りを受け取ることもできない。
彼は無事だろうか? 事態はどう転んでいるのか?
わからないことが多すぎる。それがまた不安を呼ぶ
大丈夫だ。大丈夫。
一歩一歩を確実に、硬い場所の土を踏み、下草をそっとかき分け、誰も知らない道を、誰も知らない場所へ向かって、カイは歩き続けた。
そのうちに夜が明けた。
カイはまだ歩き続けた。
(続く)