5-1 動揺と冷静
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到底、信じることはできない。
俺はそれが嘘だと思ったが、しかし実際には山奥を飛び出し、馬で必死に駆けている。
誰かのいたずらであればいい。
誰かが俺を罠にはめようとして創作した話ならいい。
このまま首都まで駆け抜けて、そこで俺を誰かが切り裂く。それでも良いのだ。
ただ、頭の中の一部は冷静に考えてもいる。
カイが嘘を伝えるはずもないし、あの筆跡は乱れてはいてもカイのものだった。
そしてあの山奥の人里離れた場所まで、飛脚が手紙を届けたのでは、やりすぎだ。
つまり冷静に考えれば、全ては事実。
信じられない。信じることができない。
昼も夜も駆けた。駅で馬を乗り換える。また走った。
気づくと首都にたどり着いていて、手紙にあった病院に飛び込む。受付で看護師に詰め寄り、看護師はいやに冷静に、俺に病室の番号を伝えた。
三階まで駆け上がり、角の部屋へ。すぐ横に非常口がある。カイの奴、用心したようだ。
ドアを開けるのももどかしく転がるように部屋に入り、俺は息を止めていた。
寝台に横たわっていたのは、モエだ。
間違いなく、モエだ。
手紙の内容は、正しかった。
呆然と立ち尽くしている自分に気付いたのは、目の前にカイが進み出て、頭を下げて叫んだ時だった。
「すみません! 僕というものがいながら、こんなことに……!」
「いや」
なんと言えばいいだろう。
シュタイナ王国から戻ったカイを首都にやったのはつい数ヶ月前だった。俺は一人で山奥にこもり、今になっては愚かしいことだが、自由に生活していた。
カイを放り出したわけではなく、カイにはモエの元でこそ学ぶことが多いと感じていた。
俺は一人きりで、自給自足を体現していた。一方でモエは、社会の中、集団の中での生活を営んでいる。カイもいずれは、集団の中へ混ざるべきだと俺は考えたし、そのことはカイにも伝えてあった。
だから、カイをモエの護衛につけたわけではない。
カイには責任はない。
カイよりもモエの方がまだ腕の立つ剣士だったのも、俺は知っている。
そのモエが切られた。
「先生、どうか、どうか、ご容赦を……」
いよいよカイは床に両膝をつき、頭を下げた。俺はまだ言葉に辿りつかないまま、やはり膝を折り、カイを無理やりに起こした。
何が言える? 悪いは俺だ。俺だけが責任を感じるべきだ。
「カイ」どうにか言葉が出た。「責任はないんだ」
しゃくりあげるカイは、何度も首を振った。
「カイ、立て」
俺は先に立ち上がり、もう一度、モエを見た。
呼吸していることを確かめる自分が、どこか滑稽だった。
当たり前だ。息をしていなければ、ここにはいない。
モエはまだ生きている。
「誰がやった?」
そう、それだ。それが今、考えることだ。
目元を拭ったカイが立ち上がり、赤い目元でこちらを見た。
彼の瞳の中には怒りが燃えている。では、俺の瞳には?
「モエさんは、帰りがけに襲われました。夕方で、会社の建物を出たところです」
「剣を抜いていたか」
「はい」
モエが負ける相手か。
モエももう若くはない。俺たちももう三十代後半だ。それでも並みの使い手には負けない。カイが相手でも、俺もモエも相手にしないのだ。
では、どうしてモエが敗れたのか。
「この病院の周囲は、モエさんの会社の傭兵が見張っています。先生だけはお通しするように手配してありました」
淡々と話すカイはどうやら冷静さを取り戻したらしい。俺は頷いて、モエに歩み寄った。眠ったまま、気づかない。
「意識が戻るかは、わからないそうです」
俺は無言で頷いた。傭兵たちの目を盗んでここに入ることは、やろうと思えばできる。立ち塞がるものを切れば、単純に入り込める。モエを切った誰かが暗殺者なのは想像がつく。
静かに傭兵たちを始末し、この部屋に入る。
ありそうな展開だった。
「カイ、お前はここに詰めていろ」
「はい、ですが……」カイがこちらを伺う気配。「いつまでもここにいるのは、危険ではないですか?」
思わず俺が笑い声をあげ、それにカイが驚いたのがわかる。
「暗殺者は俺が切る。それで当面の安全は保障されるだろう」
「切る、と言いますが、どこにいるかもわかりません。傭兵たちが草の根を分けるように探しています。もう五日になりますが、報告はありません」
そうだろうな、と考えながら、別の確信がある。
探しても見つからないのなら、誘き寄せればいいのだ。
「暗殺者はモエを狙った。今も狙っているだろう。モエを狙うのなら、自然ともう一人、有力な標的が浮かび上がる」
「有力な標的……?」
「俺だよ」
振り返ると、カイの表情は驚きを押し隠したもので、今は表に憂いの色を浮かべていた。
こいつの表情は俺にはよくわかる。考えていることも。
「気にするな、カイ。俺が切られると思っているのか?」
「先生、モエさんが切られたことを、僕はそこまで割り切れません」
「俺が切られるようでは、誰も勝てないだろう。お前もだ。これだけははっきりさせよう。俺がもし切られて命を落としたら、すぐにこの街を出ろ。モエを連れて、山に分け入り、姿を隠せ。それが最善になる」
俺の瞳を、カイが覗き込むように見た。
「先生、僕も連れて行ってください」
「無駄なことだ、カイ。俺たちは少数だ。個々人が最善の働きをしなければ、この局面は乗り切れない」
ぐっと唇を噛む弟子に俺は笑みを見せたかった。
見せたかったが、うまくいかなかった。
「俺が負けると思うか?」
言い淀む彼の肩に俺は手を置いて、揺さぶる。
「負けるつもりはない。少し落ち着こう」
落ち着く? 俺こそが一番、浮き足立っているのに?
ドアがノックされ、傭兵だろう男が入ってきた。俺に黙礼し、カイに報告をする。その傭兵が去ろうとするのを呼び止め、カイが食事を頼んだ。
やっと俺たちは椅子に座り、静かな口調で状況を確認していった。
暗殺者は恐らく一人。そしてシュタイナ王国から来ているのに違いはない。剣聖を切るレベルの使い手で、査問部隊のレベルを超えている。
「剣聖が出てきたという可能性はあるでしょうか?」
カイの疑問に、俺はじっと考えた。
剣聖がアンギラスを超えてパンターロまでやってくる、というのは最悪のシナリオだ。
その可能性を考える必要があるが、では、どのレベルの使い手が来たのか。
モエが剣を抜いていることが気にかかった。
彼女を暗殺したいのなら、剣を抜かせない、つまり不意打ちの一撃で仕留めるのが、最も効果的だし、負担も少ない。
だが、剣は抜かれていたという。
一撃で仕留め損ねたのか? 剣聖がそんな下手を打つだろうか。
では、剣聖が正々堂々と果し合いを挑む? それは剣聖には利がない。モエは逃亡者で、決闘をする理由がないのだ。ただ、剣聖が何らかの理由で決闘を選らんだ可能性もある。
ただ、それでは、剣聖はなぜモエの命を奪わなかったのか。
切って、トドメを刺さなかった理由は?
その点をカイに尋ねると、暗殺者はモエが倒れたところで逃げ去ったという情報がある、とわかった。
では、決闘ではない。
剣聖がこの街にいる可能性は捨てきれないが、剣聖自らが事態に加わってはいない、のか?
とにかく、暗殺者をどうにかして確保することが、事態を知る術として有効だ。
そして暗殺者の確保に最適な餌は、やはり俺となる。
窓の向こうで日が沈む、夕日もやがて闇に変わる。
「少し出てくる」
そう言って俺が立ち上がろうとすると、カイも立ち上がろうとする。
手を広げて、それを押しとどめた。
「少し外の風にあたるだけだ」やっと笑みを見せる余裕ができた。「この部屋は少し、空気が暗いからな」
カイは俺を疑っているようだ。それもそうだろう、俺自身だって苦しい嘘、誤魔化しだとわかる。
それでもカイが俺についてこれないのは、俺がモエを任せる、と告げたからだろう。
責任感の強い奴なのだ。その責任感が同時に、俺への信頼と相まって、結果、カイは椅子に腰を下ろし、穏やかな笑みを見せてくれた。
「僕はここにいます。あまり遅くならないうちに、帰ってきてください」
「ああ、頼む」
なんてまっすぐな奴だろう。俺のことを本当に信頼しているのだ。
俺のような奴を師に持ったのが、カイには不幸でもあるだろう。俺のような身勝手な奴から、何が学べたのだろう? 俺の方こそ、カイを見て、多くを学ばせてもらった気がする。
剣を下げて、病院の建物を出た。
夜の街には街灯が点々と灯り、わずかに夜闇に抵抗している。
ゆっくりと通りを歩く。首都の人々が遠くで喧騒を起こす。
足音がやけに大きく響く。人がいない方へ、いない方へ、進む。
首都の地図は頭に入っている。
来た。
背後の気配に、俺は足を止めた。
(続く)