3.5-1 異国の地で
パンターロの首都にたどり着くのに、一年を要した。
これはかなり遅いペースだけど、いくつかの事情がある。一つはシュタイナ王国から始祖国アンギラスへ抜ける国境地帯で、足止めを食った。しかも軟禁されて、一ヶ月を無駄にした。書類の不備ではなく、ただ国境地帯の守備兵たちが混乱したためだった。
その混乱の理由が、アンギラスからシュタイナ王国へ秘密部隊が潜入した、という誤報で、つまり両国の国境地帯は近年稀に見る厳戒態勢だったと言える。
僕の持っていた書類には、ソラの名前やカナタの名前はないし、剣聖からの指令ともない。身分としては平民で、旅行者として公式に認められているだけだ。
なので、剣聖の後ろ盾で押し通ることもできず、事態が沈静化するのを待つしかなかった。
そうこうしているうちに秋も近づき、どうにかこうにか、アンギラスへ入ると、足を速めて先を急いだ訳だけど、国境から離れるまでは、誰何に次ぐ誰何で、遅々として先へ進めない。
金の粒は奪われなかったけど、かといって、馬を買うのも気が引けた。アンギラスの領内を一気に移動できるはずだけど、パンターロは山岳地帯だ。馬を連れて行けるとも思えない。そんな考えのもと、馬は買わずに、乗合馬車を利用した。
本当は自分の足で走りたかったけど、それはそれで目立つだろうし、僕は今は飛脚ではなく、旅行者なのだ。旅装の男がものすごい速さで走ったら、嫌でも目を引くだろう、普通。
そうこうして秋が深まる頃にアンギラスとパンターロの国境地帯にたどり着き、国境守備隊は自然と通してくれたけど、アンギラスの兵士も、パンターロの兵士も、僕を引き止めた。
雪が降るぞ、というのである。
どうするか迷って、結局、入国の手続きをしたし、ということで、パンターロ側の砦の一つに滞在させてもらった。
滞在初日に雪が降った時、僕は思わず安堵の息を吐いた。
外は真っ白で、深い雪に覆われていた。
もし砦に泊まらなければ、どうなっていたことか。
そのまま身動きが取れないでいて、冬を砦で過ごしてしまった。ただ、発見もあった。パンターロの兵士たちと交流する中で、彼らの剣術に触れたし、何より、彼らと会話をすることで、僕の語学はかなり進んだ。
兵士の中に国境地帯ということもあるのか、アンギラスの言葉を話す者もいて、アンギラスの言葉にも通じることができたのは、思わぬ収穫だ。
そんな具合で、冬を越して、春先になるや否や、僕はズンズンと首都へ向かい、こうしてその光景を前にすることができた。
シュタイナ王国の王都とはまるで違うが、どこか似ている雰囲気もある。派手ではないが、歴史を感じさせる。
石畳の道を進みつつ、適当な店に入る。腹が減っていて、目的地へ行く前に腹ごしらえをしよう、と思った。
パン屋のようだが、見たこともない形状のものが多い。値札は全部、パンターロの文字だ。
「いらっしゃい」
店員の女性が声をかけてくるので、会釈を返す。
適当なパンを選び、会計をする。金の粒で支払うわけにいかないのは事前に考えが及んでいて、パンターロのここへ至る適当な村で、その村人に両替してもらっていた。なのでパンターロの硬貨で払うことができる。
「どこから来たの? 肌の色が違うけど」
事実、シュタイナ王国の人間は、パンターロの人間に比べると色が黒い。
「シュタイナ王国です」
はっきりと答えると女性が目を丸くし、笑い出した。
「そんな綺麗な言葉を使うシュタイナ王国人がいるのものですか!」
どうやら僕の発音は完璧らしい。
そのパン屋で、目的の場所の位置を詳細に尋ねることができた。店員の女性は僕が礼を言うと、「あなたが傭兵になるの? 世も末ね」と嘆いていた。パンターロとシュタイナ王国では、ものの考え方が色々違うらしい。
通りに出て、方向を理解すると、歩き出した。
僕の服装はちょっと他の人たちと違う。服装にまではあまり考えが及ばなかった。剣を入れているカバンも目立つ。パンを食べつつ、そんな僕とは違う、自然体の彼らを観察していた。
目指していた建物はすぐに見つかった。看板が出ている。
小さな剣の傭兵社。そうあった。
ここだ。
中に入ると、受付の女性が笑みを見せる。
「いらっしゃいませ。ご予約がおありですか?」
「いや、人を訪ねてきました」
「どなたを?」
「モエ・アサギさんです」
受付嬢は驚いた顔の後、じっと僕を見て、立ち上がった。
「シュタイナ王国から来られたのですね。社長は執務室にいますが、都合を聞いて参ります。そちらにお座りになって、お待ちください」
示されたところにある椅子に腰を下ろす。
受付嬢は、僕がシュタイナ王国の人間だと見抜いた。どうしてだろう? 肌の色もあるだろうけど、それは絶対じゃない。
いったい、どこを見たんだ?
少し待つと上の階に行っていた受付嬢が戻ってくる。
一人の女性を、伴っていた。
反射的に立ち上がっていた。
その女性が僕の前に立ち、露骨な仕草でジロジロと僕を眺め回し、最後に顔を見た。
「剣聖どもに共通する匂いがするわね」
澄んだ声だった。
年齢は、情報の上では三十代だけど、顔立ちはものすごく整っていて、二十代かもしれない、と情報を疑いたくなる。服装は背広だけど、既製品ではなく、特別に誂えたものか。腰には剣がある。
しかし、そんなことはどうでもいい。剣聖の匂い?
「何? そんな顔して」
ギロリと睨みつけられて、僕はハッとした。
「いえ、剣聖という言葉が出たものですから……」
「私の勘違いじゃないでしょ?」
「はい、その通りです」
僕は彼女に頭を下げた。
「エダ・ヘキトラと申します。シュタイナ王国から参りました」
「誰に師事した?」
「カナタ・ハルナツ様に教わりました」
「あの金魚の糞か」
酷い言い方だな、と思ったけど、もちろん、冗談だ。顔を上げると、笑みが返ってくる。
「剣は持っているか? 腕を見たい」
「ええ、それは、僕もそう考えていました」
「自信家だな。ついてきなさい」
そう言ってから、彼女は受付嬢に何か指示を出して、外へ出ようとする。僕は鞄を持ってついて行った。
「お腹空いている?」
いきなり言われて、戸惑った。
「いえ、パンを食べました」
「あ、そう」
なんなんだ?
そのまま彼女は少し離れたところにある運動施設に見える建物に入っていった。
中に入ると、真剣を使って男たちが剣術の訓練をしている。傭兵たちだろう。全員が動きを止め、ラフにモエに敬礼。モエも敬礼を返し、身振りで彼らを壁際に下がらせた。
もう傭兵たちは僕に注意を向けている。
その視線の中で、僕は鞄から剣を出した。傭兵の数人が口笛を吹き、笑い声をあげる。
剣を腰に差し込み、モエと向かい合った。モエは、傭兵たちのように弛緩している様子ではない。真剣な顔で、こちらを見ている。
「準備はいい?」
彼女は上着を脱いでいないし、剣の柄に手を置くわけでもない。
でも真剣だし、発散されている気配は、刺すように鋭い。
本気だろう。
いいじゃないか。ここで僕の腕を見せよう。
相手は剣聖だった女性だ。腕試しにはなる。
僕は剣を抜いた。
え?
モエが目の前にいる。
一瞬だった。
頬を何かが掠める。それで済んだのは、僕が全力で後退したからだ。
「速いこと」
言いながらモエが柄に置いていた手を離す。
何もかもがわからなかった。彼女の踏み込みも、攻撃も、速すぎる。
注意が外れたわけじゃない、じっとモエを見ていた。
やはり剣聖だ。
「今度はそちらからどうぞ」
まるで子どもを相手にするように、モエが言った。
正直、恐かった。でもここで、引き下がるわけにはいかない。
僕はいきなり全力で行くことにした。
絶影を、繰り出す。
一瞬でモエの背後へ、彼女は振り向いてすらいない。
背中へ、容赦なく一弦の振りを繰り出す。
「なるほど」
声だけがその場に残った。
僕の剣は空を切り、その僕のすぐ横に、モエがいた。
今度は見えた。和音の歩法。でもカナタともソラとも違う。
その彼女の剣が、僕の喉元に触れていた。
「じゃ、用件を聞こうか、少年」
モエは堂々と、剣を引いて鞘に戻した。
傭兵たちが大笑いしているのが、まるで遠い世界のようだった。
(続く)