2.5-2 発掘される少年
支店の建物の前で、支店長が待ち構えていた。僕を見ると、駆け寄ってくる。
「お前、何をしたんだ?」
不安になる質問だ。
「何もしてませんけど、何のことですか?」
「剣聖が来ているぞ」
「剣聖? 剣聖って、例の剣聖ですか?」
グイッと支店長が僕の腕を掴み、有無を言わさず建物の中へ引っ張り込んだ。
建物と言っても二階建ての質素なもので、一回は受付と事務のスペースで、二階に上客向けの応接室、支店長室がある。
その応接室に入ると、平凡な服装の男性が椅子に座っていた、その横には背広の男性も一人いる。
ただ、背広じゃないほうの男性を、僕を知っていた。
昨日の馬車の男性なのだ。
「こちらが、お探しのものかと」
男性が立ち上がり、僕の前に立つと、視線を合わせるように膝を折った。
「名前は?」
「エダ・ヘキトラです」
「歳は?」
「十歳です」
ふむ、と剣聖らしい男性は頷くと、素早く僕の体に触れて、何かを確かめた。
「剣術を習ったことはあるか?」
剣術だって?
「ありません。ただの飛脚ですから」
別に皮肉や冗談ではなく、正直に答えたけど、ぽかっと支店長が僕の頭を叩き、剣聖が笑い声を漏らした。
「少しの経験もないか?」
「父に」記憶の中での父の姿はもう朧だ。「教わったかもしれません」
「お父上は、どういう方だった?」
「兵士でした。戦って、死にました」
そうか、と剣聖が言って、僕の頭を撫でた。
「兵士は嫌いか?」
「嫌いでは、ありません」
「よし」
剣聖が立ち上がると、背広の男を振り返った。
「例の道場に行こう。彼の実力が見たい」
「え?」背広の男が明らかに動揺した。「彼というのは、どなたですか?」
「この子だ」
これには支店長も明らかに動揺した。
この場に、この子、という言葉が示す相手は、僕しかいない。
何が何だからわからないうちに、僕は道場へ連れて行かれて、気づくと、剣聖と木刀を持って向かい合っていた。
剣術なんて、少しも習っていない。習ったとしても、忘れている。
道場には見物の人が早朝ながら、集まっていて、それも僕には負担だった。
だって、木刀をまったくと言っていいほど、少しも振ったことがないのに、どうしろと。
どうすることもできないまま、僕は木刀の先を剣聖に向ける。
踏み込むことも、振り上げることも、できそうにない。
ただ、剣聖はこちらを威圧するような様子でもない。
彼もただ棒を構えているように見える。
何か、感じた。
僕は床を蹴って距離を取る。剣聖は動いていない。
観客が声を上げる。
僕はもう一度、木刀を構えて、警戒する。間合いはさっきよりも格段に広がった。でもどこか、油断できない。油断できないどころか、僕の喉元に切っ先が突きつけられているような、そんな気がしていた。
すっと剣聖が前に出てきた。
後退するしかない。危険を強く感じる。
もちろん、木刀が当たる距離ではないけど、やっぱり、何かおかしい。
後退しているうちに、背中が道場の壁にぶつかった。横へ移動するしかない。
観客はさらに囃し立てる。それを無視して、意識を研ぎ澄ませる。
剣聖との距離はジリジリと詰まっている。まだ広い間合いだけど、剣聖が本当に最強レベルの使い手なら、無視できる間合いだと直感が告げている。
輪郭が滲むように剣聖が動いた。
僕はまっすぐに前に突っ込み、床に転がり、跳ね起き、立ち上がる。
剣聖の立ち位置は、さっきと殆ど変わっていない。ただこちらに向き直っている。とりあえずは背後に壁を背負うのは回避したけど、事態は何も変わっていない。
でも今のは、なんだろう?
剣聖はこちらを攻撃しようとしたはずで、でも、そうしなかった。
手を抜かれている。
唐突に、ビリっと左腕がしびれた。
剣聖から視線を逸らすわけにはいかない。打たれた? いつ? どうやって?
集中を高める。見逃すわけにはいかない。
油断したつもりはなかった。注意を怠ってもいない。
でも、攻撃されている。
もう投げ出したかった。勝てるわけがない。まるで剣聖は僕をいたぶっているようなものだ。
さっきと同じような展開になった。スッスと剣聖が踏み出してきて、僕はまた後退する。
背後に壁の気配。
もし僕が勇敢なら、ここで打って出たかもしれない。
決死の覚悟、という奴だ。
でも僕にはそれはできなかった。純粋に怖かった。
足が竦むわけではないが、動けなかった。
剣聖の輪郭がもう一度、歪む。
さっきと同じことを繰り返せない。
繰り返せないはずなのに、それ以外に活路がない。
動いていた。いや、動かされた。
弾き飛ばされて床を転がっていくのを実感して、自分が結局、さっきと同じ行動を取り、それを剣聖が跳ね返したと、理解できた。
道場の隅に叩きつけられ、激痛に思わず呻いた。
起き上がると、剣聖がこちらを見ている。木刀は僕の手から離れ、遠くに転がっている。
「良い動きをする」
道場主らしい男性に剣聖が自分の木刀を手渡す。その道場主は恐縮していたけど、視線はほぼ僕に向けられていた。
どうしてかはわからないけど、何か、変なことでもあるのかもしれない。
起き上がった僕の前に剣聖が立った。
「剣術をやる気はあるか?」
「無理です」
即答する僕に、剣聖が笑った。
「まだ子どもだろう。挑戦してみろ」
「あの、剣聖様……」
道場主が近づいてきて、声をかけてきたので、僕も剣聖もそちらを見た。道場主は恐縮した様子で、言葉を続ける。
「その子どもは飛脚屋の小僧でしょう? 今の動きを見ても、素人でございます。我が門人の方が、まだ剣を使えます」
「それは昨日、見た」
剣聖は怒りもせず、ゆったりと応じた。
「残念ながら、あなた方には見るべきものはない」
訂正。怒っているかも知れない。
道場主が顔面蒼白になったところで、剣聖がなだめるような身振りをする。
「剣聖が見出す才能は、極めて稀有なものなのです。剣聖候補生とはそういうもの。いずれはこの国の最上位に限りなく近い位置に進む、輝かしい才能こそが、私たちが探しているものです。この少年は確かに、剣術を何も知らない。今、手合わせをしてみて、よくわかります。完全なる白紙、そういうしかない」
剣聖がこちらを振り向く。
「だから、この少年を剣聖候補生にするつもりはない。つもりはないが、私が引き取ることにした」
一瞬の静寂の後、観客が声を上げ始めた。
僕はぽかんとするしかない。
引き取る? えっと、どういう意味だろう?
「それでいいかな、エダ。今のは俺の意見だ。君はどうしたい?」
「どうしたいと言われましても……」
答えに困った。
引き取られて、何をするんだろう。
「行け! エダ!」
急に大声がして、観客をかき分けて、飛脚の支店長とその奥さんがやってきた。
そしてガバッと、座り込んで剣聖に頭を下げた。
「どうか、この小僧を導いてください! 不憫な身の上でも、健気な奴ですから!」
そう叫んで、今度はこちらを睨むように見た。
「エダ! こんな機会は二度とない! この方の背中が、お前が目指すものだ!」
そう言われても……。
「エダ!」
僕は剣聖に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
こんな具合で、急転直下で僕の生活は変わったのだった。
(続く)




