0.5-4 飛翔
春も間近な時期に、その剣聖はやってきた。
灰色のマントのせいか、どこか沈んだ雰囲気のある男だった。
「ヒラエ・エンタラ、と申します」
道場にやってきたその剣聖が、僕と祖父の前で軽く頭を下げたので、びっくりした。祖父は堂々としている。
「覚えています。いい筋の剣を使うと、思っていました」
「先生がこんなところにいるとは、全く存じていませんでした」
先生、とは祖父のことか。それにも僕は驚いた。祖父はといえば、落ち着いた様子でいる。
「今はただの老人です。わざわざ王都からこちらまで、ご足労をおかけしました」
「いえ、才能あるものを探すのも、剣聖の役目ですので」
「王国のための大役です。庶民の一人として、感謝します」
剣聖を憎んでいるようなことを言った祖父とは、まるで別人だ。
剣聖のヒラエが僕を見る。
「この子どもですか? いい眼差しですが、まだ幼い」
「十二歳になります。剣の腕は、私が仕込みました」
「失礼ですが、先生、子どもの遊戯と実際の剣術を混同してもらっては、困ります」
ヒラエの反応は普通の反応だ。
祖父は、たぶん、その反応を予測していたんだろう。
「腕を見ていただきたい。剣聖ともなれば、相手を殺さぬ手加減が、できるでしょう」
少し迷ったようだったが、ヒラエは決めたようだった。
それは先生と呼ぶ相手の頼みを無下にはできない、という義理のようなものだったけど、もしかしたらそれもまた祖父の計算のうちだったかもしれない。
祖父が壁際に下がり、僕は数日前に祖父が与えてくれた剣を手に、立ち上がった。剣聖も立ち上がり、僕と剣聖とはある程度の間合いを置いた。
「合図はそちらで」
投げやりとも言える様子でヒラエがこちらに譲ってくる。
答えたのは祖父だった。
「いつでもどうぞ。私の孫を、どうぞ、切ってみてください」
さすがのヒラエも狼狽したようだったが、すっと右手を腰の剣の柄に触れさせた。
一瞬だった。
結果から言えば、混乱したのは両者同じだったけど、質が少し違う。
僕は強烈な居合から放射された空気の渦のようなものを即座に感じ取り、和音の歩法でそれを回避した。見たことも聞いたこともない剣術だった。
一方の剣聖の混乱は、僕の比ではない。
手加減したとはいえ、いきなりの不可視の一撃を、少年が易々と回避しているのだ。
僕はその混乱に乗じることにした。
和音の方法を駆使して、ジグザグに、しかし風のように、ヒラエに迫った。
ヒラエも並みの剣士ではない。抜き打ったばかりの剣を引き寄せ、自分からも間合いを詰める。こちらの思うがままにさせたくない、という当然の、そして順当な対処法だ。
僕だってそれくらいは予測している。
剣術同士のぶつかり合いでは、間合いが重要になる。
たぶん、ヒラエは知っていたと思うが、知っていても僕の和音の歩法は、彼が対処不可能な軌道で僕を移動させた。
剣聖の側面に踏み込みざま、容赦なく四弦の振り。
自分で稽古していた完全な調和が実現した攻撃。
ヒラエが剣を掲げ、片手で刀身を支え、僕の高速にして激烈な連続攻撃を凌ぎ、その反動も加えて床を蹴って間合いを取ろうとする。
明らかに、僕が間合いを支配していた。
自然と追撃。牽制の剣を的確に見切り、回避し、回りこみ、再度、僕は剣聖の側面を占める。
今度は二弦の振りを二連続で。
これもヒラエはどうにか防ぎきる。ただし、姿勢はさっきより乱れた。
三度目の和音の歩法で、剣聖の背後へ。
さすがにヒラエもこちらの歩法と戦術に気づいている。背後に回られることは警戒していたんだろう。
彼の一撃を僕は受け流し、最小限の振りで攻撃を繰り出す。
軽い手応え。ヒラエが床に転がり、無様に間合いを取った。
二人が停止し、向かい合う。
「素晴らしい」
感嘆の声を漏らしつつ、ヒラエがマントの留め具を外し、脱ぎ捨てる。そこには小さな切れ込みがあり、血が滲んでいた。見えないが、彼の背中は今も出血しているだろう。
「信じられない剣術だ。先生の血筋なことはある」
途端に、ヒラエの表情が引き締まった。
そして彼は剣を鞘に戻した。これで終わり、ではない。彼は柄を握り直し、構えのようなものを取った。居合か。さっきの不可視の一撃が来る、と僕は察知した。
刹那、ヒラエの姿が消えた。
超高速の踏み込み!
僕の足が床を蹴る。間に合うか……!
一方で全身は一点に向かって、自然に動いていた。
着弾。
衝撃に翻弄され、僕は床に転がり、しかしすぐに起き上がった。
腹部が熱い。
しかし見ている暇はない。
睨みつけるようにヒラエを見ると、彼はゆっくりと姿勢を整え、こちらを見た。
「今の一撃は、防げなかったはずだ」
彼は片手で自分の首を押さえつつ、言った。
僕は答えることもできず、しかし姿勢の維持もできず、腹部を押さえた。濡れている。びしょびしょだ。ねばねばしているのもわかった。
誰かが僕の前に立ちふさがった。
母か、と思ったら、祖父だった。
「我が孫の技をご覧になったでしょう! この子を、剣聖候補生に! どうか、剣聖候補生に! 何卒! 何卒!」
僕は朦朧とし始めた意識の中で、自分の剣にあった手応えを考えていた。
剣聖の首を捉えたが、浅かった。
あの一瞬、僕は反射的に剣聖を殺そうとした。
恐ろしい。
ただただ、恐ろしくなった。
僕は、そんなに残酷な人間なのか。
僕は生来、そういう人間だったのか。
かすみ始めた視界で、ヒラエが剣を鞘に戻し、柄から手を離した。
「これほどの使い手を放っておくわけがないですよ、先生。私が責任を持って、彼を剣聖候補生にしましょう。しかし、恐ろしいですよ、私は。この子はいったい、何者なのですか? 先ほどの手応えが……」
「孫には、精神剣が宿っております」
剣聖は笑ったようだった。でも見えない。声だけが聞こえ、呆れたような、そんな声の出し方だ。
「精神剣ですか、良いでしょう、それで納得します。この場は、ですよ。彼の剣術は申し分ない。それだけでも剣聖候補生になれる。安心してください」
僕はそこまではどうにか意識を保ったけど、糸が切れたように全てがわからなくなり、視界は真っ暗になった。
気づくとどこかに寝かせられていて、ぼんやりした視界に、母の顔が見えた。
いつもとは違う、感情のある表情。その感情は、悲しみ、だろうか。
「ごめんね、ソラ、私が、いけないのよ……」
そんな声がいやにはっきり聞こえた。
何を謝っているんだろう?
お母さんは、何も悪くないじゃないか。
悪いのは、でも、誰だろう。
僕自身、かもしれなかった。
「ごめんね、ソラ、ごめんなさい……ごめんなさい」
また意識が失われ、次に目覚めた時は、もう頭はスッキリしていて、どこか新鮮なものを全てから感じた。まるで一度、死んで、全てが改めて組み直されたような、そんな新鮮さだった。
医者がやってきて、僕の腹部を見て、「大丈夫だな」と額を撫でてきた。
どうやら剣聖の一撃のせいで、気を失ったようだ。
あの一撃は、精神剣で防いだ。ただ少し、遅かったんだろう。
起き上がれるようになるまで、何度も母が顔を出したけど、また感情のない、能面のような顔と態度になっていた。
あの謝罪は、僕の見た、都合のいい幻覚だったのか。
本人に尋ねるわけにもいかず、僕はそのことには触れなかった。
祖父がやってきて、言った。
「お前は剣聖候補生として、王都へ行くのだ」
それが祖父の第一の願いだったはずが、祖父の表情は、どこか晴れなかった。
外から鳥の鳴き声がする。
もう春になるんだ。
(続く)




