0.5-1 限定された世界
十二歳になろうかという僕は、はっきり言って閉じた世界で生きていた。
村の名前は、イシザ村。
でも僕は、外に出ることは滅多にない。
僕の世界は、道場にほとんど限られていた。
「もっと早く! 無駄を悟れ!」
六十をだいぶ超えていると思えない強すぎる祖父の怒声を背に、僕は木刀を振るい続ける。
相手は人間ではなく、柱だった。道場の隅に特別に設置された、僕ではひと抱えにもできないその太い柱に、僕を打ち込み続ける。
いくつかの点で、他人が見れば声を上げただろう。
一つは、服の下の僕の体がアザだらけなこと。
もう一つは、僕が振るう木刀の速さだ。
教え込んだ祖父のオロチも受けきれないのでは思うほど、僕の木刀は縦横に、超高速で走る。
しかし祖父はそれで満足しない。
「通り一辺倒に打つな! 敵はお前の想像通りには動かんぞ!」
汗みずくになり、汗は水滴となって四方へ飛ぶ。その汗のせいで、床が滑る。
そもそも、僕が何年も稽古を続けたし、その前にも長い時間、僕の知らない人たちが稽古を重ねたため、道場の床は木でできているとは思えないほど、自然と磨き抜かれて、輝いている。
木刀の反動をうまく吸収できず、僕は倒れこんだ。
待ち構えていた祖父の木刀が僕を打つ。呻きながら、起き上がり、僕は木刀を構え直し、柱に向かう。
この道場には時計はない。そんなものを必要としないのだ。
稽古は一日中、続く。
「そこまで!」
祖父の声で、僕は手の動きを止める。
自分でもよく体が保つものだと思うけど、もう何年も続けているので、不安はない。
祖父の指示に従い、筋力トレーニングが始まる。どういう理論かは知らないけど、体の筋肉に負荷をかけるトレーニングと、持久力を鍛えるトレーニングを繰り返すのが効率的だと、祖父は考えている。
なので、道場のやはり隅にある重りを上げ下げした後は、道場の中を走る。道場は三十人が同時に稽古ができるほど広いけど、もう何年も、僕と祖父以外はやってこない。
いや、やってくる人もいる。
母屋に通じるドアが開き、かすかな食事の匂い。
「ソラ、昼休みだ」
祖父の言葉を受けて、僕は抱えていた重りを床にそっと置いて、母屋からやってきた母の元へ歩み寄る。
母は祖父の前ではずっと表を伏せている。
遠慮、と呼ぶには過剰だけど、僕は深くは考えなかった。
考えるとしても、母は義理の父親に当たる僕の祖父に養ってもらっているからだろう、その程度だった。
食事はいつもしっかりとしていて、そこに祖父に対する憎しみが僕を支配しない理由の一つがある。
嫌がらせというか、そういう発想で僕を苛めているわけではない、とわかるからだ。
僕を徹底的に潰したいのなら、食事なんて与えなければいいし、稽古だってもっといい加減な、負荷が強いだけで体が壊れるような稽古を課せばいい。
でもそれをしないということは、祖父には目指す場所がある、ということになる。
食事が終わり、僕は少しの間、道場の隅で横になった。
まだ春先で、窓を開けるには早い。道場の床は冷たかったけど、それが逆に心地いい。
どれくらい経ったのか、瞑想をしていた祖父が立ち上がったので、僕も立ち上がる。再開だ。
今度は脚さばき、歩法を念入りに指導される。
これも何も知らない人が見れば、驚いただろう。
僕の体は自分でも信じられないくらい、素早く躍動する。
音階の歩法を習得し、和音の歩法もほぼ完全に習得した。
祖父はそれをさらにキレのいいものにするべく、僕を叱り、怒鳴り、時には木刀で打ち据えてくる。
足を滑らせる。バランスが崩れたところに木刀の一撃を受け、今度こそ完全に倒れこむ。
「お前は今、死んだ! 次はなくなったのだ!」
怒声とともに木刀が肩を打つ。
起き上がり、姿勢を整えようとしてもまた木刀の一撃。
「敵はお前のために待ってくれないぞ! 停滞をなくせ! 無駄を切り捨てろ!」
和音の歩法の組み合わせで、僕の体がまた動き始める。
「同じ連続を使うな! 敵に読まれるぞ! 考えろ!」
繰り返し繰り返し、僕は足を動かす。もう無意識にも音階の歩法を使い、和音の歩法を繰り出せる。
いつの間にか夕日が射していて、祖父が一度、手を打った。
「終わりだ。あとは自分で行え」
祖父はそう言って、母屋へ行ってしまう。入れ替わりに、母が料理を持ってやってきた。
「お疲れ様です」
母はやっぱり顔を上げない。話もしようとしない。僕も無言で料理を受け取り、無言で食べた。食べている間、母はすぐそこでこちらを見ている。でも何も言おうとはしないのだ。まるで言葉を忘れてしまったかのように、口を閉ざしている。
食事が終わり、母は道場を出て行った。
あとは自分で稽古をする時間になる。
木刀を手に、例の高速の振りと高速の歩法を連携させるように、動きを繰り返す。
高速の振りは、今、四連撃は自然と繰り出せて、これを祖父が「四弦の振り」と呼ぶと教えてくれた。
音階の歩法もそうだけど、尋常じゃない技術だ。
僕は実際に他人と剣を向けあったことはないけど、自分がそう簡単に負けるとも思えなかった。比較対象がほとんどないけど、大半の剣士は僕よりも遅い、と想像していた。
唯一の比較対象は祖父だけど、祖父はもう現役を退いて長い時間が過ぎているし、当然、肉体的にも盛りを超えたどころか、だいぶ衰えているだろう。
僕は僕より強い人間を知らないのに、その誰かに追いつくべく、稽古をしているわけだ。
幸せか、と聞かれたら、僕は、不幸せです、と答えるだろう。
やりたいことはたくさんある。でも、剣術以外の要素が僕の生活に入ってくることはない。
友達もいないし、孤独と言ってもいい。
だから、不幸せ、と感じる。
一方で、充実している、ということがいえるのが自分でも不思議だった。
ただ一つに全てを注ぎ込み、脇道は全くなく、理解者もほとんどいない。
でも、僕の体や木刀は、鮮やかな軌道を描く。
その軌跡を、もっと美しくしたい。
無駄のない、光が差すような一撃を、繰り出した。
そんな荒唐無稽と言ってもいい願望のために、僕が逃げ出さずに稽古を続ける理由の一つがある。
そして実際、その願望に少しずつ少しずつ、近づいている感覚がある。
不幸せと思いながら、充実感がある生活。
ちぐはぐなようだけど、僕はそんな心で、ここ数年、ひたすら祖父の薫陶、指導を受け、耐えている。
その日も日が暮れて、明かりを灯し、しばらく稽古を続けて、適当なところで終わりにした。
壁にある押入れから布団を取り出し、定位置に敷いて、その中に入り、目を閉じる。
目を閉じると、見えない誰かが見えるような気がする。
その誰かは、僕の前に立ち、僕に切りかかってくる。
そう、相手は木刀ではなく、真剣を持っているのだ。
まぶたの裏の暗闇の中で、僕の木刀とその誰かの真剣がやりとりされる。
最後はいつも、僕が切られる。
はっと目を開けると、そこは真っ暗で、つまり道場の中だ。
目を閉じるのが怖くなるけど、閉じる。
際限なく、僕は誰かと斬り結び、殺される。
でも、そのうちに相手の攻撃を凌げるようになり、拮抗し始める。
その長い膠着状態のようなやりとりが終わる時、結局は僕が切られる時に目を開けると、そこは道場の中でも、明かりが差し込んでいる。
朝だ。
跳ね起きて、布団を畳んで押入れに戻す。
今の時期はこの時だけ許されているので、外にある井戸で水を浴びた。夏になると夕方にも水浴びが許される。
体を拭って、服を着て道場へ戻ると、母が待っていて、朝食がそこにある。
やっぱり母はこちらを見ない。
黙々と食事をしていると、祖父がやってくる。素早く器を空にすると、それを持って母が下がっていった。
また一日が、始まる。
(続く)