1.75-1 再出発
私はアンギラスからシュタイナ王国へ舞い戻った。
舞い戻ったと言っても、ものすごい苦労だったけど。まず脇腹の重傷がおおよそ完治していたとはいえ、運動からかなり離れていたので、すぐに息が切れるし、体も鈍っている。
どうにかこうにか国境地帯の山の一つ越え、二つ越え、山賊の残党に会わないように、山中を移動し、そのうちにもう一つ峰を越え、それでやっと山を降りられた。
食事は自分でも信じられないが、鹿が木の皮を食べる、と思い出し、そこらの木の幹を削り取り、飲み込めないが、ひたすら噛んで、飢えを凌いだ。もちろん、正しい生き方、やり口ではない。
水だけは問題ない。雪がかなり残っている。
雪が融ける頃には、木の芽を食べたり、地面に生えてきた草を食べて、その時にはすでに山を下りつつあった。
数ヶ月ぶりに小さな集落に巡り合い、そこでもいつかのように、原始人が現れたような驚きが相手を圧倒したようだけど、その集落にいる男も女も、どうやら狩猟で生計を立てているらしく、すぐに驚きから回復した。
それもそうか、熊よりは私の方が大人しいだろう。
その集落で服をもらい、食べ物も分けてもらえた。
「どこから来たんだね? この時期に。まだ山には雪も多いだろう?」
集落の男の中でもリーダー格の男が尋ねてきたので、私は少し顔をしかめて見せつつ、答えた。
「アンギラスに逃げようとする剣士と斬り合って、負けて、そのままアンギラスに連れて行かれていた」
きょとんとした顔になってから、男が笑った。
「それはまた、すごい作り話だな」
「これが証拠」
私は服の裾をめくり上げて、腹を見せた。
そこにはまだ生々しい傷跡がある。男はまじまじと見て、神妙な顔になった。
「よく生きているな」
「いい医者に巡り会えたみたいでね」
「そりゃそうだ。並の医者だったら、助けられないと思う。それで、どこへ行く?」
「どこって……」
考えていなかった。なんとなくシュタイナ王国に戻ったのは言葉が問題だからで、シュタイナ王国でも、別に行くべき場所も、帰る場所もない。
「剣術を使うなら、隣の町に、道場がある」
男がそう言いながら、私が抱えている剣を見ている。
「あんたが凄腕なら、指導者として雇ってくれるだろう」
「ああ、そうね」
たぶん、その道場の指導者より、私の方が強いだろう。
正直、私は私より強い人間を、それほど知らない。まずミチヲだ。もう一人、モエとも互角くらいと見ていた。
しかし、モエは剣聖だし、私と同等とも思えない。もし同等なら、私が剣聖になっている。
「なんだ? 乗り気じゃないのか?」
男に私は笑みを返した。
「剣を使って身を立てたいとは思えないの」
結局、その日は夜までその男の小屋で、ああだこうだ、色々と話して夜が更けた。
彼が眠るというので、私は一人で外に出た。
腰には、ミチヲの剣。
ここまでの旅の中で様々に何度も使ったために、もう手に馴染んでいる。
立ち尽くし、そこから居合。
切っ先は天に向いている。
ゆっくりと鞘に戻し、姿勢は直立。再度の抜刀。また切っ先は天に。
これを何度か繰り返す。
私が今、極めようとしている、踏み込みを必要としない居合。
ミチヲになぜ負けたのか、最初は四六時中、考えていた。
負けた自分が許せなかったんだと思う。
でも今は、そんな悔しさはないし、心にあるのは、ただ勝ちたいという願望だ。
彼の剣の冴えは異常だ。技の習得もまるで魔法のように早い。
ただ、彼は一度、私の剣をその身に受けた。即座に技を盗めるわけではないし、それはつまり、まったく新しい剣術で対抗すれば、勝機はある。
静寂の太刀は、すでに奪われた。もう一度、彼と向かい合って、静寂の太刀と静寂の太刀の勝負になれば、もう十中八九、私が負ける。
なら、どうするべきか。
静寂の太刀は相手に察知されず、なおかつ鋭く早い踏み込みからスタートする。
だったら、もうこちらが動かなければいい。それが私の発想だった。
相手が間合いに入ってくるのを待つ。入った瞬間、有無を言わさず、最速の一撃で仕留める。
問題は、私がミチヲの静寂の太刀の踏み込みを見抜けるか、になるけど。
そもそも静寂の太刀は、相手に踏み込みを悟られないところが特徴の一つで、それはミチヲが技を磨けば磨くほど、彼がこちらを間合いに捉えるという瞬間を認識することができない、となる。
もちろん、静寂の太刀を使っても、姿が消えるわけじゃない。
見ることはできる。
一瞬の勝負になるな、と考えつつ、何度も居合を繰り返す。
攻撃する瞬間をどう意識するか、その最大の問題は先送りにして、今、とにかく最速の一撃を磨くしかない。
どれくらい続けたのか、小屋から男が出てくる。起こしてしまったらしい。
「音だけでも背筋が凍るよ」
男がそう言って、小屋に寄りかかってこちらを見ている。
私は彼を見返して、動きを止めている。
「やめるのか?」
「いえ、少し休むだけ」
「あんた、人を切るのに慣れているな」
断言するような口調だったけど、別に咎めるような響きはない。
私は軽く頷く。
「数え切れないほど、切ったわね」
「あんたの剣の殺気はものすごい。誰か切りたい相手がいるんだな、と素人でもわかるぜ」
「そう? まぁ、確かに切りたい相手はいるけど」
「仇か?」
思わず笑い声が漏れてしまった。男が不服という気配を滲ませる。
「なんだよ、おかしいことか? 仇じゃなきゃ、なんだ?」
「そうね」
私は自分の腰の剣の柄に触れた。
「唯一、分かり合えた相手、かしらね」
「なんだって? 俺にはよくわからないけど、俺がおかしいのかな」
「誰にもわからないわね、きっと。私以外には」
今度は憮然という感じになり、男が目を細めてこちらを見た。
「分かり合えた相手を、切るのか? それでどうなる?」
「どうもならない。けど、私が強い、ということはわかる」
「強いとどうなる?」
「だから、どうもならないわ」
わからんよ、と男が首を振るので、私はそれも可笑しくて、少し吹き出していた。
「わからないのが当然よ。私、きっと剣に取り憑かれているんだわ」
瞬間、前触れもなく脇腹に激痛が走り、私は苦鳴を上げて、座り込んでいた。男が慌てて駆け寄ってくる。
「あまり無理するなよ、腹の傷だろ?」
「時々こうなるだけよ」
脂汗が流れるのを感じつつ、脇腹を強く押さえる。痛みは徐々に治まり、完全に消えた。息を吐いて、男の手を借りて立ち上がる。
「あんた、しばらくここにいてもいいんだぞ」
「ありがたいけど、他所へ行くわ。あなたが、いい人だとわかったから」
名前も知らない男がどこか怒ったような顔になった。表情が豊かな人間なんだ。
「俺たちは別に構わない。少し、休んでいけよ」
「この集落に、武装した連中が押し寄せたら、申し訳ないわ」
今度は神妙な顔になり、こちらの顔が覗き込まれた。
「あんた、いったい、何をしたんだ?」
そうね、と答えて、うまく言葉を見つけられなくなった。
何をしたんだろう?
少しずつ、言葉が頭に浮かんだ。
「悪いことを、したんだわ。数え切れないほど。悲しみと、怒りと、痛みと、苦しみと、そういうものを、撒き散らしてきたの」
男はもう何も言わず、自然な仕草で私を支えていた手を引っ込めた。
そうか、私はやっぱり、恐怖の対象なんだ。
「世話になったわね。服をありがとう」
私はそう言って頭を下げ、少ない荷物を小屋から回収して、まだ外にいる男の横をすり抜けた。
「元気でね、善良な人くん」
彼は何も言わずに、でも背をむけるでもなく、私を見送っているようだった。
さて、どこへ行けばいいのか。
行く場所なんて、どこにもないけど。
でも、どこかへ行かなくては。
(続く)




