1.25-3 流転の始まり
リッタが死んだのは、突然だった。
その日も昼間は稽古をし、夕方にリッタはユミータの用事があるということで屋敷を出て行ったのだ。
あの免許皆伝の話を聞いた夜から数週間が過ぎていた。
私は料理がおおよそ進んだところで、しかし調味料がないことがわかり、カイゴウに断って屋敷を出た。
買い物から戻り、調理場に入る。
入った途端、異変に気付いた。
立ち込めている臭気は、血潮のものだ。夕日が調理場に差し込んでいて、しかしその赤とは違う赤が、土間に広がっていた。
倒れているのは、リッタ。
私は悲鳴をあげもせずに、淡々とリッタが死んでいることを確認し、それからカイゴウを呼びに行った。
カイゴウは私の話を聞くと、少しだけ目を細め、立ち上がった。
「医者を呼びなさい。せめてもの手当てをしたい」
私は村へ走り、医者を呼んだ。
医者を連れて屋敷の調理場へ戻ると、カイゴウがリッタの遺体のすぐそばに佇み、じっとしていた。
結局、リッタには何もできず、医者はただ死亡を確認しただけだった。
警察を呼ぶか尋ねられたカイゴウは、それを断り、葬儀も内々に済ます、と医者に念を押した。彼は懐から待っている間に用意した金子を取り出し、それを医者に手渡す。
口止料、というわけだ。
屋敷の奥の庭に、私が穴を掘り、リッタを横へ埋めた。墓石代わりに石をそこにおいて、庭の一角に咲いていた花を供えた。
カイゴウは何もせず、居室にいるようだった。
深夜にユミータがやってきた。どこかで噂でも聞いたようだった。
庭へ来た彼はリッタの墓を見るついでに、まだそこにいた私を一瞥し、何も言わずに屋敷の奥へ行き、カイゴウと何か話しているようだけど、私には関係ないだろう。
私は長い間、リッタを埋めた場所を見ていた。
誰が彼を殺したんだろう?
リッタほどの使い手をあっさりと切れる人間はそういない。ああ、でも、そうか、リッタは剣を持ってなかった。でも、素手でも彼ほどの使い手が素人に切られると思えない。
この村で剣術を修めている人の犯行? でも、この村でカイゴウとその弟子よりも剣を使う剣士なんて、いるだろうか。流れの誰かか? でもこの屋敷に入り込む理由がない。そもそも何も無くなってはいない。
何もかもが不可解だった。
「サリー」
背後から声をかけられ、振り返る。
カイゴウだった。
しかし、寝間着ではない。動きやすい平服で、腰には彼の愛剣がある。
「私はお前を信じたいが、もはや、切るよりない」
切る?
「私を切るというのですか? なぜ?」
「リッタの仇を討つ」
「私はリッタを切っていません。それは事実です」
縁側から庭へ、カイゴウが降りてくる。
「信じてください、先生。私は、何も知りません」
「愚かなことをしたな、サリー」
私は腰に剣を帯びていた。何も考えずに帯剣していただけで、しかし、今の事態に直面しては、それは幸運であり、同時に不幸だった。
黙って切られるのは、受け入れられない。無実なのだから。
師匠にどれほど対抗できるか、わからなかった。
しかし私は剣士であり、剣が手元にあり、そして剣を向けられている。
全てが、決闘に結びついていた。
相手が師であろうと、それは何の枷にもならない。
自然、そう考えた。
じりっとカイゴウが間合いを詰める。彼の右手は、腰の剣の柄に置かれている。
私は姿勢を変えた。
ここが全てだったと、あとでわかる。
もしここでカイゴウが攻めてくれば、私は対処に手一杯になり、そのまま押し切られて死んだだろう。
でもどういうわけか、カイゴウはわずかに間合いを支配するように、姿勢を変えただけだ。
もしかしたら、カイゴウは躊躇ったのかもしれない。
このわずかな間で、私は万全の姿勢を作った。
右手が腰の剣の柄に。
二人がほとんど同じ姿勢で向かい合った。
決断もほぼ同時だった。
私は、必死だった。カイゴウはどうだっただろう?
二本の剣、二人の体がすれ違う。
瞬間的に沸騰した思考が、次の一瞬には氷点下へ落ちる。
切られた?
私は、死ぬのか?
そう思ったけど痛みもなく、死もやってこなかった。
背後で鈍い音がして、カイゴウが倒れた。
「先生!」
駆け寄ると、まだカイゴウは息をしていた。体が激しく震える。口から血が流れた。
「先生、どうして……」
「お前の」かすかにカイゴウが声を出した。「強さだ」
強さ?
信じられなかった。
カイゴウは手加減をした。理由もなく、そう思った。
「逃げなさい」
そう言って、カイゴウは息絶えた。
どうするべきかわからないまま、私は動けなかった。
と、屋敷の周囲で人の気配が起こった。
逃げなさい。カイゴウの言葉が蘇った。
私は抜き身のままだった剣を鞘に差し込み、身を翻した。屋敷を囲う塀を乗り越えて、外へ出た。そこにいた村人のひとりが悲鳴をあげた。
どうやら村人がこの屋敷を包囲したらしい。実際に、その村人も手に鉈のようなものを持っていた。
私は夜の闇の中に紛れ込んだ。
それから夜が明け、昼が過ぎ、また夜になった。村は方々で篝火を焚いている。夜が終わり、朝が来て、太陽が空を横断し、また夜。
私は激しい空腹を無視して、屋敷に忍び込んだ。
奥のカイゴウの座敷に足音を消して、滑り込んだ。
その部屋にいた男がこちらに気づき、声を上げようとした。
ただ、声を上げさせる私ではない。
横薙ぎの一閃で、相手の首をほとんど輪切りにした。大量の血が飛び散り、血臭が立ち込める。私はまだ痙攣しているその男を、見下ろした。
そこにいるのは、ユミータだった。
実際のところはよくわからない。ただ、ユミータならリッタを簡単に殺すことができる。リッタは間違いなく、油断する。そしてカイゴウに嘘を真実のように告げ、私を消すようにけしかけることも、ユミータにはできる。
全てを予想したように村人に屋敷を包囲させたのも、ユミータだったんだと、私は理由のない確信があった。
もはや全てを確かめることはできない。当事者は全員が死んだ。
ユミータが完全に息絶えたのを確認し、私はその場を離れた。塀を乗り越え、街道へ走った。
初めて人を切って、三日が過ぎた。三日の間に、二人切った。あまり実感のない事実だった。
街道へ出て、ひたすら走った。
空腹がひどい。空が白んでくる頃、小川に差し掛かり、少しの躊躇いもなく、飲める限り水を口にした。
また街道を走る。
どこへ向かえばいいかもわからず、ただ、走った。
何かが追ってくるのを恐れるように、私は走った。
(続く)