1.5-6 薫陶
俺はどこかをさまよっていた。
気づくと、水辺にいる。街道から少し離れたところにある、村の、そのまた先の河原だ。
俺は服を脱いで、汗を流していた。モエは村の中の一棟で、今頃、夕飯を作っているだろう。
その男が来ることを俺は今、知っていたし、その時も察知していた。
男の姿が見えて、俺は体の水気を拭い、その場を去ろうとする。男の腰の水筒にはほとんど水がない。水を汲みにきたのはわかっている。
男の腰には剣があり、鞘が美しい。
「少し良いかな」
服を着て去ろうとする俺の背中に、彼が声をかけてくる。
「その胸の傷は、誰に?」
彼も水浴びをしている俺に目を留めていたらしい。
「とある方に」俺は何気なく答える。「負わされた手傷です」
「剣ではあるまい」
鋭いな、とその時は思ったし、今でも彼がどうしてその傷のことについてそこまで察することができたかは、今でもわからない。
「素晴らしい手並みがうかがえる。何で切られたか、教えていただけるか?」
迷ったけど、俺はその時には彼の何かに共鳴し、彼の方こそ、素晴らしい手並みの持ち主では、と考えていた。
「剣聖につけられた傷です」
彼は無言になり、そして頷いて「良いものを見た」と聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「驚かないのですか?」
こちらから尋ねると、彼はにっこりと笑う。
「あなたにはそれだけの素質が見える」
その頃は、モエと旅を始めたばかりで、自分のことについて、それほど考えていなかった。
「私を見ても驚かなかった。その素質をお持ちなのだろう」
これにはこちらこそが驚いた。俺の精神剣、精神器に気付いた人は、その時まで誰もなかったし、モエにもはっきりとは説明する前だった。
「旅をされているのですか?」
尋ねると彼は、頷いて、財布を取り出すとひっくり返して見せた。
何も落ちなかった。文無し、ということらしい。
俺たちはしばらく笑いあい、どちらからともなく、しばらく行動をともにすることに決まった。旅を始めて、初めてのことだった。
モエは不審そうだったけど、その日の夜、彼と俺が稽古をしているのを見て、考えを変えたようだった。
彼は僕が接した中でも、相当な使い手だった。
俺がどのように打ち掛かっても、彼の構えを崩せない。今は僕も習得した、大樹の構えの完成形がそこにあった。
その上、彼はモエの高速の攻撃さえも、それで捌いてみせる。
魔法、奇跡のような剣のさばきだった。
「ミチヲ、お前の目は素晴らしいが、まだ技がない」
ある夜、彼は全てが眠った森の中の、無人の炭焼き小屋の外で、俺に話しかけてきた。その時、俺と彼は揃って外に出て、木々の隙間から星を見ていたのだ。
「お前の目に無数の技が合わされば、剣聖にも遅れを取らないだろう」
「どうすればいいと思いますか?」
「場数だ」
場数。俺は口の中で繰り返した。
「実戦を繰り返すしかあるまい。その上で、実戦の場で相手の剣術を真似る。私はお前ではないが、お前も人間のはずだ。人間は、相手の動きを即座には真似できない。稽古が必要だ。その点でお前に有利な点があるとすれば、相手の剣術の要旨、骨子のようなものを、直感的に理解できる点にある。普通の人間より、短い時間で、より正確に、真似られるはずだ」
その頃の俺はまだ、自分の能力を活かしきれておらず、事実、彼の大樹の構えに何度も挑みかかっては跳ね返されていたし、俺の使う大樹の構えは不完全だった。
「ただし、そこには落とし穴がある」
「落とし穴? なんですか?」
「実戦で現れる剣の筋は、その一回しかない。お前は全てを知ることができるが、その知っている筋は、二度と現れないのだよ。お前が手本にした筋が、完璧に生きることは、天地がひっくり返ってもない」
直感的にはわかるけど、本当だろうか、と俺はその時、考えた。
「相手の剣術のみを身につけるのだよ、ミチヲ。剣術とは、常に新しい筋を見出すことであり、逆に、その新しい筋を、別の新しい筋で潰すことでもある」
なるほど、と呟くしかなかった。
彼とはその後、半月ほどを一緒に過ごし、別れる前には、俺は大樹の構えを身につけていたし、モエも彼から一弦の振りを習得しつつあった。
「死んではいけないよ、ミチヲ。生きることに執着しなさい」
突然に彼が姿を消す前の夜も、俺と彼は剣術の稽古の後、星を見ていた。
「死ぬ気はないですよ。別に生きる目的もありませんが」
「生きる理由か」
彼が小さく笑う。
「私もそれを考えたことがある。女と親しみ、子を成す、そういう道筋もあろうとは思った。ただ、それが最善とは思えなかった。女のため、子のために、死ぬわけにはいかない、そう思えばあるいは強くなれるかもしれない。生きたい、と強く思うからだ。しかし、逆もあろう」
「逆?」
「死にたくない、という欲だ。危ういことを恐れる、とも言える。命を捨てるような筋しか勝ち目がない時、この恐れは悪く作用する。女や子のことを考え、命を捨てることをためらう。それが故に、逆に命を失う」
よくわからない理屈だった。
ただ、俺はモエのことを考えた。
俺にとって、モエってなんなんだろう?
「モエは幸い、守る必要のない女だ。お前も気楽だろう」
そう言って、彼が笑うので、俺はちょっとムッとして言い返した。
「俺の方が弱いですからね」
「強さなど、問題ではないさ。お前たちはきっと、そばにいる必要を感じなくなる」
そうだろうか。でも、そうかもしれない。
この時からすでに、俺もモエも、お互いがお互いを守る、というような考えはなかったように思う。
ただ一緒にいる気になった、という程度の、軽いつながり。
その軽いつながりのために、俺も彼女も、全てを投げ出したわけだけど、でもそれが不自然とも俺たちは思っていないのだった。
軽いけど、重要な糸が俺たちを結びつけ、何か、激しい流れに逆らっているのか、流されているのか、俺たちは進んできた。
「どこに落ち着くつもりだね?」
彼の言葉に俺は少し唸った。
「とりあえずは、アンギラス」
「遠いな」
「そうですね」
すっと、彼が立ち上がり、剣を抜いた。
「私はこの剣で生きてきた。良いことも悪いことも、出会いも別れも、全てこの剣とともにあった。お前は、どうするね?」
「同じですよ」
俺は彼を見上げた。
表情は夜の闇の中でよく見えない。
でも彼は笑っていた。そう思った。その時も。そして、今も。
「救いのないことだ」
彼はそう言って剣を鞘に戻すと、先に一夜の宿の小屋に入っていった。
俺はその夜、外で眠ってしまい、目が醒めると朝日が周囲を明るくしていた。
彼はその時にはもう消えていて、でも、金も食料も他のどの荷物にも、手はつけられていなかった。そういう変な筋を通す人だとはわかっていたけど、一言くらい声をかけてくれれば、と思った。
それからも旅は続いた。
色々な剣術に出会った。色々な剣士に出会った。追っ手を切ったし、追っ手から逃げたこともある。
彼が言ったことは真実だった。
様々な剣が俺を襲ったけど、同じものは現れない。
いつも、いつも、知らない筋から、知らない剣が伸びてくる。
命を奪う意志が、俺を激しく打つ。
切っ先を、刃を、俺は避け、弾く。
返す刃が、いつの頃からか、美しい筋で相手を切り、絶命させる。
強くなったとは思えない。
ただ、自分の剣が、まるで自分の剣ではない。
その思いも、いつか消えて、今の俺には、好奇心がある。
相手の筋を見たい。俺の命を狙うそれを、もっと見たい。
死にたいわけではない。
でも、生き残りたい人間の行動でもない。
俺は、剣に取り憑かれている?
目の前に、女がいる。
サリーだ。
見えなかった。知らない足運び。見たことも、聞いたこともない。
まるで予期していなかった。
切っ先が地から天へ舞い上がる。
反応できない。
どうにか背を逸らした。背を反らすのでは足りない、後ろへ倒れこむ。
剣が、来る。
何かが顔をえぐっていく。
ハッとした。
目を見開いたようだけど、何も見えない。
視力を失った?
違う、暗いだけだ。
反射的に顔に手をやった。遅れて激痛。何かが頭に巻いてある。左目はそれに覆われていた。包帯だろうか。手には湿った感触。きっと、血だろう。
上体を起こしたいけど、全身が激しく痛む。本当に子どもの頃、友達と遊んでいて斜面を転がって遊んだことがあったけど、あれをものすごく激しくすれば、全身がこんな風になりそうだ。
四つん這いになって、かすかな明かりの方へ進む。
どうやら俺は、森の中の窪地に作られた、秘密基地のようなものの中にいたようだ。
外は夜だけど、晴れていて、月明かりでぼんやりと滲んで森の中が見える。
どこか遠くで、狼か犬が遠吠えを上げる。
静かになった。何の音もしない。
空を見上げても、星は見えない。
ここがどこなのか、どうしてここにいるのかを考える前に、頭に浮かんだのは、意識を失う寸前のことだった。
見事な剣だった。
それに対して、俺の何と迂闊なことか。
情けなかった。
負けた。完全に、負けた。
死んでもおかしくなかった。
でもまだ、生きている。
俺は目を閉じて、視界を闇にして、意識を集中した。
思い出すべきこと、振り返るべきことを、ただじっと、考え続けた。
(続く)