1.5-1 予期せぬ遭遇
剣聖が逃げ出す、ということは、どうやら初めてではないらしい。
ただし、特別なのは、ほとんど駆け落ちであり、そして追撃を徹底的に打ち破っていることが、他と異なるらしい。
というわけで、俺は査問部隊の一斑、八人を相手に山の中で大立ち回りを演じ、たった今、六人目を切り倒した。
「味方で良かったと心底から思うわよ」
僕の背中に軽い衝撃があり、そこにモエの背中がある。
二人はふっと離れて、同時に剣を鞘に収めた。
彼女の方は二人を切ったようだ。
「その剣にも慣れてきたかな?」
なんとなく尋ねると、空気を切る音とともに目の前を何かが通り抜けた。
素人なら絶対に見えないし、並の使い手でも見えないだろう。
「これくらいには慣れたわよ」
たった今、俺の目の前で高速の抜刀と納刀をしたモエは、言葉とは裏腹に不満げだ。
「でも気にくわないって顔だけど?」
「少し軽すぎるわ。手応えがない」
「贅沢だと思うけど」
この逃避行を始めるにあたって、最大の不安要素は金だった。
まず俺は傭兵としての報酬がだいぶあったとはいえ、筋を通すために傭兵会社に離職願いとそれに付随する違約金を送る必要があった。傭兵会社と少しでも誼みがあれば、何かの時に役立つかもしれない、という打算もあった。
というわけで、俺の手元に残った金で、とりあえずは一ヶ月は旅ができそうだった。
一方のモエはといえば、剣聖というのは収入がない、と言い出して、俺はひどく混乱した。
つまり、剣聖は衣食住の全てを保障されているし、欲しいものは全て、自然と手に入るのだ。
だからそもそも、給料もないし、手当もない。
こうなってしまっては、モエを当てにすることはできなかったわけだけど、一つだけ、彼女が持っているものがあった。
それは例の銀の鞘に包まれた、剣聖の証の剣だ。
剣聖はみんなこの剣を持つけど、個人によって少しずつ設計が異なるらしい。
まぁ、それはどうでもいい。モエはその剣を質に入れる、と主張し、俺は反対した。というか、それは不可能だ。
剣聖の剣を買い取る質屋はいないし、それは大犯罪だし。
で、秘密裏に鉱物を取り扱う店に押し付けて、わずかの金になった。
そしてその金で旅が捗るかといえば、そんなわけもない。
モエがまさか丸腰でいるわけにもいかず、手に入った金の半分で、新しく剣を作った。今度は実用重視というか、実用一辺倒の剣だ。
何やら色々とこだわりがありそうだったけど、まさか鍛冶屋と交渉して、細部まで詰めて剣を作る余裕もない。
結局、店頭にあった剣の中で、モエが妥協し、一本を選んだ。
今、彼女の腰にあるのは、その剣だ。一応、切れ味は抜群らしい。
査問部隊の八人の死体から奪えるものを奪って、俺たちはさらに山の中へ進んでいった。
査問部隊の連中が持っているもので価値があるものは少ない。剣の類はまさか奪って売るわけもいかないし、財布のようなものはあっても、最小限の金しかない。
唯一、金になるのは、近衛騎士団の身分証でもある略章だ。これがマニアックな奴に売れる。売る方も売る方だけど、買う方も買う方だ、と俺は割り切っていた。
今回も略章をポケットに押し込み、、下草をかき分け、斜面を上っていく。
街道を通る段階ではないのは、ここがほとんど始祖国アンギラスとの国境地帯で、今、上がっている高い峰を越えて、その先の峰も越えれば、アンギラス領内だ。
「アンギラスに入れば、追跡も緩むんじゃないかしらね」
少しも息を乱さず、俺の横にモエが並ぶ。俺ももちろん、この程度の運動は当たり前にこなしてきた。傭兵会社の訓練課程に大感謝。
「どうかな。シュタイナ王国とアンギラスは協調路線だし、そもそも剣聖が自国に単身で入る、ということをアンギラスはどう捉えるだろう。意味不明な事態だけど、シュタイナ王国に抗議くらいはするかもね」
「厄介ね」
その厄介は全部、モエが理由だけど、俺はそれは言わなかった。
お互いが黙り込み、しかし何か言おうとほとんど同時に息を吸った。
まさにその時、その音はした。
重いものが地面に落ちるような音。
何度も何度も聞いてきた、斬り殺された人間が倒れる音に似ていた。
顔を見合わせて、気配を消し、音がした方を伺った。前方で、斜面のやや上だ。査問部隊が先回りしている? でも誰を切った?
そろそろと、ゆっくりその音の方へ近づいていく。
大きな音を立てて、目の前に人が現れた時、モエは剣の柄に手を置いていて、俺はそれを片手で制していた。
「あら、こんな山の中で、何しているの?」
相手が澄んだ声で声をかけてくる。本当に疑問に思っている顔の女性だった。
服装はどこか都会的だけど、運動しやすいそれ。もちろん、査問部隊の服装ではないし、査問部隊が現地民に化けている雰囲気でもない。
ただ、彼女の腰には剣があった。
俺の横顔にモエの強烈な視線を感じるけど、無視。
俺は目の前の女性がやってきた方向、視線の届かないそこにあるものを、すでに把握していた。
「あなたたちが犯罪者? どうもあの人たち、何かを勘違いしていたようだけど?」
女性がゆっくりと歩み寄ってくる。歩き方、身のこなしで、相当な使い手だとわかった。
正直、俺は焦っていた。相手の力量を推測すれば、こちらと同等だ。
「犯罪者じゃないけど、犯罪者でもある」
「言葉遊びが好きなの?」
「いや、正直な話。あなたが切って捨ててくれた連中は、俺たちを狙っている」
ピタッと足を止めた女性が、こちらを疑わしげに見る。俺の言葉に、モエも驚いているようだ。
「見てた? いえ、見えるわけがないわ」
「五人を切ってくれて、こちらとしては大助かり」
こちらの牽制に、女性は明らかに警戒し始めた。
「あなた、何者?」
「俺はただの剣聖の付き人。彼女が剣聖だ」
女性が視線をモエに向ける。モエはここ数ヶ月の逃亡生活で、髪型は変わったし、服装ももう農民じみている。何より、普通の剣しか持っていない。
視線を俺に向け、女性が剣へ手を伸ばす。
交錯は一瞬だった。
二人が動きを止めた後に、甲高い音が鳴るような錯覚。
「速いわね」
女性が俺の背後で振り返り、しかし手はさっきと同じ腰の剣の柄の上。
一方の俺は、振り返りつつ、頬をそっと手の甲で拭った。ぬるりとした液体の気配。
凌ぎきれなかった。
「でも、気に入ったわ。ついてきて」
俺は思わず息を吐いた。何も予測していなかったけど、彼女と本気で切り結ぶには、今の俺の技量は不足している。モエでも、敵わないだろう。
どうしてこんな山の奥にいるのか、不思議なほどの使い手だった。
「こっちよ、ほら、少しくらい付き合ってくれてもいいじゃないの」
女性が森の奥へ分け入って行くので、俺はモエと視線を交わし、ついていくことにした。
「見えた?」
こっそりとモエに尋ねると彼女は渋面になった。
「後になればね」
「君とどっちが速い?」
「用意ドンなら私が速い可能性がある」
つまり、誰かの合図で同時に動いて、互角かどうか、と言っているらしい。
不規則な遭遇戦なら、モエでも及ばないほど速い、ということになる。
「あなたたち、名前は?」
女性が先を歩きながら、話しかけてくる。
「俺はミチヲ。彼女はモエだ」
「モエ? 本当に剣聖なの?」
その言葉にモエはちょっとムッとしたようだった。そんな彼女を振り返り、女性が首を振る。
「とてもそうは見えないわ。流れの小作人みたいな感じ」
「失礼ですよ、あなた」
「私は剣で負けた相手にしか尊敬を向けない」
うーん、どうもこの女性とモエは水と油だ。
「私の名前はサリーよ。この山に根城のある武装組織に雇われている」
「武装組織?」思わず声を上げてしまった。「大きな集団かな?」
「ただ二十人ほどよ。山賊に毛が生えた程度。でも、空気は最悪ね」
よくわからないことを言ってから、もうサリーは無言だった。
一時間ほど歩いただろうか。山の中に柵が現れた。それを迂回していくと、見張り台があり、その上にいる男がこちらに手を振ってくる。サリーが手を振り返した。
そうこうしているうちに、森の中に建物が現れた。要塞、というにはお粗末だけど、砦と言っても遜色はない。
「山賊の住処、って感じね」
モエが囁いてくるのに、俺は軽く頷く。
建物のすぐ横に厩舎らしいものがある。馬が役立つ場所ではないけど、あるいは連絡用かもしれない。もしくは物資の輸送に使うかだ。
「まぁ、大した歓迎もできないけど、少しは休めると思う」
建物の入り口で、見るからに荒くれ者の風貌の男が二人、俺とモエの前に剣を向けてくる。それをサリーが身振りで追い払った。
「私の客人よ。ボスにそう伝えなさいよ」
二人の男は何も言わずに剣を引いて、しかし礼をするわけでもないまま、建物の奥へ行ってしまった。
「礼儀がなってなくて、悪いわね。こちらから出向きましょう」
こうして、事情が何も飲み込めないまま、俺とモエは山賊の根城に踏み込んだのだった。
(続く)




