4-10 帰還
「王都を出る?」
シタロの私邸で、時間は夜だった。季節は何度目かの春。
奥の私室で、僕はシタロと向き合っていた。
「ちょっと待ってくれ、カイ。騎士学校を卒業して、これからじゃないか」
派遣武官の任務を四年続け、僕はその期間で騎士学校を正式に卒業した。配属先は王属兵団で、数週間後には正式に配属が決まるけど、既に内々に、王属兵団の教導隊に配属されると知らされていた。
「それは、剣聖候補生は、ほとんどが近衛騎士団に配属されるが、きみの配属先もそれに劣るものではない。何歳だったかな、二十三か? 教導隊では最年少だぞ」
「それでも、お暇をいただきます」
重々しい溜息を吐いて、シタロがこちらを睨みつけてくる。
「私たちはまるで、きみの踏み台だな」
「申し訳ないのですが、私はシュタイナ王国の力になることができません」
「旅に出て、どこへ行く?」
答えは決めてあった。
「パンターロへ戻ります」
「馬鹿な!」
心底から呆れたように、シタロが言った。
「お前は自分の立場が分かっているのか? お前はあまりにこの国のことを知りすぎた。そう易々と国外に出ることはできん。追っ手がかかるぞ。それも、お前を切る追っ手だ」
「覚悟の上です」
椅子にもたれかかったシタロの表情に悲壮なものがあった。
「私は、お前にとって何なのだ?」
「恩人です」
「その恩人に、この振る舞いか。呆れて物も言えない」
頭を下げ、僕は退室しようとした。
「死ぬ気か? カイ」
「いきます」
部屋を出て、一度、与えられている兵舎に戻り、身支度をした。深夜に抜け出し、そのまま王都を出た。
寒さが気にならないのは、育った環境のせいだろう。
長い時間を過ごした王都のことを思い出しつつ、それを振り払うように歩を進めた。
二日間、歩き続けたところで、背後に馬の蹄の音を聞いた。
「カイ! どこへ行く!」
リーだった。彼はもう近衛兵になって長い時間を過ぎている。腕は落ちていないだろう。
しかし彼を追っ手に差し向けるのは、シタロの作戦だろう。
僕がリーを切れないと思っているのだ。それも技や力が足りないのではなく、情に負けて切れないと思っている。
甘いことだ。
馬から降りて僕と向かい合ったリーの方こそ、動揺しているようだ。
「なぜ逃げる? 今なら間に合うと剣聖様もおっしゃった。帰ろう!」
「それは無理だ。僕は、帰るよ」
「帰る? 王都がお前の帰る場所だ!」
僕は無言を通した。
ゆっくりと、リーの方から剣を抜いた。僕の剣はまだ腰の鞘にある。
ただ棒立ちの姿勢で、僕はリーと向かい合った。
「カイ! きみを切りたくない!」
僕は無言。
既に勝負は始まっている。
馬がかすかに鼻を鳴らす。蹄が地を打つ。
もうお互いに無言。
わずかにリーが動いた。
僕は自分でも感嘆するほど、完璧に対応できた。
密かに磨いてきた、居合術。
五線譜の歩法の応用。
雷光の抜きの、僕なりの進化系。
二人がすれ違い、僕は刹那で閃かせた剣を、腰の鞘に差し込んだ。
振り向く僕に対して、リーは動かない。
いや、崩れるように倒れた。
何も感じないかと思ったけど、思い出したことがあった。
居合を初めて教えてくれたのは、モエだ。
彼女にどれだけ近づけただろうか。
馬の手綱を取って、飛び乗った。そのまま馬を走らせ、先を急いだ。
国境地帯に近づくにつれて、すでに知らせが行っているのだろう兵士たちが、ギョロギョロと目を光らせ始める。馬を乗り捨て、街道を外れて、手入れのされていない森の中に分け入った。
何週間も経つそのうちに森は傾斜がきつくなり、そのまま山岳地帯になる。
一番危険だが、一番安全と考え、シュタイナ王国とアンギラスの国境地帯の中でも、一番高い山を利用して、国境を突破する。
アンギラスでシュタイナ王国の服装は怪しまれるので、適当な村で、勝手に干してある洗濯物を拝借した。
着替えて、さらに先へ進む。農民が立派な拵えの剣を持っているのも怪しいので、藁の束で包んで隠しておいた。
ハラトがいる宿場のことは考えなかった。もう過去に過ぎ去っている。
食べ物は春なので、適当な畑で盗むことができた。見つかりそうになったら、必死に走った。
剣で脅したりして奪うのは、絶対に違う。もちろん、盗みも違うが、必要悪と言い聞かせた。
そのまままた山岳地帯へ入り、ここを越えていけばパンターロの領内に入る。
全くの偶然だったが、山の中でパンターロへ向かう商隊と遭遇した。彼らは休憩中で、山の中から突然に現れた僕に唖然としていた。泥まみれ、埃まみれ、垢まみれだから、当然か。
「なんだ? 人間か?」
商隊は十人に満たない数で、荷車も二つしかない。
「食べ物をわけてくれますか?」
そう言っただけで、彼らは自然と僕の手元に芋のようなものを放ってきた。生ではなくて、蒸してある。冷えていたが、上等と言える。
「すごい身なりだな。まるで地中から出てきたみたいだ」
彼らのうちの一人がそういうと、仲間で笑い始めた。
彼らは水も分けてくれた。
「で、原始人のあんたはどこへ行く?」
リーダー格の男が、なんとなく馴染んでしまった僕に訊いてきたので、
「パンターロに知り合いがいます」
と、答えた。彼は何かに気づいた表情で、もう一個、芋を放ってきた。
「お前さんのアンギラスの言葉には訛りがあるな。元はパンターロの出だから、知り合いがいる、などと言う。そうだな?」
「ええ」
彼はにっこり笑って今度は水筒を投げてくる。さっきは一口の水だった。
「俺たちのためにちょっと働け」
「何をすればいいのですか?」
「通訳だ」
通訳。そうか、そういう職業もあるのか。
それから彼らの仲間に加わって、途中で見つけた小川で体を洗ったり服を貰ったりして、だいぶ僕も文明人に戻った。
商隊は国境を越えて、パンターロの小さな集落に到着した。
僕は彼らと住民の間に立って、通訳をこなした。どの程度の儲けが出るのかはわからなかったけど商隊の連中が大喜びだった。
それからさらに二つの集落を巡って、荷車の荷物は全部、硬貨に変わった。
「これで俺たちは帰るが、どうだ、一緒に来ないか? 俺たちは大歓迎なんだが」
そう商隊のリーダーが声をかけてくれたけど、僕は断った。
「そうか。あんたの幸運を祈るよ。ありがとうな。これが報酬だ」
ぽいっと小さな袋を投げてくる。まるで芋や水筒を投げるような素振りだったけど、中身が違う。
返そうとしたけど、彼らはのらりくらりと誤魔化して、去ってしまった。
パンターロの山は、どこか他の山と違うな、と思いつつ、僕は故郷を目指して歩いて行った。
金があるので、食料には困らない。季節は夏で、野宿も問題ないけど、肉食動物には注意だ。
どれくらい歩いたのか、記憶にある光景が目の前に広がり、唐突に自分の位置がわかった。
両親の元へ行くべきか、ミチヲの元へ行くべきか、迷った。
でもまずは、ミチヲに会いたかった。
変な話だけど、両親に会うのは気まずかった。僕はあまりに両親から離れすぎてしまった。
両親からすれば今の僕は、まるで人じゃないだろう。
そんな僕を、ミチヲは受け入れてくれるような、そんな気持ちがしていた。
山の中を進む。梢の隙間から降り注ぐ光が、複雑な文様を描く。
何度も駆けた山を、今はゆっくりと歩いている。飛び上がった岩は、いつの間にか小さくなっている。違う、僕が大きくなったんだ。
懐かしい倒木を踏み越え、懐かしい窪地を踏み越える。
あの二本の木の間に、ミチヲの小屋が見えるはずだ。
ほら、見えた。
誰かが外へ出てくる。
何かがこみ上げてきたけど、一瞬で消えた。緊張が僕を支配していた。
でも足は止めない。小屋がはっきりと見えて、そこにいる人もよく見えた。
剣を帯びることもなく、粗末な服を着ている男性だ。髪の毛は前に見たときより、少し伸びている。
ああ、前に会った時って、いつだったんだろう? 十年は経っていないはずだ。
でも、まるで前世で会ったのではないかと思うほど、前に感じる。
ついに僕は小屋にたどり着いた。
「見違えたよ、カイ」
その一言で、心が震えた。
この声は、僕に全てを教えてくれた声だ。
「これからどうするのか、考えているかい?」
「導いていただきたいと思います」
何も考えずにそういうと、彼が微笑む。
「もう導く必要はないと思う。ただ、そうだな、教えることはあるだろう」
「僕には、何が足りないのですか?」
口元がほころぶ。
「それを一緒に見つけるとしよう。お入り、疲れただろう。ゆっくり休みなさい」
ミチヲがそう言った時、自然と涙が溢れた。
僕は、帰ってきた。
長い旅が終わったような気がした。
でも、次の旅の予感が、もう僕を包み始めていた。
ミチヲの背を追うように、僕は一歩、踏み出した。
(第4部 了)




