1-4 剣聖への道と、闇へ続く道
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「モエが? なんで?」
それが僕の素直な言葉だった。
「知らねぇよ! でも、本当なんだ!」
僕は無意識に顎を撫でていた。
幼なじみの言っていることは、到底、信じられない。
モエが、剣聖候補生になった、というのだ。
「剣聖はモエと手合わせをしたの?」
「そういう話は聞いてないけど、でも、実際に剣聖がモエの家に行っているんだ!」
僕は迷った。
「行っておいで」
声は背後、家の中からだった。
「母さん……」
振り返ると、すぐそこに母さんがいた。
「行っておいで、モエちゃんのところへ」
穏やかな声だったけど、強い意志を感じた。
その理由は、すぐに察しがついた。
剣聖候補生になれば、王都の騎士学校へ通うことになる。つまりしばらくは会えなくなる。もしくは、二度と。
「行っておいで」
もう一度、母さんが繰り返す。
僕の心は決まった。
畑に持っていくはずの荷物を全部置いて家を飛び出した。
幼なじみを置き去りにして、僕は駆けに駆けた。
トグロ村の中心にある保安官事務所が、モエの住む家でもある。
村の中心に近づくと、どんどん道に人が増え、その中心が保安官事務所だった。
トグロ村だけではなく、近くの村からも野次馬が来ているようだ。
大人たちを掻き分けて人混みを飛び出した。
そこには三人の、正装の兵士が四人ほど立っていて、無言の圧力で村人を拒絶していた。
そのさらに向こうに、保安官事務所があって、中はうかがえない。
と、誰かが出てきた。
剣聖かと思ったが、違う。背広を着た男。
どこか不快に感じる笑顔を周囲に向ける。剣聖についている官僚だろうか。
それに続いて出てきたのが、剣聖だった。
真っ白い正装の上に、深い赤のローブをまとっている。剣は確かに、銀の鞘だ。
背広の男と剣聖を四人の兵士が囲み、移動すると、村人の群れの割れていく。どうやら剣聖たちはタツヤの家に戻るようだ。
剣聖たちが見えなくなってから、村人は保安官事務所に殺到した。
僕は危うく人並みに飲まれそうになり、必死に離れた。
こうなってはモエと会うのは不可能だ。実際、保安官事務所に近づくこともできない。
剣聖が保安官事務所から出てきたということは、モエが剣聖候補生になったのは、間違いない。理由は今でもわからないけど、でも、この目で見た光景は、理由なんて無意味なものだ。
この分なら、すぐに噂が流れてくるだろう。
僕は今度はゆっくりと歩いて家に戻った。母さんは留守にしていて、書き置きもない。僕は支度をして、畑へ向かった。
母さんが、野菜の世話をしている。
気づくと僕は足を止めて立ち尽くしていて、母さんがそれに気づいて、立ち上がった。
「ミチヲ? モエちゃんは?」
「よくわからないけど」
僕は声に力が込もらなかった。
「剣聖候補生になったのは、間違いない」
「またいつか、会えるわ」
「どうかな」
僕は母さんの横に座り込み、野菜の手入れを始めた。母さんもすぐ横で、手を動かし始める。
「ごめんね、ミチヲ」
静かな調子で、母さんが話し始めた。
「こんな田舎で畑仕事をするのが、あなたの性に合っている、とは私も、お父さんも考えてはいなかったの。どうにかしてお金を作って、少しはマシな環境で、あなたに教育とか、経験を積ませたかった」
母さんの細い手はゆっくりと動く。
「でも、私は病気になって、そうもいかなくなった。お父さんも出稼ぎに出た。まさか、事故に遭うとは思わなかったけど、でももう、今更、遅いわね」
僕は視界が滲んで、強く目元をこすった。
「実はね、お金はあるのよ」
「え?」
反射的に母さんを見ていた。母さんはこちらを見ない。
「少しだけどね。こっそり貯めていたの」
「少しって?」
「本当に少しよ。王都との間を往復するくらいはあるわ」
王都までは片道が歩いて二週間だ。つまり、四週間分の食費と宿泊費があるんだろう。
今の生活からすれば、かなりの額になる。
「まだ、使わないよ」
僕は即座に答えた。母さんが目を丸くして、こちらを見た。
「モエはモエ、僕は僕だから」
「……そうね、その通りだわ」
その日は二人で夕方まで作業をして、一緒に家に帰った。
夕飯を済ませて、モエのことを懐かしむように、彼女からもらったノートを眺めた。
そろそろ寝ようかという時、控えめにドアがノックされた。母さんは疲れたと言ってもう眠っている。
僕は不審に思いながらもドアを開けた。
「モエ……」
そこにはモエがいた。恥ずかしそうな笑みを見せて、
「入っていい?」
と、小声で言った。
「まぁ、いいけど」
僕は彼女を招き入れた。お茶でも出すべきだろうか。
「いきなりだけど、明日、王都へ行くの」
お茶を出すかを尋ねる間もなく、モエが切り出した。椅子に座りさえしない。時間がないんだろう。
「そうなんだ。本当に、剣聖候補生なんだな」
少しだけモエが顔をしかめる。
「いろいろあってね」
「いろいろ?」
コクリとモエが頷き、こちらに手を差し出す。
「また会いましょう」
手を握り返すべきか、迷った。
「時間がないの」
急かされて、僕は彼女の手を握った。彼女はじっと繋いだ手を見て、何かを探るように、手を動かした。
なんだ? 何をしているんだろう?
尋ねる前に、彼女は手を離し、笑顔を見せた。
「またね、ミチヲ」
彼女はそっとドアを開けて、外へ滑り出て行った。僕は後を追おうとしたけど、彼女はきちんとドアを閉め、僕がドアを開けた時には、駆け出した彼女の背中が、どんどん闇の中に消えていくところだった。
何のためにモエはここに来たんだろう?
別れを告げに来たにしては、湿っぽくもない。
それにあの握手に、何か意味があったんだろうか? ただの握手とも思えないけど、でもどうしてそう思うのかは、はっきりしなかった。
それにしても、モエが剣聖候補生か。
まだ剣聖になったわけでもないのに、雲の上の存在になったようで、少し寂しかった。
またね、と彼女は言ったけど、もう、僕と彼女が対等の立場で顔を合わすことは、ないだろうな。
その日、僕はモエとの思い出を振り返っていて、明け方まで眠れず、そのまま眠らずに、早朝に家を出た。
村の中心部へ行くと、まだ早い時間なのに人が多い。
タツヤの家の前に行くと、大きな馬車が停まっていて、その周囲に四人の兵士がもう立っている。
その様子を遠巻きに眺める村人の中に、僕は混ざった。
しばらくすると、輿がどこからかやってきた。輿を見たのは人生で三回めだ。
輿から降りてきたのは、モエだった。質素だけど、着飾っているのがわかる。
迎えるようにタツヤの家から背広の男と剣聖が出てきて、モエを伴って馬車に乗った。
モエは僕に気付かずに馬車の中に消える。
兵士たちが引かれてきた馬に乗り、彼らに守られて馬車が動き出した。
村人たちが歓声をあげるけど、僕は無言だった。
馬車を最後まで見送るのはやめて、駆け足で家に戻った。もう昼前に近い。どうやら時間を忘れるほど、僕は我を失っていたらしい。
家に戻ると、母さんがお昼ご飯を作っていた。
「おかえりなさい」
その声には、責めるところは少しもない。
「モエちゃんは見送れた?」
「うん」
「そう」
母さんが笑顔を見せる。
「午後は午前中の分も、二人で働きましょう」
その日の夕方、不思議な来客があった。
簡素な服装の初老の男で、腰に剣を帯びていた。
「ミチヲというのは、お前か?」
僕はその男をどこかで見た気がしたけど、思い出せなかった。
「そうですけど、どなたですか?」
「私は、ラッカス」
ラッカス。
衝撃は遅れてやってきた。
「タツヤのところの……」
その男は、王都から来たという、タツヤの剣術の教師だった。
「どうして、ここへ?」
尋ねられても、ラッカスは何かに納得していないように、こちらを見下ろしている。
「とある方から、剣術の指導をするように依頼された」
とある方、というのは、タツヤでも、その親でもないんだろう。
でもこの村に、この気むずかしげな騎士を自由に使える人間なんて、いるとも思えない。
誰だ?
「手を見せろ」
さっさと用事を済ませたい、というようにラッカスが言うので、僕は慌てて両手を前に出す。
「手の甲じゃない。手のひらだ」
僕は手をひっくり返して、手のひらを見せた。
じっとそれを見据え、次にラッカスは自分の手で僕の手のひらに触り始めた。
かなり長い時間、そうしてから、頷く。
「良いだろう」
何が良いんだろう?
「どういうことですか?」
「剣術を指南してやろう。ただし、夜だ。昼間は忙しいのでね」
わけがわからなかった。
指南してやろう、って、どういう意味だ?
「よろしくお願いします」
振り返ると、母さんが頭を下げていた。ラッカスは軽く頷き、
「任された」
と、宣言する。
こうして、僕は理由も何もわからないまま、最初の師を得たのだった。
(続く)