4-4 児戯
ハラトが用意してくれた書類で、僕は国境地帯を抜けた。
シュタイナ王国は農業が盛んなので、国境になっている山岳地帯を抜けてしまうと、途端にのどかになる。
この国にも無数の宿場があるので、まずはそこで宿を取り、情報を集めた。
金には余裕があるので、すぐに働く必要はない。
この国に入って興味深いのは、剣を帯びている人が多いことだ。男性女性の区別はないし、子供でも老人でも、剣を持っている。
それだけ剣術が盛んなのだ。
試しに、道場へ行ってみることにした。ちょうどその宿場にあった道場へ、本当に気まぐれに、足を伸ばした。
道場の建物の窓から、数人の町人が中を覗いている。
僕もその横に並んで、中を見た。
木刀を使って型の訓練をしている。師範らしい男性が、十数人の門人の間を歩き回り、何かが気にくわないと、その門人を打ち据えている。
はっきり言って、拍子抜けだ。
彼らの型の動きには確かにキレがある。無駄がないし、素早い。腰も落ち着いているし、脚さばきも滑らかだ。
でもそんな全てが、僕が知っている二人の剣士とはまるで違う。
ミチヲやモエが特別なんだろうか?
「お兄さん、どこの人?」
急に話しかけられ、そちらを見ると若い町人がこちらを見ている。
「旅をしています」
アンギラスで生活していたせいで、ちょっとシュタイナ王国の言葉の発音が甘いな、と思いつつ、そう答える。彼はどうやら僕の発音で、異国人と気付いたようだ。
「どちらから? どこの国?」
正直に答えるべきか迷ったけど、言葉は工夫できても、顔は変えられない。肌の色も髪の色もだ。
「パンターロから来ました」
きょとんとした顔になった町人が、笑い出す。
「お兄さん、面白いね! パンターロなんて遠すぎるよ。せいぜい、アンギラスだろ?」
「アンギラスにもいましたけどね」
「良いね、気に入った。どこに住んでいる?」
変な質問だな、と思いつつ、部屋を借りている旅籠の名前を告げた。町人がにっこり笑う。
「そこは引払いなよ。うちに来れば良い」
「うち、というのは、あなたの家ですか?」
「他にどこがある? 一人くらい面倒を見る余地はある」
この人はいったい、どういう職業の人だろう? 不思議でしかない。顔に心が覗いていたのか、彼は道場の中を指差した。
「あの男がうちの客人よ。立派だろう?」
指差している先を見ると、小柄だが、がっしりした男を示しているようだ。動きは他の門人と大差ない。
「そして、あんたが二人目の客人になる」
「えっと、なんの仕事をすればいいのですか?」
また男が目を丸くする。そして不敵な笑みを見せた。
「アンギラスではどうだかしらないが、シュタイナ王国では剣士の面倒を見るのは、一つのステータスよ」
ステータス? 剣士を囲っていると、箔がつくということか。
どうやら自分が養ってもらえる、と判断して、僕はしばらく道場の稽古を見ていた。
数十分で終わって、解散になった。町人と一緒に、例の男を待ち構えた。
男が身支度を整え、ちゃんと腰に真剣を帯びてやってきた。
「先生、お疲れ様です」
町人が言うと彼が柔らかな笑みを見せた。
「お仕事はいいのですか? 旦那」
「妻がやっとりますよ。一杯、どうです?」
「お付き合いしましょう。そちらの方は?」
彼がそう言って、こちらを見る。町人が笑う。
「俺としたことが、名前も聞いちゃいない。俺はマツバ、お兄さんは?」
「カイと言います」
僕が頭を下げると、剣士の方の男が頭を下げた。
「私はカンバ。マツバさんにお世話になっています」
こうして話してみると、カンバという男は、見た目以上に落ち着いているようだ。年齢は僕よりかなり上かもしれない。
三人で小さな料理屋へ行き、昼食になった。マツバが酒を飲み、カンバも少しだけ酌を受けた。昼間から酒を飲むのは意外だ。僕は飲まなかった。
食事が済んで、やっとマツバの店というところに着いた。
そこも料理屋で、しかし建物は三階建てだった。土地は狭いから、縦に伸ばした印象。一階と二階が店舗らしい。昼間なので、もちろん、営業している。
「帰ったぜ」
そんなことを言って店に入ると、店員たちが返事をする。もちろん、客は大勢いる。びっくりするほど盛っていた。
「うちは安くて美味くて量が多い。客が来るのは当たり前さ」
そんなことを言って、奥へ入っていく。
三階で生活しているようだが、その前に一階の調理場に寄り、そこにいる若い女の肩を叩いて、振り向いた彼女に何か身振りをしていた。言葉はない。彼女は微笑んで頷く。
「奥方はアトという名前で、聾なのです」
聾、というのは、つまり、耳が聞こえないのか。
マツバとカンバと三人で三階に上がり、マツバは僕に貸す部屋を片付けると言って、どこかへ行ってしまった。
部屋にカンバと二人になると、彼が少し感情の見える瞳でこちらを見た。
「どちらから来た方ですか? 北方のようですが」
「パンターロです」
「パンターロ? あの国で剣術の修行をしたのですか?」
「ええ」
詳細を伝える必要もないと判断して、短く答えた。
僕はカンバの実力を考えていた。あの道場での型を繰り返す動きが、果たして実戦でどれだけ役に立つのだろう? そもそも、彼は実戦を経験しているのか。
「人を切ったことがありますか?」
「え?」
意外なことを聞いたつもりもなかったけど、カンバは驚いたようだ。
「人を切ったことなど、ありません」
「え?」今度はこちらが声を上げてしまった。「剣士ではないのですか?」
うーん、とカンバが唸る。
「あなたの国ではどうだったか知りませんが、シュタイナ王国では剣術が奨励されても、人殺しは重罪です」
どうも僕の感覚が大きくズレているようだ。
「何のために剣術を習っているのですか?」
「自分の心を高めるためです」
全くわからない理由だった。
心を高める? ミチヲがいつか、疑問視した要素だろうか。
我ながら無茶な理屈だと思ったけど、人を実際に切れば、何時間、何日、何ヶ月、もしくは何年もの稽古よりも、はるかに心を高めることができるのでは、と僕は考えていた。
途端に目の前にいるこの剣士が、つまらない存在に見えた。
ただの人形のようなものではないか。剣術という形に操られる、それだけの存在。
彼が振るっている剣に、意味があるのだろうか。
黙り込んで向かいあっているうちに、マツバが帰ってきた。僕たちの雰囲気を不思議そうに見たようだけど、彼は明るい声で、僕を、片付けたばかりの部屋に連れて行ってくれた。狭い部屋で、埃っぽいけど、その空気も開け放たれた窓からの新鮮な空気と入れ替わっていく。
「じゃ、カイ殿、旅籠から荷物を持ってきておくれ。今日からは食事も風呂も、うちで面倒を見るから」
「本当にいいのですか?」
尋ねると、マツバが豪快に笑う。
「良いんですよ、先生。いつか先生のお名前が世に轟けば、俺も鼻が高い。俺を助けると思って、剣術に励んでくださいよ、お願いですから」
剣術に励む。
とても返事をできる気持ちではなかった。あの道場の様子を見れば、少なくともこの宿場の剣術は、児戯に等しいとしか思えなかった。
それをマツバに伝えるわけにもいかず、曖昧に頷き、とりあえずは旅籠へ荷物を取りに帰った。
旅籠の人は不思議そうな顔をしていたけど、適当な言い訳で店を出た。荷物と言っても、とても少ない。マツバが与えてくれた部屋は広くはないけど、狭く感じることもない僕だ。
夕方に呼ばれて、三階の広間で食事になった。
「カイ殿は」食事の間にカンバが声をかけてくる。「人を切ったことがあるのですね?」
その言葉に、ポロリとマツバが食器を落とし、料理が床にこぼれた。
「本当ですかい? カイ先生」
僕は食器を置いて、堂々と答えた。
「それが剣の道だと思っています」
マツバの顔から血の気が引き、カンバは怒りに顔を赤くした。
「人を殺さないのが、剣の道でしょう」
怒りながらも、カンバは冷静な口調で言った。僕は顎を引いて、返事とした。
「人を殺すのは、逃げです」
逃げ? 僕の心に、わずかな揺れが起きた。
彼の理屈は分からなくはない。剣術を磨き、相手を殺さずに制する、それが理想だ。だから殺してしまうのは、その理想に反している、だから、逃げ、という認識になる。
ただ、僕の感覚では、相手が殺意を持っている場面で、理想にこだわるのは、馬鹿げている。
命のやり取りをしてるのだ。精神や思想の崇高さを競っているわけではない。
「勉強させていただきます」
僕がそういうと、カンバはやはり怒りを燃え上がらせたようだけど、何も言わなかった。
マツバは、青い顔で、床に落ちた料理を見て、
「ああ……」
と、呟いた。
(続く)