4-3 さらに先へ
襲撃者を切ってから、季節は移り変わり、冬になった。アンギラスは大陸中部なので、パンターロよりはだいぶ暖かいし、雪で交通が麻痺することも少ない。
あれ以来、二人の男を切った。どちらもハラトを狙った剣士で、もちろん、ハラトは怪我を負うこともなく、立ち合った僕も無傷だった。
命を狙われている当のハラトは少しも気にした様子もない。ただ、国家警察の隊員はいい顔をしない。
こうなってみると、パンターロがよほど平和だったとわかる。少なくとも、アンギラスでは剣が実際に血にまみれる場面が、あるのだから。
何度か、街中でも刃傷沙汰を見た。大抵、犯人は逃げてしまう。国家警察も追跡するようだけど、見つかるのは稀なようだ。それだけ、アンギラスには闇がある。
闇といえば、サヤバの本当の仕事を見たのは、冬の寒さが一番、厳しい頃だった。
ハラトに命じられて、その夜だけ、サヤバと行動を共にした。と言っても、彼女はまるで別人にしか見えない化粧と服装で、例の娼館の前で僕と合流し、そのまま無言で、歩き出した。
どこへ行くのかと思ったら、その宿場で最近、人気が出始めている呉服屋の店主の家で、僕は路地にある裏口の外で待つように言われた。寒さが気になったけど、パンターロのことを思い出せば、何のこともない。
人気が全くなく、静かだ。まるでパンターロの山の中に思える。そんな中にじっと、立ち尽くしているしかない。
店の中に入ったサヤバがいつ出てくるのかと思っていると、ものの一時間で出てきたので、驚いた。
服装も髪も化粧も、少しも乱れていない。
彼女はこちらをちらっと見て店から離れていく。何となく、少し距離を置いて、彼女の後姿を追う。
かすかに香水の匂いが漂うけど、どこか前とは違う。
「軽蔑するだろうね、私の仕事に」
仕事、という言葉が何を指すか、すぐには理解できなかった。
娼婦としての仕事、ということではないな、と、口調でわかる。では、別の仕事?
ふわりと流れてきたその匂いで、理解が追いついた。
「暗殺、ですか?」
本当にかすかに、彼女から発せられているのは、血の匂いだ。ただ、人を切った後のような生臭い匂いではない。だから、暗殺、という言葉になった。
「ハラトさんの指示ですか?」
「あの方は絶対よ。誰も逆らえない」
距離があるので、サヤバの声はギリギリ聞こえる程度だ。その調子には、怒りも憎しみもない、乾燥した何かが含まれている。
「何人目ですか?」
知りたくもなかったけど、僕は気にはなったんだろう。サヤバはとても人を殺すようには見えないから。
そう、それはまるで、ミチヲが殺気を消すように、サヤバには殺気がないのだ。
「忘れたわね」
「長いのですか?」
「十代の時からよ」
彼女の年齢はよくわからないけど、二十代だろうから、すでに十年近く、闇にまみれていることになる。
「後悔はしてないし、これからもしないでしょう。この話も、ただの気まぐれ。あなたの反応が見たかっただけよ」
立ち止まってサヤバがタバコを懐から取り出した。マッチで火をつけ、その明かりが少し強くなる。歩き出さないので、僕は彼女の後ろで、やはり足を止めている。
「あなたはどこへ行くのかしらね、カイ」
彼女はこちらを見ていない。顔はわずか上を向いている。そちらを見ると、夜空に星が見えた。僕には星の知識はそれほどなかった。方向を知るのに使える程度で、星座というものは知っていても、詳しくない。
僕はどこへ行くのか、それは僕自身にもわからない。
ただ、ミチヲはシュタイナ王国へ行け、と言っていた。
それをここで口にすることもできたけど、僕にはそれは言えなかった。
どこかに、サヤバが僕をここに置いておきたいと思っている気が、したから。
「行きたいところへ行きなさい、あなたにはその権利がある」
権利。気軽な言葉じゃないな、と僕は思った。
だって、僕は何人もの人を切って、その人の権利を激しく、決定的に破壊してきた。
そんな僕に、どんな権利がある?
……そうか、サヤバも同じかもしれない。
彼女も人の命を奪って、生きている。
彼女は、自分にないものを、僕の中に見ているのかもしれない。
何気ない様子で歩みが再開され、僕たちはハラトの旅籠に帰り着いた。サヤバは報告のために奥へ行き、僕は自分の部屋に戻った。
翌日の夜、ハラトが定期的に通っている娼館へ行き、そこで一瞬、サヤバを見かけた。彼女は昨日と違い、化粧もいつも通りで、服装も地味に映った。
例の呉服屋の主人は、病気で急死した、という噂だった。もちろん、サヤバのことは誰にも知られていない。
それから一週間ほどが経った頃、ハラトの仕事部屋で昼食になろうかという時、「こちらへ来なさい」と呼びかけてきた。机に歩み寄ると、封筒が差し出される。
「その中にシュタイナ王国との国境地帯を抜けるのに必要な書類が揃っている。身分証もだ。途中で止められることはない」
封筒を前にして、ハラトを見た。彼は穏やかに笑っている。
「シュタイナ王国へ行きたい、そう前に言ったね? 剣士はシュタイナ王国を特別視する。君もじゃないかね?」
「いえ、それは……」
答えに迷う自分が、不思議だった。
「しかし、あなたの護衛は誰が行うのですか?」
「それはまた人を探すさ。君はここでの経験で、成長したと私は見ている。その成長より先の成長は、もうここを必要としない。新しい環境で、新しい人間に会いに行きなさい」
どう答えていいか、わからない僕に、まるで背中を押すように、すっとハラトが封筒をこちらへ押す。
「嫌かな? ここにいたいか?」
それもまた、わからない。
「君は何歳になる?」
「十八です」
「そうか」ハラトの笑みに優しさが滲んだ。「その年齢が、冒険のできるぎりぎりだよ。これは実体験でもあるし、多くの若者を見てきたから、知っている」
その日は結局、封筒を受け取らずに、仕事が終わるまで考えていた。
一晩が過ぎると、自然と決意が固まっていて、僕は朝、仕事部屋にやっていたハラトに頭を下げた。
「書類を、ありがたく頂戴します」
その答えを知っていたかのように、軽くハラトが頷く。
「いつ出るね?」
「すぐに出ます。明日、よろしいですか?」
部屋に入ったハラトが窓際へ行き、外を見る。
今日は天気がぐずついていた。
「雪が降るけど、行くのかね」
「雪には慣れています」
そうか、とこちらを振り向いて、嬉しそうにハラトが笑う。
「君と出会えたことを何かに感謝したいよ」
「こちらこそ、お世話になりました」
「また会える日を楽しみにしている。他に私にできることは?」
「十分、お世話になりました」
うん、と軽く頷いて、ハラトは仕事を始めた。
その日の夜、二人で食事をして、しかしハラトは言葉すくなだった。そして少しだけ、酒の量が多かった。
旅籠で荷造りをして、休んだ。
翌朝、朝食を食べていると、初めてのことが二つあった。
一つは、食事が来た直後に、サヤバがやってきた。
「これを持って行きなさい。薬よ。荷物になるかしら?」
小さな包みを、僕は礼を言って受け取った。サヤバは短い別れの言葉の後、去って行った。
ほとんど入れ違いに、ハラトもやってきた。彼とこの時間に会うことは初めてだった。
「気をつけて行きなさい。手紙を待っているよ」
「はい。お世話になりました」
「これが今までの謝礼だ。受け取りなさい」
いつか、ミチヲが僕に渡したのとそっくりの、小さな袋をこちらに押し出した。
ハラトの元で働くことで得た賃金は、可能な限り貯め込んでいた。どこへ行くにしても、金は必要だと痛感していたこともある。
だから、ハラトからの謝礼という名の金を、僕は深く一礼してから、受け取った。
仕事があるから、とハラトも部屋を出て行き、一人で食事を終え、支度を終えた。
顔見知りの女中が僕に気づくと、目を丸くして、しかし笑顔で見送ってくれる。
朝の通りに出ると、人々が活動を始めていた。ハラトが言っていた通り、雪がちらほらと舞い始めていた。
僕は旅籠の建物を一度、見上げてから、歩き出した。
シュタイナ王国へ行こう。
そこで何かに出会えるはずだ。
(続く)