3-10 旅立ち
数日を小屋の中での作業で過ごした。
とても何かを話す気になれず、ミチヲも黙っていた。
「人の心を捨てた、と言われました」
一週間ほどして、やっとそう言うことができた。ミチヲは頷いて、「そうか」とだけ答えた。
沈黙が戻ってくるけど、それはまるで僕を責めているように感じられた。
「人の心、とは何ですか?」
思わず尋ねたけど、返事まで少しの間、また沈黙。
「傷つく心のことだと思う」
そんな返事だった。
「カイ、お前は誰かを切った時、何か感じたか? 何を感じた?」
「それは……」
すぐには答えられなかったのは、振り返ってみると、あの時の自分が恐ろしく感じたからだった。
あの時、僕は満足感、達成感のようなものを感じていたかもしれない。
復讐できたこと、報いを受けさせたこと、そういうものを強く感じていた。
それもそんな感情が爆発したわけではない。
まるで最初から自分の中にあったかのように、少しの違和感もなく、特別なものとしてではなく、僕の心にピタッと寄り添っていた。
それじゃあ、まるで僕が本質的に、人を切る人間だったみたいだ。
「剣を持つとは、そういうことでもある」
ミチヲが草鞋を編む手を止めずに、話しているのが聞こえた。
「剣を持つと、凶暴になる人間は確かにいる。万能感のようなものも感じる。ただ、一度、それで命を奪うと、今度は逆に何もできなくなるものもいる。後悔、不安、恐怖、そういうものが抑えられなくなる。まさに、今のお前だよ」
僕は手を止めて、ミチヲを見たけど、彼はこちらを見もしない。
「そこが剣の稽古の最大の矛盾でもある。剣術は人を切るための技だ。殺人術ということになる。技が冴えれば、大抵の相手を、たとえ相手が多数であろうと、抹殺できる。だけど、剣術は意識のジレンマを解消することはない。剣術を突き詰める中で、精神性のようなものを考えることもあるが、どれほど有効かは、俺にはわからない」
「心を、僕に教えてください。先生が何を考えたかを」
「それはあくまで俺の解釈だ。聞いたところで、意味はない。俺は俺で、お前はお前だ。そこを履き違えてはいけない。人を切ったのはお前で、今、苦しんでいるのはお前の心だ。俺が切ったわけではないし、俺は苦しんでもいない」
そう言われてしまえば、どうしようもなかった。
しばらく、雪のせいで外に出ることもならず、小屋に篭っていた。
雪がある程度、溶けてきた頃に、ミチヲが一度、村へ行ってみろ、と言った。
「そういう気持ちには、なれません」
「勉強になるだろう。行ってくればいいさ。何も考えずにな」
結局、僕は小屋を出て、三日後に帰るという予定で、村へと雪を踏み分けて向かった。
もう長い間、見ていなかった景色を前にして、自分が幼少期を過ごした小屋が、前と変わらずにあることに驚いた。
小屋の中に声をかけると、記憶の中よりかなり年をとった母が飛び出してきた。
「カイ? カイじゃないの!」
父も遅れて出てきた。僕を柔らかい視線で迎えてくれる。
二人に謝罪したい気持ちでいっぱいになった。
ミチヲの指導を受けても、僕は何者にもなれなかった。そう強く感じた。
小屋の中に招き入れられ、いろいろなことを両親は僕に話した。
話が終わった頃、父が僕の腰の剣を指差し、笑顔を見せた。
「あの方が言った通り、剣を見つけたのだな」
これはミチヲが用意してくれたものだ、と答えることは簡単だった。
でも、そうはとても言えなかった。
この剣で、僕は初めて人を切った。殺してしまった。
ミチヲが用意してくれた、と口にしたら、まるで僕の行動をミチヲのせいにしてしまう気がしたから、言えなかった。
その日は夜更けまで三人で話し、翌朝になって朝食を食べた時、僕はやっと自分が両親と会っているという実感が湧いた。
このままここにいる、という選択肢を、何気なく考えた。
ミチヲを裏切るような行為だけど、ミチヲがその展開を考えないはずがない。僕が戻ってこないことも考えた上で、送り出しただろう。
食事が済んで、また話が始まった。
「剣術を生かせればいいのだがね」父がそう言って、顎を撫でる。「この国で何か口があるかな、どうだろう」
そんな父に、母は少し怒ったようだった。
「山で暮らせばいいのですよ。村で弟子を取れば、少しのお金になりますし、普段は畑や山で仕事をすればいいじゃありませんか」
「無名の剣士に、剣を習いたいものがいるかな」
「あの方の弟子なのです、問題ありません」
変な方向に話が進んでいるな、と思いながら、僕は黙っていた。
僕の剣術は、中途半端だった。何かを為したわけでもない。名を上げたわけでもない。
ミチヲの弟子で、モエの弟子、という程度の背景しかない。
そして、まだ十人程度しか、この手にかけていない。
もう人を切りたくはなかったけど、それでは何のために技を磨いたのか。
ジレンマ。ミチヲが言った通り、全てはこの矛盾に至ってしまう。
僕は剣術を修めて、何をしたかったんだろう?
「お前は誰かに打ちのめされたかい?」
急に父の問いかけが、はっきりと響いた。
「それは、先生にも、他の方にも、打ち据えられました」
「そうか。それは幸せだな」
何を言われたかわからなくて、僕は父を見た。父は笑っている。
「自分より強い人間がいるのは、幸せなことだ。最も高いところへ立ってしまえば、あとは落ちるしかない」
そんな単純なものだろうか? と、正直、考えた。
僕は半端な人間で、弱くもないが、強くもない。
それが幸せ?
まだ先へ進む、上がるべき階段がある、ということだろうか。
父はそれきり、別の話を始め、僕もそちらに集中した。
三日はあっという間に過ぎ去り、午後になって、すぐに村を出る時間になった。
まだ迷っていた。もう全てやめて、ここに留まっても、何の問題もない。
でも、父も母も、そうは思っていないようだった。母は、目元を拭いながらも、笑みを見せている。
「次に帰ってきた時は、武勇を聞かせてくれると嬉しい」
父がそういうと、母が即座に「危ないことはダメですよ」と言った。
武勇。
僕とはとても縁がないような方向だった。
両親に見送られて、僕はミチヲの小屋に向かった。
向かったけど、途中で道を変えた。わざと山の中へ分け入るように、誰も通っていないような方へ、進んでいく。
自分がどこへ向かっているかは、わからなかった。
ただただ、前へ進む。
前? 前じゃないかもしれない。
ただ進んでいるだけだ。
このまま奈落へ落ちても、構わない。そう思って、歩き続けた。
日が暮れて、寒さが厳しくなった。体が動くだけ前に進み、力がなくなると、手近な木の根元に座り込み、うずくまる。
いつの間にか意識を失っていて、目を覚ました時、周囲には雪が降っていた。日が出ている。朝だ。
でももう、動けない。
ただ雪が落ちてくるのを眺めていると、人の気配がした。
「キツネが出る季節じゃないな」
そう言って、ミチヲが僕の前に立った。
「死にたいか?」
「そうかもしれません……」
しわがれた僕の声に、ミチヲが頷いて、自分の腰に佩いていた剣を抜いた。
「なら、俺と切り結んでみろ。立て」
僕はゆっくりと立ち上がった。
のろのろと剣を抜いて、構える。
二人の動きが止まる。
雪だけが、落ちている。
気づくと、僕は何も考えていなかった。
ミチヲのことも、雪のことも、寒さも、何も感じない。
パッと何かがひらめいた時、僕は動いていた。
五線譜の歩法。
甲高い音。
鋭い痛み。
「良い腕だな」
こちらを見ずに剣を振ったミチヲの、その切っ先が僕の首筋に触れている。
僕の剣は跳ね上げられ、明後日の方に向いていた。
「殺すには、惜しい」
僕は何も言えず、首筋から剣が離れたのを、ただ見た。
「シュタイナ王国へ行け」
剣を鞘に戻したミチヲがそう言って、僕の足元に、懐から取り出した小さな袋を放った。落ちた音で、中に硬貨が入っているのがわかる。かなりの額だ。
「剣聖と立ち会ってみればいい。やってみろ」
そう言って、ミチヲは僕に背を向けた。
僕はまだ剣を手に持っている。
無防備な背中がすぐそこにある。
今ならミチヲを切れるかもしれない。
でも、そうする気にはなれなかった。
とても、切れそうにない背中だった。
彼が見えなくなってから、剣を鞘に戻した。それから足元の袋を見て、しぶしぶ、拾った。
シュタイナ王国か。
そこに行けば、何かあるのだろうか。
持ち物は、剣と金しかない。
生き延びられるとも思えなかった。
どうせ死のうとした身だ、と考えた。
なら何でもやってやろう。
投げやりな思いで、僕は歩き出した。
(第3部 了)




