3-9 失われる心
途上でのトラブルについて、モエは何も言わなかった。
いや、言ったけど、簡潔だった。
「剣を持つってのはそういうことだ」
その翌日から稽古が始まり、同時に首都での仕事も始まった。
剣を帯びることはしなかった。どこか、後ろめたいし、自分にはまだふさわしくない、と考えていた。
もう顔なじみの料理屋で、食器洗いだけではなく、接客もやる。客にも顔なじみがいて、もう友人のようなものだ。
稽古の中では、モエに最新の「五線譜の歩法」を見せることができた。
一回しか見せないつもりで、一回、披露した。
二人とも棒を持って向かい合っていて、僕がモエの側面に回り込み、彼女も和音の歩法で、やはり僕の側面へ移動していく。
でも彼女の歩法は三歩で、僕は五歩。それに勢いに差がある。
しかし、モエの側面に棒を突きつけ、彼女もこちらに棒を突きつける、という姿勢で、終わってしまった。ただ、彼女はこちらを見ていない。体はほぼ半身。
どうしてモエがこちらの動きを察知できたのか。
視界の外だったはず。
不思議に思う前に、結論が出た。
モエは今、和音の歩法とは違う、別の技術を使った。足運びなのか、別の何かはわからない。でも彼女は側面や背後を突かれることを前提とした剣技を、身につけている。
それ以降は、モエが見ている前で、一人で歩法の訓練をし、四弦の振りも確認した。
数日が経つと、モエが新しい技を教えてくれた。
雷光の抜き、と彼女は言っていた。
居合の一つで、彼女が実演してくれたけど、物凄く早い。振りも早いし、踏み込みも早い。
その全てが合致して、敵を即座に切り倒すような、そんな技だ。
僕は何度か繰り返したけど、すぐにはコツは掴めそうもなかった。
傭兵たちを相手にして、棒で動きを確認した。
相手をしてくれる傭兵の中には、僕の手探りの動きより、早い者もいる。そんな傭兵の動きも、じっと観察した。居合は今まで基礎的にしか修めていない。何か、僕が知らないコツのようなものがありそうだった。
仕事の間も、考え続けて、この居合の技を身につけることが、僕の思考のほとんどを埋めていた。
だから、店で騒動が持ち上がった時、すぐには気持ちが切り替わらなかった。
店の中で誰かが騒いでいる、と思ったら、何かが壊れる鈍い音と、食器が割れる高い音、悲鳴などが一度に起こった。
店長が慌てた様子でフロアへ行ったので、僕も後に続いた。
そこにいたのは、僕のよく知っている男たちだった。
例の何かを運んでいた荷車の用心棒たち。見知らぬ顔もあるが、雰囲気は同じだ。
一人が僕に気づいた。その手には短剣がある。
男たちが一斉にこちらを向き、突っ込んでくる。
店長が間に挟まれる形になる。僕は反射的に店長の腕を掴み、後ろへ引き倒した。
入れ替わるように先頭の男にぶつかり、腕をひねり上げ、短剣を取りこぼしたところで蹴り飛ばす。二人目と衝突。
三人目が突っ込んでくる前に、床に落ちる寸前の短剣を蹴り上げ、手元に飛ばす。
短剣を掴みながら、空いている手で三人目の腕を取り、即座に足払い、バランスを失ったところを蹴り上げ、男はそのままひっくり返った。
やっと落ち着いて、相手を見ることができた。
三人が動けないが、まだ五人がこちらに敵意を向けている。
「僕に何の用がある?」
「俺たちを売っただろうが!」男のうちのひとりが叫ぶ。「お前のせいで俺たちは破滅だ!」
売ってはいない、と説明しても聞いてもらえる感じでもない。
しかしどうやって、彼らに剣を収めさせるべきか……。
「構うことはねぇ! 手当たり次第にやってやれ!」
ひとりが叫ぶと、五人がそれぞれに動き出した。店を破壊し始める者もいるが、それは無視するしかない。店員に襲いかかる男を、止めなくては。
一人、二人と殴り倒し、蹴り倒した。そこへ二人が同時に向かってきた。
五線譜の歩法は、使いたくなかった。
でもそれ以外に、活路はない。
僕の足が複雑な動きをし、体を傾け、走った。
二人のうちのひとりを側面から殴り倒し、もう一人は背後から倒した。
一人だけ残った男は、例の頬に傷のある、リーダー格の男だ。
彼はこちらを憎悪の塊のような視線を向け、懐から何かを取り出した。
壺? 止める間もなく、彼はそれを床に叩きつけた。陶器の器は粉々になり、液体が飛び散った。
油だ!
気付いた時には、男は腰にあった短い縄を床に投げた。火縄だった。
迂闊だったとしか言えないけど、もう遅い。
床の油に火がつき、床を炎が走った。
大きな悲鳴が起こり、男たちが逃げ出す。店員と店長が火を消そうとするけど、そんなに弱い火力ではない。
「逃げましょう! 危ない!」
僕は店長を抱えるようにして、表に出た。店員たちも最終的には、店を出るしかなかった。
昨日の夜に降った雪が路上に残っていて、その白の上に赤い炎が踊っているような気がした。
近所の店の人たちの力も借りて、消火が試みられたけど、結局、店は全焼した。隣の建物まで燃え移らなかったのは不幸中の幸いだけど、しかし、そんなことを考える余裕もない。
店が燃えた理由は、はっきりしている。
僕だ。
その夜はずっと、店が燃え、焼け落ち、かろうじて消火されたのを、ずっと見ていた。
店長がすぐそばにいて、半ば呆然としている。
夜が明けて、店長は消防からの報告を聞いてから、焼け跡を検めていた。
何も残っていないとわかってから、店長は僕の方を見て、軽く顎を引いた。
「すみません、僕のせいです」
自然と口にしたけど、それで済むわけもないとわかっていた。
何もかも、僕が悪い。
店長は何も言わずに、僕に歩み寄ると、軽く腕を叩いてから、どこかへフラフラと離れていった。
僕を責めもしない店長は、本当にしっかりした人だ、とまるで他人事のように思っていた。
しばらく、焼け跡を眺めてから、僕は決意をして、部屋を借りている傭兵会社の宿舎に戻った。そこでここのところ、ずっと置きっぱなしにしていた剣を手に取り、腰に帯びた。
首都の中でも、悪人が巣食う辺りを重点的に歩き回り、情報を集めた。何年も冬を首都で過ごしているために、こういうことにも詳しい自分がいる。
二日で、例の男たちの居場所を突き止めた。首都の外周近くにある、運送会社。その寮が彼らの根城らしい。運送会社と言っても、裏の仕事を引き受けているようだ。
つまり僕が用心棒として守っていた荷物も、闇から闇へ流れるようなものだったことになる。
根城の場所を確認し、日が暮れてから、襲撃した。
抵抗らしい抵抗もなく、その場にいた八人は僕に切られた。
一人だけは軽傷で済ませ、他の仲間の有無について口を割らせてから、容赦なく命を絶った。
その場で一時間ほど待つと、聞き出した通りに、外出していた四人の仲間がやってきた。
一人は、例の傷跡のある男だ。
問答をしたりはしなかった。ほぼ一瞬で、四人を殺害し、僕は全員が息絶えているのを確認して、その場を離れた。
傭兵会社の宿舎に一度戻って、荷物を持って、外へ出た。
「人を切ってどうだった?」
玄関で、モエが待ち構えていて、そう言ったのには驚いたけど、僕は反応できなかった。
きっと今なら、何をされても平然としているだろう。
それくらい、心が何も感じていなかった。
「嬉しかったかい?」
「何も感じませんでした」
正直な言葉だった。モエは何度か頷いて、それからこちらを見た。
怒りも、嫌悪もない、平板な色の瞳。
何を考えているか、わからない。
「お前は、もしかしたら、人の心を捨てたのかもしれない」
人の心?
「私も、ミチヲも、ある時からそれを捨てた。うちの会社の連中も、そうだろう。別に特別なことではないし、きっかけさえあれば、ただの通過儀礼みたいなものになる。でも、心を捨ててからが、問題さ」
モエがこちらに歩み寄ってきて、ポンと腕を叩いた。
店長が叩いたのと、同じ場所だ。
「もう一度」
モエが僕を見る。いつの間にか、僕たちは身長がそれほど変わらなくなっている。
「人の心を拾い上げられるか、そこが問題なんだ。よく、考えなさい」
そう言って、モエは引き止めるでもなく、叱責するでもなく、去って行ってしまった。
僕は彼女の背中を見送り、腰の剣が途端に重くなったような感じを受けつつ、ゆっくりと傭兵会社の宿舎を離れた。
気づくと街道を進んでいて、しかも雪が降っている。かなり積もりそうな勢いで、旅に向いているとは言えない。
でも足を止める気にもなれなかった。
まるで逃げるように、先に進んだ。
雪を掻き分けるようにして街道から山の中に入り、ひたすら進む。
いつの間にかかなり先にミチヲの暮らす小屋が見えた。
と、彼が自然な動作で出てきて、こちらを見ている。その姿を見据えたまま、僕は小屋の前まで進んだ。
「少し、暖まった方がいいな」
何の事情を尋ねることもせず、ミチヲは僕を小屋の中に招き入れた。
変わったところのない小屋の中を見て、僕が感じたのは、自分があまりにも変わりすぎていることだった。
ここを出た時とは、僕は別人だった。
そしてそれを受け入れられそうにもなかった。
(続く)