1-3 一撃
◆
剣聖は本当に村にやってきた。
そのことを知ったのは、昼間になってからだった。小作人の中でも僕より十ほど年上の青年が、午前中に姿が見えないと思ったら、剣聖の見物に行っていたのだ。
「まるで王様だ」
お昼ご飯を食べつつ、そんな話を聞いた。
「豪華なローブを着て、服も上等さ。腰には銀色の鞘の剣を下げているんだ。あれはものすごく切れるんじゃないかな。金属でも切れそうだった」
そんなこと言いつつ、剣を抜いたわけじゃないんだな、と僕は考えていた。
僕の手元にある剣術の指導書には、剣聖についての解説もあった。
彼らは各地と定期的に回り、剣聖候補生を探している。特別な素質の持ち主が選ばれるのだが、判断基準は不明らしい。
まぁ、剣聖には何か、見えるんだろう。そんな風に僕は思っていた。
昼休みはすぐに終わり午後の作業を始める。
あれ以来、タツヤたちが僕の畑を荒らしてはいない。菜っ葉の一部は明日にでも出荷できそうだ。その収入で、二週間は生活できる。
気候は真夏に近くなり、時々、木陰に入らないと死んでしまう。
僕は畑を耕す作業が一段落し、今は畝を作っている。畑の真ん中なので、日陰がない。
いつの間にか山手に日が落ちかかり、一日が終わる。
「ミチヲ!」
突然の声に顔を上げると、モエが手を振っている。僕は手を手ぬぐいで拭い、鍬を持って彼女の元に進んだ。
「剣聖が来ているんだって?」
「そうよ。なんだ、知っているのか」
「で? どうだった? 剣聖候補生になれそう?」
うーん、とモエは顔をしかめた。
「どうかな。剣聖は剣を抜きもしないのよ」
「それはそうでしょ。特別だからね」
「向かい合いもしないのよ。村人を眺めているだけ」
僕にはよくわからなかった。
ま、一流の騎士には見るだけで力量が分かるのかもな。
それしか考えなかった。
僕はモエと一緒に村まで歩いた。
「やっぱり王都から来る人は違うわね。雰囲気というか、空気が違う」
「今日はどこに泊まるって?」
「タツヤのところよ。もう、ご両親が大喜びでね。今日は大宴会らしいわ」
豪勢だな。それだけの金があるということで、その金は小作人から巻き上げている金だ。
心の中で怒りが渦巻くのを感じつつ、村に差し掛かった。
「剣聖の一行を見たくない?」
僕は反射的に空を見た。もう真っ暗だ。
「もう宴会とやらが始まっているんじゃないの?」
「こっそりと見ましょうよ」
そんな会話をして、結局、タツヤの家の前まで来てしまった。
地主の屋敷なので、周囲をぐるりと塀が囲っている。もちろん、僕の背丈の倍くらいある。中をうかがうのは、モエが僕を肩車しても無理だろう。
「無理だね。僕は帰るよ」
僕は背を向けるところで、だから、ここで起こったことは予定外だった。
「待ちなさい」
声は落ち着いていて、どこか硬質だった。
声の方を見たのは僕よりもモエの方が先だった。そのモエが息を飲む。
僕が巡らせた視界の先に、その男はいた。
真っ白な服で、銀色の縁取りがされている。胸にシュタイナ王国の紋章がある。袖には軍人の階級を表す飾りがあるけど、僕にはよくわからなかった。
なんにせよ、この村でこんな格好をしている人間は、たぶん、一人だ。
「剣聖閣下よ」
モエが囁き、その場に膝をついて、頭を下げた。
僕がそれに倣わなかったのは、半ば呆然としていたのと、現実感がなかったからだ。
そういうわけで、自然と剣聖と僕は、正面から向き合う形になった。
「ちょっとタバコを吸いたくてね」
剣聖は言いながら、ポケットからタバコの箱を取り出すと、慣れた手つきで一本を咥える。ライターで火をつけ、その蓋がパチンと閉まった。
「空気のいいところで吸うタバコは、格別に美味い」
何を話し始めているのか、僕はわからなかった。さすがのモエも、膝をついた姿勢で、頭だけは上げている。
「小作人か?」
「はい」
やっとわかることを言われた。
「私に興味がないのか?」
「野菜にしか興味はないですね」
思わず口にしていたが、ちょっと挑戦的すぎたかもしれない。
「野菜? なるほど」
何に納得したか、不明だけど、剣聖は頷いた。
指でタバコをつまみ、煙を吐いた。
「堂々としているのは、元からか? それとも事態がわかっていない?」
「わかってない、というか、何も知りません」
「剣聖のことも知らない?」
「初めて見ました」
特に感慨もないように頷いて、またタバコを口に持って行き、その先が赤く光る。
「私と手合わせしたいか?」
意外だったけど、僕はまだ状況がわかっていなかった。
手合わせ?
「僕は一撃で首をはねられると思います」
「何も知らなくても、その程度の常識はあるのか?」
次の瞬間、剣聖の手が翻った。
反射的に、飛んできたタバコを避けていた。顔面にまっすぐに飛んできたのだ。危うく当たるところだった。
でも、そんなことを考えている暇はない。
どんな足捌きだったのか、わからない。
目の前に剣聖が立っている。
一方の僕は、まだ片手に鍬を持っていて、身構えもしていない。
何をされたかわからないまま、僕は弾き飛ばされていた。肩から地面に落ち、転がる。
勢いを利用して跳ね起きた時には、胸に激痛が走った。
かすかな月明かりの中で、僕の胸が赤く染まっている。
剣聖は今、剣を帯びてすらいない。
素手による一撃で、僕の胸は切り裂かれていた。
僕が睨みつける先で、剣聖は新しいタバコを箱から取り出す、ゆっくりと火をつけ、頷いた。
「また会おう」
そう言って今度こそ、剣聖は身を翻し、タツヤの家の門の方へ歩いて行った。
彼が背中を向けても緊張は解けず、彼が門の向こうに消えても、僕は息を吐くことができなかった。
ほとんど倒れる段階になって、やっと息が漏れた。
「だ、大丈夫?」
モエがすぐ横まで這うようにしてやってきた。
「殺されちゃうのかと思った!」
彼女は興奮しているようだったけど、僕はとてもそんな状態ではない。
僕こそ、殺されるかと思った。
全身が冷や汗にまみれている。服がぐっしょり濡れるほどの冷や汗だ。
「ミチヲ、血が……!」
触るまでもなく、深く斬られているのはわかる。
殺すつもりだったのか?
手加減されているのは、はっきりしている。
もし剣聖が本気になれば僕みたいなそこらの小僧なんて、あっさりと殺せるのは間違いない。それは剣を持っているとかいないとか、無関係だ。
実際、あの、剣聖の一撃には、死の気配しかない。
でも僕はまだ生きている。
やっぱり、手加減されたんだ。致命傷にならない程度に。
僕はいつの間にか手放していた鍬を探し、どうにか立ち上がると、それを拾った。
「ミチヲ、お医者さんに行かないと」
「お金もないし、すぐ治るよ」
そんなことを言って、僕はモエを押しとどめだ。
それでも彼女は僕の家の前まで来た。
「ありがとう、モエ。帰り道、気をつけて」
「うん、ミチヲも、あまり痛いようならお医者さんに行くんだよ」
僕は去っていくモエを見送った。
家に入ると、母さんは穏やかに眠っていた。
僕は服を脱いで、傷の様子を確かめた。
まるで剣で切ったように、パックリと傷口は開いている。
清潔な布を押し当て、常備されている包帯でぐるぐる巻きにしておいた。これで大丈夫なはずだった。
さすがに今日は剣術の稽古をする気にはなれなかった。
母さんと、自分の分の粥を作りつつ、剣聖の動きをもう一度、頭の中で再現した。
動きは予測できなかった。
前触れがなかったのだ。
歩法が独特なものだというのは、今になればわかる。その歩法に、前触れを消す理屈があるのだろう。
鋭い踏み込みと、地面を蹴る動き。
どちらも見たことも聞いたこともない、新鮮な動きだったな。
それにしても、胸を切ったのは手刀だったけど、あまりの動きの鋭さが、素手ながらあの切れ味となると、剣を持った時の威力は計り知れない。
がっちりした鎧でさえ、あの剣聖は斬って捨てるのかもしれない。
冗談ではなく、実際にそうなりそうな、思い出しても震えるほどの、動きだった。
考えに没頭していて、粥を焦がしてしまい、それで気持ちが日常に戻った。大事な食料が、無駄になったな。
母さんには無事な部分を残し、僕は焦げを中心に粥を飲み込んだ。
明かりを消して布団に入って、また痛みがぶり返してきたけど、どうしようもない。
剣聖という存在を知ってはいたけど、あれほどとは。
どうしても暗闇から飛び出してくる剣聖を、考えてしまう。
その想像の中でも、剣聖は素手だ。
その攻撃をどう防ぐか、あるいは、どんな攻撃が来るのか、それが頭の中で無限に展開し、きりがない。
いつの間にか眠っていて、目覚めると朝だった。まだ薄暗いから、早朝だ。
反射的に胸を見下ろすと、包帯に血が滲んでいるようではない。痛みも昨日よりだいぶ楽だ。これは予想よりも早く治るかもしれない。
朝食を用意していると、母さんが起き出してきた。
「具合はどう? 大丈夫?」
「ええ、ありがとう。今日はこちらから、お医者さんに行くわ」
朝食の時、よっぽど剣聖のことを話したかった。
でも話してどうなるものでもない。
畑に向かう途中で、遅れて気づいた。
剣聖候補生になったら、その立場を利用して母さんを良い療養所か、もしくは王都に連れて行けば良いじゃないか。
でもそれは、無謀というものだ。
母さんを療養所に入れることは、何の解決でもない。むしろ母さんを捨てるのに等しい。
王都へ連れて行っても、母さんはきっと、自分が息子の足を引っ張っている、と感じるんじゃないか。
決断するしかないのはわかっている。
いつか、なんらかの形で母さんとは別れるから。
でもそう簡単に、全てに対して決断できる人は、そういない。
僕はその日、雑念を振り払うように仕事をした。菜っ葉を出荷し、畝は完成した。
今日はモエも来なかった。剣聖の噂も聞かない。
家に帰ると、母さんは少し元気そうに料理をしていた。
一人で剣術の稽古をして、布団に入った。
だから翌朝、その知らせを幼なじみの一人が知らせてきた時、僕には何の心の準備もできていなかった。
(続く)