3-8 暗雲の気配
ミチヲとモエの薫陶を受けて、数年が過ぎた。
ミチヲは畑を広げて、僕が管理する土地も増えた。冬の間は首都で過ごす。もう一年をかけてお金を貯める必要もなく、宿場のどこかで適当な仕事を受けて、旅籠に泊まるのではなくその仕事をくれた人の家に泊めてもらったりして、首都までたどり着ける。
体格は自分とは思えないほどがっしりとして、背も伸びた。
最初にミチヲが教えてくれた剣の振り方は、一弦の振り、というらしい。
あれ以降、ミチヲは少しずつ僕にその攻撃技を教え、その技術が、四連撃の「四弦の振り」に発展した。
一方のモエは、冬の間だけだけど、僕の歩法の完成に尽力してくれた。
僕の体が出来上がってくると、もう傭兵たちも持て余すことになり、時にはモエですら焦りを見せる。でも僕の感覚だと、モエはまだ手を抜いている。
いつか、ミチヲとモエが木刀を持って立ち会った時の、あの時の二人は、今の僕よりももう一段も二段も上の、超高等技術を発揮していたと思う。
和音の歩法は完全に身につき、そこから先を自分で考えるように言われ、僕は考え続けていた。一人で試すこともある。
できるかな、と思ったのは、和音の歩法では二歩目で崩れたバランスを三歩目での勢いに変えるのを、もっと膨らませる、という発想だった。
つまり、四歩目、可能なら五歩目を踏み出す。
三歩目でバランスを取り戻すのではなく、さらに姿勢を乱して、転がるように足を送る。
ただ、これはすぐにはできなかった。
初めて和音の歩法を使った時のように、四歩目で足が滑ることになる。
モエもこれには呆れていて、
「和音の歩法はそれで完成されたはずだけどね」
と、言っていた。
それでも僕に指導してくれる。
そんな具合で、僕は徐々に剣士としての道に踏み出し、さらに先へと歩き、いや、走っている。
ミチヲの小屋で迎える何度目かの夏に、ミチヲの小屋に初めて顔を見せた来客があった。
初老の男性で、ミチヲとは懇意のようだった。何かの荷物を背負っている、と思ったら、その中から、剣が出てきた。
老人から剣を受け取ったミチヲが、その刃をじっと見つめ、角度を変えて、さらに眺めた。
買おう、というと老人がうやうやしく剣を受け取り、水をもらいますと断ってから、その場で研いでくれた。研ぎ終わった剣と交換するように、ミチヲが小さな袋を手渡した。
どれくらいの額を払ったのかもわからないし、どうして老人がここへ来たのかもわからない。
それに、この剣は誰が使うんだろう?
礼を言って老人が去った後、ミチヲが手に入れたばかりの剣を僕に差し出して、これにはかなり驚いた。
「とりあえずは、これを使えばいい」
「え? 僕の剣ですか?」
「いつまでも木刀を振るっていても仕方ない」
恐る恐る、剣を受け取る。想像よりも軽い。
外に出て、鞘から抜いて掲げてみた。やっぱり軽い。
何度か素振りして、風を切る音を心地よく聞いた。
その翌日から、ミチヲも自分の剣を出してきたので、さらにびっくりした。
彼の剣は見るからに古びているけど、光を受けるその刃は、背筋が冷えるような色味を帯びている。
剣を取り出してミチヲがやったことは、向かい合うことだけだ。
二人で剣を構えて、向かい合う。これがものすごく疲れる。
ミチヲが僕を切るはずがない。身動きさえしない。
なのに、まるで次の瞬間に切り捨てられそうな、そんな気配がある。
この気配、静かな気迫のようなものを受けて、気づいたことがあった。
普段のミチヲからはその気配が少しもしない。理屈ではないけれど、ミチヲは剣を抜いた時だけ気迫を発しているのではなく、剣を持たない時には気迫を隠しているのではないか、と僕は考えた。
そう考えると、普段の僕はどういう状態なのか、気になった。
でもそれを理解するような鏡はない。
自分は自分では見えない。
見えないはずだけど、ミチヲにはできる。
僕にもできるのだろうか。
剣を受け取ってから数ヶ月、ひたすら素振りを続け、剣が手に馴染んだ。秋になる頃には、まるで腕の一部のように振るうことができた。
森の木々の葉が色づいて、ひらひらと落ちてくる。
たまに気まぐれに、僕はその木の葉を切った。
でもすぐに気づいた。木の葉が落ちてくるのは一枚一枚がまったく違う動きをするようで、どこか共通している。
落ち葉を切ることは、見世物にはなる。
でもきっと、実戦では役に立たない。
冬になって、僕は何度目かわからない首都への旅に出た。
宿場の一つで、妙な事態になったのは、僕の想定から外れすぎていて、咄嗟に反応できなかった。
僕が剣を帯びていたからだろうけど、用心棒を頼まれた。
それも、二つ先の宿場までの荷物の輸送の護衛だった。依頼してきたのは中年の男で、頬に切られた古い傷跡がある。男の連れにさらに二人の男がいて、どちらも強面だった。
ここで断ればよかったのに、僕は、どうしてもその宿場に行くのだし、と彼らの依頼を受けてしまった。
翌日には荷車を引き連れて出発し、街道を進む。
何事もなく一日目が終わり、宿場に着いた。
ここで事態が激変した。
パンターロの国家警察が乗り込んできて、警察が剣を抜いたがために、斬り合いになった。
この時に僕を雇った男たちがどうなったかわからなかったのは、僕が荷物をまとめてさっさと逃げたからだ。
夜の街道を走りに走り、目的地の宿場も駆け抜け、一日で二日分の行程を走った。
結局、国家警察も追跡してこなかったし、僕を雇った連中も現れない。
じっとしているのも落ち着かず、僕は素早く首都へ向かった。
首都に辿り着く前の夜、旅籠の部屋で夕食を食べていると、激しい足音がして、人の気配が近づいてきた。
思わず立ち上がった時、ドアを蹴破って、一人の男が飛び込んでくる。
頬に傷跡のある、例の男だった。もう剣を抜いていて、意味不明なことを喚きながら、飛びかかってくる。
僕はとっさに和音の歩法で瞬時に彼の側面に回り込み、腕を取って相手の勢いそのままに投げた。
背中から床に墜落した男を組み伏せ、さて、どうしたらいいのか、ここで考えた。
男が喚き続けるので、しかたなく、当身で気を失わせた。この技は傭兵たちが教えてくれた。もちろん、遊びの一つとして、だけど。
旅籠の従業員がやってきたので、仕方なく嘘をついて、僕はこっそりそこを出た。
夜が明ける前に首都に着き、自分の息が白いのを眺めながら、傭兵会社の建物の玄関で、誰かがやってくるのを待った。
「あら、今日は早いのね」
受付嬢が一番最初にやってきた。初めて首都に来た時に会った受付嬢はもう結婚して仕事を辞め、この受付嬢は僕の中では二代目の受付嬢だ。まだ若い、というか、幼い。もちろん、傭兵会社では最年少だ。
僕は言い訳をして、彼女と一緒に建物の中に入った。
来客のための待合室で待っていると、モエがやってきて、僕をじっと見た。
落ち着かないけど、平然を装って、彼女と握手した。ここのところ、首都に来ると握手していた。理由はもう忘れた。
でも今回ばかりは、この握手はしない方がよかったかもしれない。
「何に怯えている?」
握手した手を離さないまま、モエが僕を見据えた。
「いえ、怯えてはいないのですが……」
「そうか?」
唐突にモエが僕の手を引っ張り、投げ技をかけた。合気、とか呼ばれる技で、これも遊び程度に傭兵たちに教わっていた。
しかしモエの動きは本気のそれで、僕の体はまるで重さがないように豪快に宙に舞い、肩から床に叩きつけられた。
「正直に話しなさい」
目を白黒させている時間もない。
僕は正直に、洗いざらい、話していた。
(続く)




