3-7 雌伏の時
春になるまで、モエは頻繁に僕の相手をしてくれた。
どうも傭兵会社の仕事は雪が解けないことにはそれほど多くもないらしく、傭兵たちの多くがやっぱり僕を可愛がってくれた。
結局、和音の歩法は完成せず、成功確率は十回に一度にしかならないまま、首都を離れることになった。
そう、路銀がないのが問題だったけど、びっくりすることにモエは僕に、働くように指示してきた。
いきなり仕事を探すのは難しいと思ったからか、首都にある料理屋の厨房で、食器を洗い続ける仕事を探してくれて、僕はそこで昼間と夕方から夜にかけて、働いた。店長が専用の台を作ってくれて、それでやっと流し台に手が届いた。
店長も店員も純粋なパンターロの人間なので、語学の勉強にはならないけど、感じるものがあった。
村にいた時とは違う連帯感が、店の中にはある。
生活を共にしているわけではないし、村には希薄だった上下関係のようなものが、この料理屋にはある。店長が偉くて、次が副店長、といった具合に兵隊で言えば命令系統がしっかりしている。
それと同時に、経営者である店長と、他の従業員の関係も、興味深いものがある。
信頼関係で結ばれてもいるけど、同時に金銭で結ばれてもいる。ただ、それだけでもないとも感じる場面がある。
店員は自分の給金が上がるわけでもないようだけど、客にサービスして、店の売り上げに貢献しようとする。
自分の利益に直結するわけでもなさそうだけど、どういうことだろう?
これが集団というものの本質かな、などと考えつつ、でもよくわからないまま、僕は皿を洗いまくった。
そんな仕事のない時間が稽古の時間で、モエが相手をしてくれるのは午後だ。午前中は傭兵たちとやりあう。
和音の歩法は、モエ以外に習得している人がいないので、傭兵たちのアドバイスや意見は聞かなくていい、とモエに念を押された。
どうも変な癖がつかないようにしてくれたらしい。
傭兵たちはそれでやる気になったのか、僕が和音の歩法に失敗すると、容赦なく打ち据えてくる。そのおかげで、姿勢が乱れたときの対処法が逆に身についたくらいだった。
モエとの訓練では、彼女が繰り返し、単純な和音の歩法を見せてくれる。
僕とは全く違う、超高速の歩法で、気を抜いていると突然、掻き消えて見えるほど速い。
人間業とは思えないけど、実際にモエは人間だ。
彼女の方針としては、和音の歩法と呼ばれていても、習得の仕方は人それぞれだし、細かな力加減やバランスの取り方は、個人差がある、という点に立っている。
僕が自分で繰り返し体を動かし、またモエが実際に動いているところを観察できるだけ観察し、それで自分なりの技を身につけろ、ということだ。
そんな具合で二ヶ月が過ぎ、いよいよ首都を離れる日が来た。
「あまり金を使いすぎないように」
モエはそんなことを言って、僕を送り出した。
数ヶ月前の自分とは全く違った気持ちで、僕は首都を離れて、街道を進み、やがて山の中に分け入った。ミチヲのいる小屋に戻れるか、その道筋を覚えているか、ちょっとだけ不安だったけど、それは杞憂だった。
すぐに見覚えのある場所を見つけ、全体像が把握できた。
奥へ奥へと進み、ミチヲの住んでいる小屋が見えた。僕が声をかける前、足音も届かないくらいのところに達した時には、ミチヲはふらっと外へ出てきた。
彼の前に立つと、少し彼の背が縮んだ気がした。
「ただいま、戻りました」
「いい生活をしてきたようだね」
「みなさんにはお世話になりました」
うん、と頷いて、ミチヲは僕の頭を撫でた。ちょっとだけ嬉しい。
それから料理の当番を確認して、次に、畑の状態などを教えてくれた。もうミチヲがあらかた仕事を片付け、夏になる前に収穫できる作物も芽が出ているという。
なんだか、違う世界に来たようだった。
ついこの前までは料理屋で食器を洗って生活していたようなものなのに、今度は農民の生活だった。
どちらが自分に合っているのか、ぼんやりと考えた。
その日はしっかり休んで、翌日からは前と同じで生活が始まった。朝には山の中を駆け回り、食事の後、畑の手入れをする。そうでなければ、猟に出る。昼食が済めば、昼寝の時間。自然と目が覚めて、体作り、そして素振り。
変わったのは、夕飯の後、ミチヲが座学と交互に、剣術の稽古をつけてくれることだ。
ただ、和音の歩法については、教えてくれなかった。
どうもそのことは手紙でモエが知らせていたらしく、ミチヲは一言だけ「足捌きは自分で考えなさい」と言って済ませてしまった。
なので、この剣術の指導は、剣の振り方を主に教えてくれる。
「これが基礎の基礎だ」
ヒュンとミチヲが木刀を振る。あまりに速い。
「体の筋力と関節、あとは重心の移動で、この速度を出す」
簡単に言うけど、すぐにできるわけもない。
「繰り返し見せるから、よく見ているといい」
そう言って、何度も何度も、ミチヲは木刀を振って見せてくれる。
そのうちに見よう見まねでやってみるけど、手応えさえもなかった。ミチヲが僕の腕を掴んで、教えてくれたりもした。
この振り方の稽古とは別に、一人で和音の歩法を練習した。踏み込みの数を数えていないけど、こちらは少し、まともになった実感がある。
そんな具合で、もう寝ようとミチヲが言うまで、僕は稽古をしていた。
季節が巡って、夏になり、秋になった。そして冬が来る。
「首都へ行ってもいいですか?」
初めて雪は降った日、僕はミチヲにそう尋ねていた。
彼は穏やかな表情で、軽く頷く。
「しかし、今回は行きの路銀は工面しない」
えっと、つまり、どうしたらいんだろう?
黙って考えていると、ミチヲは笑っている。
「考えてみるといい。行けると思ったら、また言いなさい」
その日は組紐を作る間も、昼過ぎに横になった時も、夕方の稽古の時も、ずっと、首都へ行く路銀の工面について考えた。
答えらしいものはすぐ浮かんだけど、とても無理そうなので、口にできなかった。
ただ、他に道もなさそうだと思って、寝る前に、ミチヲに話した。
「働きながら、首都へ向かいます」
「働く?」ミチヲは微笑んでいる。「子どもにどんな仕事ができる?」
そうか、この前はモエが紹介してくれたから、料理屋で働けた。
今度はそういう手助けはない。
「やってみてもいいとは思うが、やるか? やらないかな?」
どこか挑発するようなミチヲの言葉に、僕は一段と冷静になって、考えた。
首都には行きたい。何か、できることがあるだろうか。
「薪割りをやります」
唐突に思いついたことを、口にしていた。ミチヲが返したのは苦笑だった。
「もう冬だ。大抵の家では、薪は用意されている」
「では、薪を売ります」
「どこにその薪がある?」
「山で、用意します」
「ここでか? 一週間分の薪は背負えないぞ」
ダメか。何か、別の方法は……。
「ゆっくり考えなさい」
そう言ってミチヲは席を離れていった。
結局、答えが出ないまま日だけが過ぎて行って、雪もどんどん降り始めた。
こうなっては山を下りていくのも危なくなる。
降参するしかなかった。
首都へ行くのを諦める、とミチヲに話すと、彼は軽く頷き、
「来年のためにできることをしなさい」
と、穏やかに言った。
そうか、僕はその単純なことを考えていなかった。
一年かけてお金を用意すれば、苦労せずに首都へ行ける。
この冬の間から、僕は小銭をどうにかして稼いで、貯めていった。
激しい稽古と農作業、狩猟を続けながら、春になり、夏が来て、秋が過ぎ、雪が降った。
首都へ向かう路銀どころか、往復に困らない額が僕の手元にあった。
「首都に行ってもいいですか?」
一年前と同じように尋ねる僕に、ミチヲは笑った。
「構わないよ。これからは俺の考えを気にする必要もない。したいことをすればいい。そういう年齢になりつつある」
したいことをすればいい。
でも僕はまだ子どもだ。ただ、そうか、子どもだとしても、何かに縛られているわけじゃない。ミチヲも、僕を束縛することはない。
そんなことを思いつつ、何か違うような気がする。
何か、守るべきものが、ある気がする。
絶対に踏みはずしてはいけない道。
もしくは、裏切ってはいけない人。
答えが出ないまま、僕は二年ぶりに山を下りて、首都へ向かった。
その日は大雪の日で、首都の石畳は真っ白だった。傭兵会社の事務所へ行くと、受付嬢が二年前と変わらぬ様子でそこにいて、しかし僕を見て、目を丸くし、そしてほんの少しだけ、微かの微かのそのまた微かくらいに微笑んだ。
「社長なら上ですよ」
案内もせず、そっけないともいえる声でそう言っただけだ。
でも僕は感動していた。
帰ってきた、と思った。
意気揚々と階段を上がり、僕はモエのいる社長室のドアをノックし、返事とほぼ同時に開けた。モエは不機嫌そうにこちらを見て、
「久しぶりだね、カイ。元気があって結構」
そんなことを言う。
僕は益々、その思いを強く感じていた。
帰ってきた、帰ってきたんだ!
(続く)