3-5 首都へ
モエが去って、半年が経ち、冬になろうとしていた時、僕は腕を傷めた。
素振りの中で突然、左肘に軽い痛みが走り、しかし弱い痛みだったので、そのまま数日を過ごした。
でも何気なく素振りを見たミチヲは一目で見抜いて、僕から棒を取り上げた。
「体が痛い時は、言わなきゃだめだ」
珍しくミチヲが怒っているようだった。頷くしかできない。
「常に体の状態には気を配ること。いいね?」
「はい」
「一週間は、可能な限り腕を使わないように。素振りは禁止だし、重いものを持ってはいけない。これは絶対だ。あと、軟膏を塗りなさい。朝と夜だ」
そんなに重大なことでもない、と思ったけど、ミチヲは間違ったことを言わない、とその頃には身に染みていた。
一週間は、畑では畦に座って、語学だけを学んだ。語学も物語を聞いたり話したりする段階ではなくて、遊びのように、様々な言語で、自由に話すのがここのところの定例だった。
もう発音を直されることはない。でも自分で発音が怪しいな、と思う点は質問するし、ミチヲの発音にも注意して耳に集中する。
素振りがなくなった時間は、座学で、歴史を教えてもらった。もうパンターロの歴史は終わっていて、アンギラスの話になっている。語学の一環で、アンギラスの言葉でミチヲは僕に話してくれる。
一週間が過ぎ去って、ミチヲが僕の腕の状態を確認し、太鼓判を押して、また前の生活に戻った。
いよいよ気温が下がり、作物が取れる時期ではなくなった。畑を片付けた頃に雪が降り、これからは小屋の中で革製品や組紐、草鞋などを作って過ごすことになる。
と思ったら、ミチヲが突然、すごいことを言い出した。
「春になるまで、首都に行ってみたらいい。どうかな」
どうかな、も何も、突拍子もなかったので、すぐには返事ができなかった。
座学の中で、パンターロの地図を頭に叩き込まれたので、すぐに地理的な関係、移動にかかりそうな日数も想像できた。
ただ、僕はまだ十歳にもなっていない。一人で旅をするのは、危険というか、無理だと思った。そんな僕に気付いたのか、ミチヲが微笑む。
「少しの冒険だと思えばいい。お前の足なら、一週間で着くだろう」
その見立てはおおよそ、僕の推測と同じだった。僕は十日くらいかな、と想像していた。
「路銀は渡す。金のやりくりも教えたけど、不安かな?」
やりくりを教えた、と言っても、実際のお金を使ったわけじゃない。仮のお金として石を使って、ミチヲが商店のような立場になった、ごっこ遊びに近い。僕は石をやりくりしたのだ。
そんなことを考えていると、なんとなく、面白いかもしれない、と感じている自分がいる。
今まで、村とミチヲの小屋、そして山の中しか知らない。
首都か。どんなところだろう。
「やる気になったな、カイ」
「え、ええ、はい」
「モエのところで世話になるといい」
そうか、春までということは、数ヶ月は首都にいることになる。
その間、稽古はどうするんだろう?
僕の気持ちは表情か何かに現れていたらしい。ミチヲが微笑む。
「モエに頼んでおくから、勉強については気にしないで良い」
「はい、わかりました」
「雪が深くなる前に行ったほうが良い。支度は一日でしなさい」
僕は頷いてすぐに支度をした。
ミチヲは村とのやりとりで得たらしいお金を無造作に袋に入れて渡してくれた。金額は自分で把握して、管理しなさい、とも言われた。
出発前にお金の総額を調べたけど、どうも、首都に行く片道分のお金しかない。
「これで往復するのですか?」
「いや、片道だ」
「帰りはどうしたらいいのですか?」
「自分で考えることも必要だ」
うーん、どういう意味だろう。モエから渡してもらえる、という雰囲気じゃない。
結局、どうやって帰ってくるかはっきりしないまま、僕は荷物を背負って、小屋を離れ、森の中を進んだ。半日で街道に出て、これは予定通り。そのまま日が暮れるまで歩いたけど、宿場にはたどり着けず、半分は凍えながら、夜を明かした。
さすがにこんなことをしていたら、死んでしまう。
翌日からは宿場の旅籠を利用したけど、宿場自体が大人の足を想定しているのか、僕の歩く速度では、朝に宿場を出ても、次の宿場に着く時には日が暮れて真っ暗だ。それでも旅籠に泊まるのが安全だし、休める。
ただ、相手からすると子どもがやってきて泊めてくれというのだから、何が起こっているか疑ったかもしれない。
旅籠を三回ほど利用して、自然と、宿泊料と接待の関係が、実感として理解できた。
一つの旅籠の中で、接待に差をつける店もあるけど、大抵は、一つの店には一つの接待の程度しかなく、つまり、店の階級のようなものらしい。
僕は酒も飲めないし、食事も質素でいいし、風呂に入らなくても我慢できるし、部屋が狭くてもいい。
つまり、最低と言ってもいい旅籠でも十分だ。
こうして四回目からは宿場の中でも、一番の安宿を選んだ。ものすごく安い旅籠は、食事が出ないけど、これも別に構わない。宿場にある店で何か食べ物を買えばいい。
そんな具合で、意外に節約が楽しくて、毎日が愉快だった。
ミチヲの見立ての通り、一週間で僕は首都に到着した。ミチヲが用意してくれた地図と紹介状を手に、首都の一角にある傭兵会社の事務所を訪れた。
それにしても、首都の様子は今まで見たことのない光景だ。
三階立て、四階建ての建物が多い。あまりに背が高ので、怖いくらいだ。
チラッと見えたもっと大きな建物は、首長議会の議事堂と首長議会長の公邸らしい。
傭兵会社は、首都のかなり外周に近い位置に、二階建ての小さな建物で、見るからに質素だった。建物自体も古びている。
中に入ると、受付にいた女性が目を丸くして、次に不審そうな顔になった。
「モエ・アサギさんはいますか? これを見てもらえますか?」
ミチヲが書いてくれた紹介状を手渡すと、受付嬢はその場でそれを見て、もう一度、僕をまじまじと見た。
「こっちに来なさい」
まだ胡乱げな顔のまま、彼女は僕を奥へ導いた。まだ信じてもらえないらしい。それもそうか。子供が一人でやってきて、紹介状を差し出したのだ。それも傭兵会社の受付で。
軋む階段を上がって、二階の一室のドアを受付嬢が軽くノックする。
返事があり、受付嬢と一緒に中に入った。
「ああ、お前か。よく来たね」
何か聞くより先に、部屋の奥の机で何かしていたモエがこちらに気づき、立ち上がる。早口で受付嬢に何か言うと、彼女は恐縮した様子で、部屋を出て行った。
「先にミチヲから連絡が来ていてね。予定通りに来るとは、見込みがある」
どう答えたらいいんだろう?
迷っているうちに、モエが僕をジロジロと確認した。
「まずは風呂に入って、まともな服を着ろ。それじゃあ、浮浪児と変わらない」
「浮浪児?」
「後で見せてやるから、まずは私の家へ行こう」
連れて行ってもらえたのは、事務所のすぐ近くの集合住宅で、しかし一人で生活するには広い部屋だ。
僕の荷物は最小限で、服も着ているものともう一着しかない。どちらも洗濯はしていたからそれほど汚くないはずだけど、モエが出してきた服は新品で、驚いた。
「これを着なさい。で、ちょっとは観光する余地もあるでしょう」
着替えてモエに連れられて、首都を見物した。
浮浪児も見たけど、どうも親がいない子ども、という感じらしい。路上の隅で丸まって物乞いのようなことをしている子どもだ。多いのか少ないのか、わからない。
食事が終わって、部屋に戻り、モエが僕に笑いかけた。
なんていうか、まるで獲物を目の前にした獣のような笑みで、不吉だった。
「春になるまで、徹底的に仕込んであげるわ」
本当に、邪悪な笑みだな、これは。
(続く)