3-3 涙の別れ
ミチヲが出て行って、母が落ち着いた、と言っても、まだ涙は止まっていなかったけど、とにかく、冷静になって、三人で向かい合った。
「お前はあの方のことを、どれくらい知っている?」
「あの方?」
「ミチヲ先生だ」
先生、という言葉は、今まで聞いた。会ったどの先生よりも、あの人にはぴったりだとその時、はっきりと感じた。
「何も知らない」
何もではなかったけど、ほとんど知らないに等しいし、許されるだろう。
「あの方は、シュタイナ王国から流れてきた、いわば逃亡者だ」
逃亡者という単語は、さっきの「先生」より、まるでミチヲにはそぐわない。そもそも、何から逃げているんだろう?
「罪人なのですか?」
「剣聖に追われた、と話しておられた」
「剣聖? 何? それは」
父の表情が、何か、苦しんでもいるかのように歪んだ。
「シュタイナ王国には、国王の元に動く、十三人の達人がいる。その十三人が、剣聖と呼ばれるのだ。今は十二人だとも話しておられた」
一人欠けた理由はなんだろう? と思ったけど、もちろん、そこは主題ではないので、黙っているしかない。
本筋に意識を戻して、ミチヲはその達人に追いかけられていた、ということは、どういうことか、考えた。
「戦ったの?」
ピタリと空気が停止した気がした。
父は目を伏せ、母はそろそろと息を吐いて、震えながら息を吸った。
「知らない」父が目を閉じたまま言う。「しかし逃げ切ることはできた。アンギラス、そしてこのパンターロと、落ち延びることができた。それだけの力量はあるのだ」
それはそうだろうな、と素直に考えていた。
剣聖が達人でも、例えば一日中、全力疾走できるわけではないはずだ。つまり、相手より足が早ければ、逃げることはできる。
あぁ、でも、どうなのか。国のような大きな集団には、駆けることに長けた人もいるのかもしれない。
そう、パンターロは山岳地帯が多いけど、他の国では飛脚などと呼ばれる職業があると聞くし、郵便も充実しているらしい。
「あの方のことを、信用してはなりません」
急に、母がそう言ったので、考え事は中断した。
「なんで?」
「なんででもです。用心なさい」
うーん、わからないなぁ。
「そうする」
とりあえず、そう答えておいた。
「あの方の剣術は、本物だ」
まだ渋面のまま、父がそう言った。
「わかるか? わからないか?」
「わかる、と思う」
「どうしてわかる?」
どうしても何も……。
「見たから」
「どこで?」
「山賊が来た時、それと、この前、剣術の稽古で、先生と立ち合いがあった」
そうか……、と唸るように言ってから、父はやっと瞼を上げ、僕をまっすぐに見た。
「お前はどうしたい? 剣術を修めたいか?」
「修める?」
「身につけるということだ」
やっと理解できたきたけど、疑問も沸いた。
「剣術では、生活できないと思うよ」
「そうだ。剣の道とは、命をかけ、命を奪い、生きていくのだ。わかるか? 畑で食べ物を得る、山で食べ物を得る、そういうものではない」
「よく、わからない」
そう答えるしかなかった。父がもう一度、目を閉じて、その父に母が言った。
「この子は優しすぎます。それに、まだ小さいんです。無謀です」
無謀、という言葉の意味が、おおよそ、感じ取れた。無茶、ということだろう。
父はじっと目を閉じていたが、それから母のほうを見た。
「優しいものこそが、剣を取らねばならない。そう思う」
「あなた!」母の顔が歪んだ。「この子に人を切らせるのですか?」
「人を切って何も思わない我が子など、我が子ではない」
母はもう何も言えずに顔を伏せ、また泣き始めた。それに構わず、父はじっとこちらを見た。
「剣は怖いか?」
「それは、本物の剣を持ったことがないから、わからない」
「人を傷つけるのが、怖いか?」
「傷つけたいと、思わない」
嘘偽りのない言葉だったけど、自分でも嘘っぱちに聞こえるな、などと考えた。
それだけ自分が、変に正論にこだわっている、ということなんだ、と認識できた。
そんな僕の感覚を知ってかしらずか、父は突然、微笑んだ。
「なら、お前をあの方に預けることにする」
「え?」話の流れがわからない。「預けるって、どういうこと? ここを出るの? 僕が?」
「あの方の弟子になる、ということだ」
ちょっとどころか、だいぶ理解が追いつかない。
僕は剣を持ったこともないし、人を傷つけるのも恐ろしいと感じる。なのに、父はそんな僕を、剣士にしようというのだ。
「えっと、それは」
どうにか考えを進ませる。考えるしかない。
「いずれは僕を、この村の用心棒にする、ということ?」
「自分で決めるんだ」
自分でも何も、僕には未来のことなんて想像もつかない。
そもそも、剣士になるとして、剣を自由に扱えるまで、どれくらいかかるんだろう?
まさか一年や二年じゃないと思う。だって、僕たちの剣術の先生は、もう四十歳になろうとしているはずだ。何歳から剣術を始めたかは知らないけど、僕より三十年は長く生きて、あれだけの技術しかない。
不安しかない。その不安は、両親が僕を放りだそうとしている、という事実からも来ているようだった。
「えっと、どうやって、その……」
「あの方へは私たちがお礼をする。お前はあの方の子どもとなり、薫陶を受ける」
薫陶? えっと、指導、教育、かな。
そんなことより、これじゃあ、ほとんど捨て子かなにかのようなものだ。
「耐えられないわ、こんなの……」
そう呟いた母が立ち上がり、小屋から出て行ってしまった。後に残された僕と父は、黙り込んで、そのまま向かい合っていた。
「もはや、ここはお前の家ではなくなるのだ、いいな?」
「う、うん……。いつから? 今日?」
やっぱり不安に駆られて尋ねたのに、父の返事は簡単だった。
「早い方が良い。明日だ。今日は仕事は良いから、荷物をまとめなさい」
そう言って父も立ち上がり、そして僕の肩をポンと叩いて、外へ行ってしまった。
全てがあまりにも唐突だった。
明日? 明日って、つまり、明日?
しばらく呆然とするしかなかったけど、これが事実だ、動くしかない。
前に母が用意してくれた背負い袋に、身の回りのものを入れた。すぐに袋がいっぱいになったので、一度、全部出して整理する。
そうしていると、母が戻ってきて、しかし何も言わずに料理を始めた。そう、もうお昼なのだ。父は帰ってこなかった。母と二人で食事になり、済むと僕はやることもなく、畑へ行った。
畑の片隅で、父を見つけた。秋に収穫する作物の種を蒔く準備として、畑を耕している。一心不乱に鍬を振るう父の背中には、何か、声にならない叫びのようなものがあった。
夕飯は三人でひっそりと食べた。父がどこかへ出かけて行き、僕と母は先に休んだ。
翌朝、朝食の後、ミチヲがやってきた。
「よろしくお願いします」
父がそう言って頭を下げ、ミチヲは「お預かりします」と短く答えた。
母はまた泣いていた。このところ、泣いているところばかり見ている。
「これでいつか、剣をあつらえてやってください」
そんな言葉とともに、父が小さな袋をミチヲに差し出す。ミチヲはこれに驚いたようだ。
ゆっくりとした動作で、その袋を父の方へそっと押し戻す。
「剣術が身につけば、自分で剣を見つけるでしょう」
「しかし……」
「それもまた、道の中の一つです」
結局、ミチヲはその袋を受け取らなかった。
背負い袋を背負って、外へ出ると、通りかかった村人が、不思議そうに視線を向けて通り過ぎていく。
「では、これにて」
ミチヲが深く頭を下げ、僕を促した。なんとなく、両親に頭を下げて、僕はミチヲの背中について行った。
村を出るまでに、こちらを不思議そうに視線を向けてくる村人の様子が、居心地が悪かった。
村を出て、斜面を進んでいく。
「あの、先生」
先生、というのが不思議だったけど、他に言いようがない。ミチヲはこちらを振り返った。
「なんだい?」
「その、よろしくお願いします」
にっこりとミチヲが微笑み、僕の頭を撫でた。
「お前の努力に期待するよ」
努力、か。僕はまた不安になった。
あとは黙ってミチヲの小屋まで進んだ。昼過ぎで、昼食にしよう、と彼は言って先に中に入った。ちょっとためらってから、僕も中に入った。
新しい空気の中に進んだ気がした。
(続く)