3-1 出会い
僕がその人と会ったのは、偶然だった。
僕は六歳で、両親と一緒に薪を拾いに森に入ったのがきっかけと言える。
パンターロという国は森林地帯、山岳地帯が大半で、人々の生活は貧しい。でも平和でもある。他国の侵略も少ないし、国としても税も安いらしい。もちろん、僕はパンターロを出たことがないので、よく知らないけど。
で、その日は昼過ぎに森に分け入って、父と母と三人で、森の中を歩き回っていた。
何かが前方で動いて、僕はそれを反射的に見た。
狐だ。それも子狐だ!
僕は無意識に走っていた。狐が逃げる。追うのが自然だった、というか、本能だ。
どれだけ走ったのか、思い出せないほど走って、狐の巣を見つけた。大きな岩と岩の隙間だった。覗き込んでも、もう狐は見えない。
そこに至って、自分がどこにいるのか、さっぱりわからなくなっていることに気づいた。
森に入る時は両親と離れないようにする、というのが約束だったけど、狐のせいですっかり忘れていたんだ。
どうすればいいか、途方にくれた。
涙が流れないのが、不思議だった。
事実とは裏腹に、僕は落ち着いていたようだ。
まずは地面についている自分の足跡を探す。周囲は人が踏み入っていないので、これは簡単だ。腐葉土が乱れてもいるので、それも頼りに、歩き出した。
それでも痕跡を見逃さないように、進んでいくため足取りは遅く、あっという間に日が暮れてしまった。
幸い、雨が降る天気ではないし、季節的にも寒くもない。
適当な木の根元に座り込んで、僕はうずくまり、降りてきた闇に目を凝らした。
どれくらい時間が過ぎたのか、かすかな音に気づいた。足音……?
足音だ!
起き上がってそちらを見ると、小さな明かりが揺れていた、こちらへ迷わずに近づいてくる。
明かりを手にやってきたのは、知らない男の人だった。背は平均的で、ひょろっとしているように見えるけど、歩く動作は変に安定している。
彼が明かりを掲げて、こちらを見て笑った。左目が閉じていて、そこを傷跡が縦断している。でも、柔らかい、優しそうな笑顔だった。
「カイ・エナ、っていうのは君だね?」
どうやら彼は僕を知っているらしかった。
頷くと、彼も頷き、「帰ろうか」ともと来た方へ歩き出した。
しばらく無言で歩いたけど、急に男が立ち止まった。
「疲れたなら背負ってやるけど、どうする?」
少し気が引けたけど、本当に疲れていたし、足も痛かったので、僕は頷いた。
彼の背中は、もの凄く硬くて、びっくりした。それに実際に背負われると、彼のバランス感覚がずば抜けているのは、はっきりわかった。不自然なほど、揺れない。
そのうちにウトウトとしてしまい、誰かの大声で目が覚めた。
すっと身体が下され、僕は自分の足で地面に立ち、眩しい明かりに目を細めたところで、やっと意識がはっきりした。
そこは僕が家族と生活している村だった。声をあげたのは両親で、そう気付く前に母が僕を抱きしめていた。父は、例の男に礼を言っているようだ。
母も男に礼を言い始め、僕も頭を下げた。
男は軽く頭を下げ、僕の頭を撫でてから、村人に見送られて、去って行った。
「あの人、誰?」
生活している小屋の布団の中で、僕は母に尋ねた。
「気にしてはいけません」
「気にしてはいけない? 秘密って事?」
「関わってはいけません」
まるでオバケか何かみたいな扱いだな、と僕は思っていた。
その日は眠って、翌日になって、両親は僕を激しく叱りつけ、その日は外に出られなかった。
翌日からは今まで通り、薪拾い、薪割り、狭い畑の手入れなどをして過ごしたけど、三日後だったと思う。来客があった。
「こんにちは」
畑にいた僕は声の方を見た。母も一緒にいて、そちらを見ている。
そこにいたのは、例の男だった。関わってはいけない男。
こうして日の光の下で見ると、彼はこの国の人間ではないようだった。顔つきが違う。でも言葉は完璧で、少しの訛りもない。
「何かご用でしょうか?」
母が畑から男の方へ行ったので、僕も少し遅れてついて行った。
「息子さんのことなのですが」
その一言で、母の体が強張ったのが、よくわかった。その後、母の手が震え始めたのも見えた。何がそんなに恐ろしいんだろう?
「息子を、探していただけた、見つけていただけたことは、感謝します。しかし、もう関わらないでください」
「その気持ちはよくわかります。私のような余所者と関わりたくないのは、重々、承知しております」
「では、お引き取りください。どうか、どうか……」
母が頭を下げて、動かなくなる。
男は、その様子を見た後、僕のほうを見た。参ったな、というような表情だ。
「俺の名前は、ミチヲだ。また来るよ」
バッと顔を上げた母が、僕を抱きしめ、守るようにミチヲに背を向けた。
「もう二度と来ないで!」
絶叫した母を初めて見た。ミチヲは深く頭を下げ、去って行った。
それから一週間、僕は小屋から出してもらえず、同じ村の女の子たちと、組紐を作って過ごした。ものすごく退屈だったけど、父も母も、外に出してくれない。
何度か、お客があったようだけど、よくわからない。
村の女の子たちの噂話から、わかったことがあったのは、たぶん、両親の思惑とは違っただろう。
女の子たちの話によれば、この村から目と鼻の先に、変な異国人が住み着いているらしい。一人きりで、この村の人たちが放置した、かなり急峻で手入れもされていない辺りを、切り開いているらしい。
村と交渉して、その土地は彼が買い取ることになり、数日で大金を持ってきたとも聞いた。
それに加えて、彼はこの村と取引する約束をして、彼は動物の肉や毛皮を、村は穀物を、それぞれ交換しているという。これは女の子のうちの一人が、穀物栽培の責任者のような立場だったので、事実だと思う。
彼の名前はミチヲで、元はシュタイナ王国の出身らしい。罪人だという噂もあるし、一方で、傭兵だ、という噂もある。
凄腕の剣士だ、という噂が一番、強そうだ。だから片目を潰された、という情報もある。
そんな噂まみれの生活を十日ほど続けて、やっと外に出ることができた。
畑で作業している時、ミチヲが来るかと思ったけど、来なかった。
諦めたんだろうか? でも、そもそもどういう理由だったか、知らない。
そんな具合で、すっきりしない日々が続いたけど、劇的な変化は突然に起こった。
村が山賊に襲撃されたのだ。男たちが戦ったが、一人が死に、三人が重傷を負った。
それだけで済んだのは、村人のひとりがミチヲを呼んできたからだった。
僕はその光景を、小屋の入り口から見ていた。
鮮やか。
美しい。
ミチヲの無駄のない動きに、山賊はついていけない。十人以上いたが、一人、また一人と投げ倒され、打ち倒された。そのうちの一人が剣を奪われ、ミチヲの剣は容赦なく、山賊を切り捨てた。
逃げたのは三人ほどだろう。
村に一瞬だけ静寂が戻り、すぐに動きが取り戻された。
男たちは死んでいる山賊を片付け、生きているものは拘束したようだ。僕はその時には、もう小屋の中に押し込められて、観察はできなかった。
夜になり、山賊が戻ってくると思ったのだろう、ミチヲは村に留められていた。
父も母も慌ただしく、僕に構っている暇はなかった。他の子供たちと一緒に僕はまとめて保護されていたけど、それをすり抜けて、村の真ん中の広場で、焚き火のそばにいるミチヲに忍び寄った。
「危ないぞ」
背後から近づいたのに、そして彼はこちらを見ていないのに、そんな声が飛んできた。ちゃんと他の大人に聞こえないように加減されている。
「ミチヲがいれば、十分だよ」
「そういう意見ばかりでもないがね」
僕はミチヲのすぐ背後に移動し、近くにいる大人の様子を確認した。と、わずかにミチヲが姿勢を変える。大人の一人がこちらを見たけど、僕はミチヲの陰になったようだ。ものすごいタイミングだ、と感心していた。
「僕に何か用があった?」
「あった。今回の件で、話ができそうで、助かった。いや、不謹慎だな。一人、死んだし、あと二人も死ぬだろう」
やっと僕はそのことに思いが到達した。死んだ人がいる。誰だろう?
「死ぬのは弱いから、という主張もあるが」ミチヲが静かな声で言った。「運というものもある。死が避けられない場面、ということだ」
僕にはよくわからなかった。避けられない場面、ってなんだろう?
山賊が来てしまったから、死んでしまったということ?
山賊が来たことで、死が決定している?
「どうやったらそれを避けられる?」
その質問の答えは、すぐには聞けなかった。
大人の一人が僕に気づき、僕がその場から逃げ出したからだ。
結局、その夜は山賊が戻ってくることはなかった。
(続く)