2-6 同行
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二人に追いつくのにはそれほどの時間は必要なかった。
「最初とは顔つきが違うな」
僕を見て、ミチヲはそんなことを言った。笑顔である。一方のモエは警戒を解いていない。
「どうしてあんな連中に追われている?」
「アンギラスに入った時、手を借りた組織があった」
場所は街道に面した食堂だった。彼らが金を持ち出せたとも思えなかったけど、こうして食堂に入っているということは、身につけていたんだろう。
「密入国だから?」
「その通り。金も払ったけど、ちょっとした手伝いもした。それがいけなかった」
「人を切ったのか?」
うん、とミチヲが頷く。
「最初に聞かされた話では、組織に敵対する男を切る、という内容だった。で、実際に切ってみると、組織の内部の人間で、つまり俺は鉄砲玉というか、よそ者で腕が立つ、という理由で罠に嵌められた」
「それ以来、追っ手が来る?」
「俺が切った男の他に、三人ほどが切られたらしいが、そのクーデターは失敗に終わり、今、組織を管理している連中からすれば、俺は大罪人、ということになる」
事態の重さをミチヲが感じないわけがないが、彼の口調は軽やかだ。
「薬をもらったことを感謝しているが、俺にできることはあまりないな」
食事の最中に、ミチヲがそんなことを言った。
「そこの女を差し出せば、問題ないな」
僕の冗談に、ミチヲも笑ったが、モエは笑わない。
彼女はいつも気むずかしげな顔か、無表情だ。
食事を済ませて、三人で歩き始めた。モエは当然、警戒する。
「あの技は見事だった。波紋の受けかな?」
「さすがは剣聖、よく知っている。でももう俺の中では、ただの、波紋、と呼んでいる」
「受けでも攻めでもない、か?」
「あの剣術は多数を相手にすることが理由で発展した。だから、受けこそが本来は主体なんだな。ただ、それを攻めに応用した奴がいる。多数の囲まれ、回避不能な同時攻撃を受けた時に、初めて、活きる技だ。もちろん、最初は全部の剣をはじき返すだけだったが、今は、さっきのように逆に切り捨てることもできる」
僕の中で、この男ともっと話をしたいという欲が出てきた。
それほど、この男の剣術に対する理解が深い、と推測できた。
「どうやって習得した? 理屈ではわかっても、体が動かないのでは?」
「体感した、ということになる」
妙な言葉だった。
「体感? 技を受けたということか?」
「それはどちらかというと体験だ。 俺が言っているのは、技を見た、感じた、まさに体感した、ということだ」
奇妙な問答になりそうだったので、話題を変える。
「どれくらいで習得できた?」
「形だけは、一ヶ月。その後に何年も実戦で試してきたよ」
それはそうだろう。この男は実戦には事欠かない立場にいる。つい昨日もそうなのだ。
「退屈じゃないか?」
どうしてこんなことを言ってしまったのか、自分でも不思議になったのは、言葉を遅れて理解した時だった。
ミチヲは歩きながら、笑っている。
「自分にこれほどの才がある、と実感するのは、退屈じゃない。ただ、実感するために命をかけ、同時に相手の命を奪う、と考えると、退屈かどうかはどうでもいいことだ。誰と向かい合っても、思うことは一つだな」
「生きたい、ということ?」
「まさに」
そのまま僕たちは街道を進み、隣の宿場に入ったが、二人は足を止めなかった。
「ところで、どこへ向かっている?」
宿場を過ぎて日が暮れてきたので、自然な質問だっただろう。
「パンターロヘ抜けるつもりだ」
頭の中で地図を確認する。アンギラスの地図はまだはっきりと僕の頭の中にある。
パンターロの領域に入るまでには、あと三ヶ月はかかるだろう。大陸縦断の半分に近い行程になる。
「いつまで付いてくる? 剣聖さん」
街道から少し離れた木立の中で野宿の準備をしつつ、ミチヲが尋ねてくる。
「二人を切るまでかな」
「そんなことをしたら、いつまでも切れないまま一緒に旅をして、君まで脱走したことになる」
すぐに冗談さえ言えなかったのは、モエよりも、目の前のミチヲに対する興味が、無視できなかったからだ。
彼が本来は剣聖候補生になるはずだった、と聞いている。
その判断は、正しかったのだ。
もしミチヲが高度な教育を受ければ、また違った可能性もあったかもしれない。モエの代わりに剣聖になったことも、十分にあり得る。
ただ、今のミチヲの底知れない感じは、僕たちが受けた騎士学校の教育では、養われなかった気もする。
なんとなくだが、ミチヲには教師が向いている気がした。
もちろん、第一級の剣の使い手で、剣聖と対等に戦えるが、彼の知識や解釈、理解は、無視できないものがある。
野宿の準備が終わり、火を起こしてそこで湯を沸かした。
食堂で分けてもらったお茶を飲みつつ、僕は自分の考えをミチヲにぶつけてみた。
「教師? 俺が?」
さすがにミチヲも混乱していた。
「どうかな。騎士学校に席を用意できる」
「モエはどうする?」
この質問は予想していた。
「身分を新しくして、別人にする」
二人が顔を見合わせる。二人にしかわからない、視線での意思疎通があった。
「それほど」ミチヲが真面目な顔で言った。「シュタイナ王国を信用できない、というのが、俺たちの意見だな」
「しかし、異国で追い立てられて生きていくのは、長くは続けられない」
何がおかしいのか、ミチヲが声を上げて笑った。
「その追い立てる役を、査問部隊も剣聖さえも、やっているのに?」
「いや」その通りだった。「失言だった」
夜の静けさが周囲に立ち込めた。
「やりたいことが、ないわけではない」
「どんなこと?」
ミチヲがじっと目の前の焚き火を見据えた。
「剣を極めたい」
僕がすぐに答えられなかったのは、彼がすでに剣を極めつつある、その道に踏み込みつつあると感じたからだ。
彼が言っている、剣を極める、というのは、剣技を極める、とは少し違うんだろう。
不敗、無敗、そういうものを口にしたのだ。
とんでもないことだ。
人は必ず老いる。怪我もすれば、病気もする。体調が完全なままで生きていける人間はいないのだ。
そして剣を合わせれば、様々な事態が起こる。
剣が折れるかもしれないし、相手の一撃を受け損ねて負傷すれば、体の動きは鈍くなり、隙が生じる。
何らかの偶然によって、相手の剣が一撃で命を奪う可能性すらあった。
そういう全てを、ミチヲは飲み干そうとしている。
全てを制圧する、無敵の存在。
「あなたは、そうは思わないかな?」
視線が僕の目をまっすぐに見た。
すぐには答えられなかった。
だから、考えながら、喋った。
「僕は、十五歳の時に剣聖になった。その時は、すべてが未熟で、怪我もしたし、訓練で他の剣聖に打ち据えられることもあった。その時は、剣を極めたいと、確かに思った。負傷や痛みが悔しかったからだと思う」
パチパチと木の枝が爆ぜる。
「そのうちに、誰も僕には勝てなくなった。精神剣を完璧に使えるようになったこともあるけど、それと同時に、剣術も上達して、こちらが棒で相手を打ち据え、そのうちに素手でも相手の棒に対処できるようになった」
モエもミチヲも黙っていた。
「ある時、剣聖同士で剣を交えることになった。もちろん、真剣だった。こちらは挑戦された立場で、避けることはできない。一対一の勝負で、僕は精神剣を使わずに、彼を切った。たぶん、それより前から薄々は感じてはいたけど、倒れた彼を見たとき、自分はもう負けない、と思ったのを覚えている。自信と言うより、確信だった。慢心も過信もなく、純粋に、自分を把握した」「それで実際に、負けていない」
僕が黙り込むと、ミチヲが入れ替わるように話を始めた。
「俺は何度も負けた。怪我も負ったし、完全とは程遠い。インチキのような力にも助けられたが、しかし、不完全で、弱い。でもそれは伸び代がある、これから先がある、ということでもある」
彼が枝を火に投げ入れた
「シュタイナ王国に戻り、教師として生きていくのも、あるいは新しい発見があり、新しい感性に触れることになって、良いのかもしれない。でも残念ながら、俺はそれを受け入れない」
「どうしてですか?」
「実際の剣を目の前に見たいからだ」
そう言ってから、ミチヲが天を仰いだ。
「愚かだな、と自分でもわかる。わざわざ命を危険にさらし、可能性を限定している。より多くを選べる方ではなく、より少ないものを目指している。本当に愚かだ」
僕も彼に倣って、頭上を見上げた。
木々が邪魔になって、夜空は少ししか見えない。
「答えは出ない。もしくは、見逃している、無視しているんだろう」
ミチヲの声は、澄んでいるような気がした。
「でも人間は、見たいものしか見えないようになっている。なら俺は、前だけを見て、そこに本当に望んだものが出てくるまで、走り続けるよ」
僕は何も言えずに、まだ空を見上げていた。
(続く)