6-11 苦痛を乗り越える
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シュタイナ王国でやるべきことはもう何もなかった。
しかしまずは怪我を治さないといけない。王宮を出る前に、係員が気を利かせて御典医を手配してくれた。
「剣神さま、こちらへ」
係員に案内されながら、僕は尋ねた。
「その称号はよく知らないんですが、どういうものですか?」
「そうですね、ええ、僕は歴史上で聞いただけです」
歴史?
係員が続ける。
「百五十年前、シュタイナ王国で内戦が起こった時、その争いに終止符を打つために、代表者による決闘が繰り返されました。それに最後に勝利した剣士に、当時のシュタイナ王が、剣神、という称号を送った、という記録があるのです」
「へえ、知らなかった」
笑いを堪える気配の係員に連れられて、僕は御典医の部屋にたどり着き、そこで治療を受けた。
「剣神? そんな古いものを陛下は持ち出されたか」
御典医の男性が感慨深そうに言う。年齢は六十代だろう。助手が二人いる。
「筆頭剣聖を切ったとは、恐れ入る。君も精神剣の使い手か?」
「まさか。普通の人間です」
「普通か。とんでもない普通もあったものだ」
笑う御典医が治療を終えた。脇腹の傷は縫い合わされ、薬を塗られ、包帯できつく巻かれた。
「飲み薬を処方しておく。おい」
御典医が助手に指示を出し、助手が部屋の奥の棚から様々な薬草を出し、薬を作り始めた。
「それで、君は剣聖になるのを拒絶して、これからどうする?」
「国に帰ります」
「国? ああ、そうか、やはり君はパンターロの人間か。肌が白いだけだと思っていた」
話が早くて助かる。
その御典医が、僕の体に顎をしゃくる。
「治療中に見たが、身体中に傷跡があった。それだけの激しい経験を積んだ剣士を、私は知らないよ。いや、一人、いたかな」
「どなたですか?」
「ソラ・スイレン」
ちょっと驚いた。彼は精神剣の使い手でそんな苦労をするとも思えなかった。
御典医が続きを話し始めた。
「彼の体を初めて見たとき、身体中に無数のコブがあって、驚いた。彼は話そうとしなかったが、あれは打撲が繰り返された痕跡だと思った。ソラは十五歳で剣聖になったはずだから、そんな不覚をとる可能性があるとすれば、幼い頃だ。話を聞かなくても、幼い彼が誰かに打ち据えられ続けたことは、想像に難くない」
「そう、ですか……」
僕はもう何も言えなかった。
どんな人でも、どこかで苦痛に耐え、それを乗り越えている。
でも死を免れることはできないのか。
では、何のための苦痛なのか。
薬が出来上がり、御典医は「幸運を祈るよ、剣神さま」と部屋から送り出してくれた。廊下で待っていた係員に案内されて、僕は外へ出た
例の庭が見えたけど、もう誰もいない。日が暮れかかっていて、夕日が眩しい。
門を抜け、橋に差し掛かる。
キラキラと瞬く堀の水面を眺め、しばらく足を止めてしまった。
僕がもうこの街には戻らない。この光景を見ることはない。
では、今、僕の腰にある短剣を持った誰かが、またここへ来るのだろうか?
でも一体、誰が?
係員に促され、僕は一人で橋を渡った。渡りきったところで係員は僕に握手を求めてきた。握った彼の手はひんやりとしていた。
橋を守る近衛騎士もこちらを正面において、背筋を伸ばした。
僕は軽く頭を下げ、背中を向けた。
街を行く人たちがざわついている。断片的な言葉で、彼らがソラ・スイレンが切られたことで騒いでいることがわかった。腰の短剣はそっと隠しておいた。
旅籠についてもう日が暮れているのに、僕はそこを引き払った。
短剣は荷物の中に入れ、一人で外へ出た。まだ騒いでいる人が大勢いる。
僕は王都の街道をまっすぐに進み、城壁が迫ってくるのを、夜闇の中で透かし見た。
前方に誰かがすっと立ちふさがった。
敵意は無い。
老人が僕の前に立ち、笑っている。
フカミ・テンドーだ。
「見事に使命を果たしたな」
「そうでしょうか?」
謙遜するものでは無い、とフカミが笑う。
「ミチヲ・タカツジの使命を、お前が引き継ぎ、全うしたのだ。誇ればいい。あの者の重荷を背負える者は、限られた存在だけだ。そのうちの一人として、お前は成功した。誇れ」
「僕は」
急に涙がこみ上げた。口元を撫で、震える声を必死に制御した。
「僕は、これからどうすれば?」
「自由だ。しかしいずれ、お前にはお前の使命が、訪れるだろう」
「それを果たすために、僕の命はあると?」
深く、フカミが頷いた。
「使命を果たし死ぬか、使命を誰かに任せるかは、私にもわからない。だが、誰もに生きている理由がある。それを見つけろ。自由の中から不自由を見つける、自由の上に立つからこそ不自由が見えることもあるのだ」
すっとフカミが道を開けるように、立ち位置を変えた。
「さあ、自由に踏み出せ、カイ・エナ。お前は誰よりも強く、しかしいずれは力を失う。誰かに何かを託せ。それが人間だろう」
僕は心を決めていた。
フカミに頭を下げ、僕は彼の前を抜け、城壁の門を抜けた。街道を進み、ついに僕は王都を後にした。
夜でも構わず、歩き続けた。
深夜、背後で馬の蹄が地を蹴る音がした。一騎だけだ。
「カイ・エナ!」
一瞬だった。
僕の体が振り向くことなく、跳ね、背後からの一撃を回避する。
腰から剣が走り、馬をまず切った。
相手が放り出され、空中にいるところを僕の剣が刺し貫く。相手の勢いで剣はすぐに抜けた。
馬が激しい音ともに転がり、力なく嘶いた。
地面に倒れこんだ相手は、胸の中心を僕に刺し貫かれ、もう動くことはできない。
僕は彼を見下ろす。
例の近衛兵だった。リー・ファイの話をした男。ここまで僕を追ってきたのだ。
「お前が……」血を吐きながら、彼が呻く。「最強な、ど、あり、えない……」
どう答えることもできなかった。
まだ何かを続けようとしたようだが、もう言葉にならず、ゴボゴボと濁った音になっただけだった。
彼が生き絶え、見開かれた目を、僕はそっと閉じさせた。
どうすることもできず、死体をその場に残し、僕は歩きを再開した。
朝に宿場に着き、部屋を確保して、横になった。
脳裏に、リー・ファイのことが浮かんで、消えない。
彼を切って、あの近衛兵を切って、さらに僕はまた人を切って生きていくのか?
呪いだ、まるで終わらない地獄。
眠りがこないまま、布団に横になり、動かないで時間を過ごした。
昼が過ぎ、夜になり、僕はそれでも眠れなかった。
夜明けが来て、外へ出た。旅籠を引き払い、一人きりで、街道を進む。
もう誰も追いかけてこないでくれ。
必死にそう念じて、歩を進めた。
夏が終わろうとしている。
僕の使命はすでに終わり、確かに自由になった。フカミの言う通りだ。
自由だけど、頼りない心が、僕を余計に不安にさせた。
支えを失ったような気分だ。
誰にも追跡されないまま、秋も終盤という頃、僕は始祖国アンギラスに密入国することに成功していた。
サカヤの事を、考え始めた。
まるで、すがりつくように。
(続く)




