6-7 一度の稽古
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ハラトさんの書類は完璧だった。
僕は国境地帯を抜けて、堂々とシュタイナ王国に入った。
街道を進むことを選んで、ゆっくりと進む。ここに至っては、急ぐ理由はそれほどない。
むしろ、時間を使って、自分の中の気持ちを整理したかった。
ある雨の日、ずぶ濡れになって旅籠にたどり着き、中に入れてもらった。お風呂に入りますか? と言われて、僕が礼を言って、風呂に入った。
上がって部屋に戻り、軽い夕食を食べ、布団に横になった。
翌朝、頭がぼうっとする。風邪だ。
旅籠の人と話をして、何日か滞在させてくれるように頼み、金を渡しておいた。
じっと横になって、窓の外を見た。
もう秋も近い空だ。
どれくらい経ったか、ドアがノックされ、声がした。
「薬屋の方がお見えですが、いかがなさいますか?」
女中の声だ。
「入ってもらってください」
小さな音とともにドアが開き、彼女が入ってきた。
瘦せぎすで、背が高い女性だ。背中には荷物を背負っていて、服はどこかしら汚れて見える。たった今、山から出てきました、みたいな雰囲気だ。
彼女は荷物を降ろして、僕の額に手を当て、頷いた。
「薬をお出しします」
不思議と澄んだ声だった。
荷物を開けた彼女が粉末を用意し、こちらに差し出してくる。枕元の水差しの水で、僕はそれを飲んだ。
「眠くなると思いますから、眠ってください」
「ありがとうございます」
「また明日、来ます」
そういった彼女が立ち上がろうとして、動きを止めた。どこを見ているのかと思ったら、僕の枕元にある剣を見ているようだ。
どこかギクシャクとした様子で、彼女がこちらを見る。表情には迷いが浮かび、困惑があり、しかし最後には理性が勝ったようだ。
「また明日、来ますから」
僕は頷こうとしたけど、もう薬が効いたのか、眠気にやられて意識を失っていた。
気づくと夜で、視線を巡らせると、そばに粥の入ったお椀があった。もちろん、冷えているし、糊のようになっている。
書き置きもあった。無理してでも食べるように、とある。
だいぶ体が楽になっているのを感じながら、僕は粥を平らげ、また横になった。お椀の横には紙で包まれた粉末薬があるので、それも飲んだ。
やっぱり眠ってしまう。こんな薬は初めてだ。
次に目を覚ました時には、例の薬師の女性がすぐそばにいた。
「具合はどうかしら?」
額に手が置かれる。僕には熱がある雰囲気はない。
「大丈夫だと思います。お世話になりました」
「うん、そうだね。それで、聞きたいことがあるんだけど」
手を引っ込めた彼女を見返すと、真面目な顔で、射るような視線がこちらに見てくる。
「その剣をどこで手に入れた?」
「僕の師の持ち物です」
「つまり、彼は死んだってこと?」
彼?
「ミチヲ・タカツジを知っているんですか?」
「知っているも何も」彼女が笑う。「あの人の片目を潰したのは私だし、逆に私の体に傷痕をつけたのも、あの人だ」
いきなり薬師の女性が服をめくり上げて、思わず、反射的にそこを見ると、古い傷痕がある。
「私の名前はサリー。あなたは?」
「カイです。先生とは、その、どこで?」
「山の中の山賊の砦で」
訳がわからない。
「あんたはこれからどこへ行く? 王都?」
「そのつもりです」
「私も噂では聞いているよ。ミチヲ・タカツジの異常さはね。あんたがそれを真似する? 見たところ、普通の人間のようだけど」
答えられずに、思わず笑っていた。
「普通の人間が戦うべきなんでしょうね、普通じゃない人を相手に」
「それもそうか。言い得て妙だね」
二人が少し黙った後、サリーが話し始めた。
「私は子どもの頃から剣術を習っていた。誰にも負けない技を身につけた。でも人間の醜悪な欲望に負けて逃げ出し、そのまま放浪した。そんな旅の中で、剣を手に入れた。その剣だよ」
指差している先にあるのは、僕の枕元の剣だ。
「無償で作ってもらったけど、最高の剣だ。その剣を受け取ってから、ミチヲとモエに出会った。ミチヲとは剣を交わし、一度は勝ち、一度は敗れた。私は致命傷を受けて、しかし二人は私を助けた。そして別れる時、私とミチヲは剣を交換した」
「剣を交換した?」
「私が二人と別れてから世話になった人の屋敷に、今もあるんじゃないかな。でももう、私は剣を手に取らない。歳も取ったし、体も限界だしね。あなた、何歳?」
「二十九になります」
ああ、とサリーが微笑む。
「若いね。今が一番、楽しい頃だ」
そう言ったきり、彼女は黙った。
彼女がぐっと足に力を込めて立ち上がり、サリーが身振りでも僕に起き上がるように示した。
「少し剣の稽古をしよう。構えだけだ」
「え?」
「良いから、剣を持って表に出なさい」
僕は寝間着の上に一枚、羽織って、剣を手に外へ向かうサリーさんに続いた。サリーさんは旅籠の一階で、用心棒から剣を借りていた。
二人で通りで向かい合い、すぐにサリーは剣を抜いた。
圧迫感が押し寄せた。
危うく後ろに下がりそうなほどの、強烈な殺気。
それに耐えて、ゆっくりと剣を抜いた。
この剣を抜いたのは、初めてだった。そう、抜く気になれなかったのだ。
まるでサリーが僕に剣を抜かせてくれたようなものだ。
でも今はそれを考える余裕もなく、今すぐに襲いかかってきそうなサリーに切っ先を向け、威圧感を押し返す。
どれだけそうしていたか、サリーがすっと剣を鞘に戻した。僕は汗だくな自分を感じつつ、剣を引く。
「いい腕をしている。ミチヲに教わったの?」
二人で旅籠に戻りつつ、サリーが訊ねてくる。
「いろいろなことを教わりました。いえ、全てを教わったかもしれません」
「あの男がねぇ。しかも死んだとは、信じられない」
「僕もです」
「しかしその剣があることには、奴が死んだことを信じないわけにはいかないな」
部屋に戻る途中にサリーが軽食を頼み、二人で部屋に戻って少しすると、お茶と一緒にそれが運ばれてきた。
「それでこれから、どうする?」
「王都に向かいます」
「本当に? ミチヲと同じ道を進むか」
サリーが苦り切った表情で、お茶を一口飲み、焼き菓子を口はへ運ぶ。
「あいつが剣聖たちと渡り合ったことは、私もうんざりするほど、聞いたよ。もはや人間技じゃなかった、と聞いている。お前なんかより、比べ物にならないほど、ミチヲは強い。それを理解しているか」
突然、その言葉が頭に浮かんだ。
先生が死ぬ何日か前に言っていた言葉だ。
「技は弱者が勝つためにある」
思わず言葉にすると、ピタリとサリーが手を止め、こちらを見た。
「本当の強者には、技があっても通用しないよ」
「かもしれません。でも弱い僕は、技を使うしかない」
はあっと息を吐いたサリーが、一転、ニヤッと笑う。
「昔の私がそのまま導かれれば、あんたみたいになったかもね」
二人で黙って、しばらくじっとしていた。
(続く)