6-1 山の中
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パンターロの山岳地帯の中、全くと言っても差し支えないほど人気ないのところで、丸三年を過ごした。
シュタイナ王国から戻ってきた先生は片腕を失っていて、何もないところをじっと見据えている時間が長かった。誰かに話しかけている時もあったけど、もちろん、何もいない、誰もいない。
モエさんは、意識を回復してから一年で、最低限の日常生活は送れるようなった。これは首都からたまにやってくる医者からすれば、驚異的な回復らしい。
「いつまでも老人介護をやらせちゃいけないしね」
頻繁に、そんなことをモエさんは口にした。先生もモエさんも、まだ五十歳にもなっていないはずだ。
先生と僕は、昼間はそれぞれに食料を取りに森の中をうろついていた。木の実や果実、野草、罠にかかっている小動物などを、回収する。冬のために薪も用意した。
そう、森の中での生活が長引くにつれて、生活している建物も増改築され、ちょっとしたものに変わっていた。最初は身を潜めることを考えた、隠れ家だったのだ。
夜になると、先生は僕の剣術の稽古に付き合ってくれる。
でもいつからか、先生は僕を一方的に叩き伏せるようになった。
片腕なのに、まるで魔法ように先生の持つ木の棒は僕を打ち据え、転倒させ、場合によっては昏倒させた。
「時間はないよ、カイ」
そう先生は繰り返す。
なんの時間がないのかは、訊ねなかった。答えを聞くのが怖かったからだ。
どうやらもうシュタイナ王国からの脅威はないらしい。僕たち三人は自由になったはずだった。いや、もう自由になっていいほどの苦労を、僕はそれほどではないけど、少なくとも先生とモエさんは、背負ったし、そして使命をやり遂げたはずだ。
でも先生もモエさんも、どういうわけか山を出ることなく、自然、僕もこの場に残った。
稽古が白熱し、僕が倒れ込むと、先生がそっとそばに腰掛ける。
体が回復するまでは、口伝で技を教えてくれる。
いったいどこで、どうやって学んだのか、先生の知識は有り余るほどで、僕が再現できるのはほんの少しだ。
季節が巡っていく。雨の日も、風の日も、雪が降っても、熱帯夜でも、休みなく稽古は続く。
稽古が終わると、モエさんが料理を作ってくれていて、夜食のような時間帯でも、それを三人で揃って口にする。モエさんもたまに僕に剣術に関する指摘をした。
こうなると、まるで僕の両親が二人のようにも感じられた。
僕の両親は、まだ健在だ。傭兵会社の人が、手紙を届けてくれる。
そんな日々が長く続き、その日もそんな一日になるはずだった。
朝起きて、軽い運動をして、近くにある罠を確認した。一つに小さなイノシシが引っかかっていて、まだ子どもだ。
殺すのも忍びないし、先生にも言われていることだけど、動物も植物も、取り過ぎれば、いずれは絶えてしまう。
僕はイノシシを逃し、手ぶらで小屋に帰った。
中に入ると、先生が文机にもしている手作りの台の上で、何か、手紙を書いているようだった。こちらを見もせずに、手が動き続けている。
モエさんは料理をしていて、すぐに食事になったけど、先生は動こうとしない。
「先に食べましょうか」
その言葉で、僕とモエさんで食事を先に食べ始めた。
イノシシの子どもの話をすると、モエさんは嬉しそうに笑っている。
先生もだけど、普段の様子からは、この人たちが超一流の剣士だとは、もう誰も思わないだろう。ではどう思うかといえば、うーん、うまい言葉が見つからないけど、世捨て人、だろうか。
こんな山の奥で慎ましく暮らす人間は、そうはいない。
そう、二人とも、世間に関わるつもりを全く持っていないのだ。
僕たちが自分の分を食べ終わる頃、先生がやっとこちらへやってきた。
「そろそろ薪を用意しよう」
粥が盛られた器を手元に引き寄せ、先生がそう言った。もうそんな時期か。
先生は片腕がないので、器を持つことはできない。匙ですくって口に運ぶけど、びっくりするほど綺麗だ。わずかもこぼすことがない。
なので、まるで無作法に見えない。
先生の食事を眺めているのも気まずいので、僕は先に支度をして薪を少しでも集めることにした。
小屋の外へ出ると、確かに風が少し冷えてきている。また雪の季節になる。
歩き出して、まずは遠くを目指す。いざという時、小屋の近くで薪を調達できるように、最初は離れた場所で薪を拾おう、と先生と二年前の冬に相談したのだった。
ゆっくりと山の中を進む。空気もどこか秋っぽく感じる。枯葉の匂いがどこからともなく漂う。
どこかで何かが動いた気がして、僕はピタッと足を止めた。何かの気配はあるが、動かない。
そっと身をかがめて、足元の石を拾い上げる。
ゆっくりと姿勢を作り、瞬間、腕を打ち振るって礫を投げた。
礫は木々の間を目にも留まらぬ速さで飛んだ。
何かが悲鳴をあげたが、そのまま走り去っていく。人間の気配ではない。すぐに木の陰になってしまって見えなかったけど、鹿だろうか。熊ではないはずだ。鳴き声が違う。
獲物を逃がしたことに肩を落として、また歩き出した。
薪に向いている木の枝はたくさん、落ちていた。それもそうだ、他に拾う者がいない。人跡未踏ではないけど、こんなところへやってくるのは猟師くらいだろう。木材を調達する業者もいるらしいけど、こんな山奥では、木を切り倒したところで運ぶのに苦労する。
その手の業者は川を利用するようだ。この近くにはないけれど、逃げ込んだ直後は、周囲を頻繁に偵察していて、その中で大きな川が流れているのを知った。そこで業者らしい数人の人間を見て、僕はモエさんを寝かせておく場所を変えた経緯がある。
薪がおおよそ集まったので、僕は来た道を引き返していく。自分の足跡がはっきり残っていた。見る人が見れば、すぐ気付くほどはっきりと。この足跡を辿れば、自然と帰れる。
歩きながら考えるのは剣術のことだ。
この山に逃げ込んで、先生が帰ってきてから、怒涛の日々だった。
様々な剣術を身につけた自負はある。でも、実戦は全くしていない。
なんのための剣術なのか、わからなくなっている自分も、少し、いる。
僕は過去に何人もの人間を切って捨ててきた。あの頃と比べれば、格段に技の幅は広がったし、技量は向上している。
でも当時の段階でも、僕を心底から脅かす相手はいなかった。
いたとすれば、首都でモエさんを襲った正体不明の化け物くらいだ。死なない存在だったのだろうけど、今でも夢、まさに悪夢としか思えない。
その例外を外せば、僕の剣術に対抗できる剣士は、ほんの一部だ。
そして僕はその一部の人たちを切る必要を、もう感じない。彼らは彼らで剣術を高め、磨いていけばいい。
僕が今やるべきことは、先生から受け継げるだけを受け継いで、生きることだった。
ここまで考えると、どうしても避けられない、巨大な虚ろが目の前に現れる。
僕はいつまで、ここにいるんだろう?
こんな山の中で、人生を終えるつもりなのか?
それが正しいことなのか?
でも、と僕は即座に考える。
先生とモエさんを置いてはいけない。
その言葉だけで、回答を先送りにして、僕はこの山で生きている。
目の前に生活している小屋が見えた。けど、僕の足は自然と止まっていた。
人の気配がなかった。
かすかに血の匂いがした。
(続く)