4.75-6 血塗られた道
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彼は逃したよ、とやはり絵画の最中に陛下が言った。
「彼とは、ミチヲ・タカツジですか?」
「そう、今頃はもう国を出ているだろう」
騒動から一ヶ月が過ぎていて、取り合い調べもなければ、私が面会しようとしても拒絶されていた。
なるほど、いないのか。
「彼が神だからですか?」
「彼は人間だよ。しかし、私は興味を失った。あれは人身御供にならない」
「あれほどの腕前でも、ですか?」
「触れてはいけないんだ、彼には。彼は人だが、人の中でも、導く人間であると感じた」
導く人間?
「例えば私、そして君だ」
陛下はそう言って、こちらに笑みを見せた。全くわからない。
「わからなくていいよ、エーナ。私たちは理解を必要としない。ただひたすら、自身の責任を果たすのみだ」
「私の責任とは、なんでしょうか?」
「それは君にしかわからない」
筆を置いて、すっと絵を眺めた陛下が立ち上がる。
「さて、少し歩こう。目が疲れた」
第一王宮には広い中庭がある。様々な木々が植えられていた。
「あの男には、誰も敵わないとわかったが、しかし私には彼を支配できた。それは見ていたね?」
木々の間を歩きつつ、陛下が話す。
「支配と言っても、我に帰らせた、という程度だが。彼はあの時、自身の内側に神と悪魔を持っていた。私の言葉で悪魔は去り、神も離れた」
何の話だろう?
「私たちもそうなるべきなのかもしれない。それが国を統べる者に必要なのだ。悪魔の心を持ち、神の慈悲を持つ。理想的だろう?」
「悪魔と神というのは、何かの比喩ですか?」
「信じるか信じないかが、重要だな」
陛下は笑って、先を進んでいく。
クーデターと剣士の襲撃の衝撃が消え去ってから、私は一度、父を訪ねた。
王都から馬車で半日の場所にあり、屋敷は近衛騎士が囲んでいた。
「陛下のお慈悲には感謝しかない」
父はそう言って、微笑んでいる。寝室で、私と父しかいなかった。
「どうしてこんな危険なことをしたのです?」
ずっと気になっていることを、やっと口にできた。父は微笑んでいる。
「陛下の信頼を得るためには、これくらいをしなくてはならん。シュタイナ王国とは、そういう血まみれの国なのだ」
「血まみれ……」
「全てが血を流すことで解決する。私がもし王になっていたら、同じことをしただろう」
それは、とふと思いついたことを口にしていた。
「王という立場が、父上を変えるということですか?」
「私の中にもそれがあるのだ。血を求める心がな。そしてきっと、お前にも」
私は今まで、何人かを切ってきた。必要のある行為だったと割り切っている。
特別なこととは思わなかった。高揚も落胆もなく、淡々と剣を振るった記憶がある。
しかしそれも、私の中の何かが求めていて、その何かが容認したがために、私は落ち着いていたのだろうか。
「陛下は今も、その心を抱えておられる。それは死ぬまで続く苦しみだ」
父の言葉には変な重みがあり、私は黙ってしまった。
その夜はその屋敷で過ごし、翌朝、馬車で後にした。
父は王都に戻りたいとは思っていない、と口にしていた。自分がいてもこれ以上は、ただ騒乱を起こすだけだ、と考えているようだ。
私は王都に戻る途中も、じっと、父の言葉を考えていた。
血を望む?
そんな精神が、あるだろうか。
あの剣士のことを思い出した。あの剣士は間違い無く、陛下を狙っていた。そして私とソラ、カナタにも向かってきた。
正気ではない。
だが実際に、彼は剣を振るい、挑んできた。
陛下もどこかで、密かに正気を失っているのか? そして私も?
わからないまま、馬車は王都に到着し、そのまま第一王宮に入った。
「どんな様子だった? 叔父上は?」
新しい絵を描きつつ、陛下が声をかけてくる。
「元気そうでした。もう王都には戻るつもりはないと言っていましたが」
「申し訳ないことだ。そのことはまた、議論することだろう」
私は陛下の背後に立って、そっとその絵を見た。
静物画で、さすがに上手い。陛下は武術を嗜まれない代わりに、絵画、舞踏、そして音楽を嗜まれる。
「君にもいつか、歩く道が見える」
陛下の筆が動き続ける。
「その時、私がどうしているかは、誰にもわからない」
ふと、父の言葉が思い出された。
私が歩く道とは、血にまみれた道なのだろうか。
他に道がないのだろうか。
「ゆっくりと考えればいい」
陛下は黙って集中し始める。私はその手元を見ていた。
ふと、剣聖のことを考えた。
剣聖の数がさらにもう一つ、欠けていて、十一人しかいないことを、陛下はそれほど気にしていないようだ。
そのことを尋ねたかったけれど、できなかった。
剣聖もまた、血塗られた地位であり、結局は流血を呼ぶだけだ。
私だったら剣聖を廃止するだろうか、と考えが及んた時、唐突に陛下が口を開いた。
「剣聖は国の支えだ」
まるで私の心を読んでいるようだったけど、私は平静を装って、頷いた。
「私もそう思います」
「国は弱きものを救わなければいけない。だが、全てが弱きものでは、救うことはできない。強きものを集め、また淘汰し、さらなる高みを目指す仕組みは、必要なのだ。正しい、悪しいを別にして」
「はい」
私が言葉に納得したのか、陛下は口を閉じた。
その翌日だったか、陛下も臨席する場で、剣聖を二人、補充することが決まった。
ついにモエ・アサギの欠番は解消されるということになる。
「どうやって決めたものかな」
陛下の言葉に、ソラ、そしてカナタが、近衛騎士から有望なものを探す、と主張した。私もそれ以外にないと思った。
ただ、フカミがこんな発言をした。
「若いものを選ぶべきです。騎士学校にいるでしょう」
議論は白熱したが、答えは出ないままで、その日は終わってしまった。
私の中では、フカミの方が正しい気がしていた。これから先へ歩んでいくものにこそ、力、地位が必要だ。
何より、剣聖の座が欲しいのなら、戦って奪えばいいのだ。
そう考えて、私も結局は血を求めているのか、と思い至った。
しかしそれがこの国の仕組みなのだ、と納得させるよりない。
強いものが上に立つ。
強いものが正しい。
弱いものは消え去るのみ、だ。
剣聖につける人間は、最終的には一人を近衛騎士から、一人を騎士学校から出す、と決まった。陛下は特に意見をせず、剣聖たちに決めさせた。
それから数ヶ月後、冬になっていたが、剣聖の披露が行われた。
近衛騎士から輩出された剣聖は、体格も良く、また力が漲っている。
一方の、騎士学校から選ばれた剣聖は、どこか線が細く、頼りなかった。
しかし未来には希望が持てる、と私は見ていた。この二人は、剣を合わさず、見るだけでもピークが違うのははっきりしている。
陛下の言葉に二人が頭を垂れる。
私はじっとソラ・スイレンを見ていた。
どんな顔をしているだろう? 不安を少しでも覗かせるだろうか?
彼ももう若くはない。交代する時が近づいている。
私の期待、願望とは裏腹に、ソラは微笑んでいた。
揺らがない自信を感じさせる笑みだ。
私の方がどこか不愉快になり、そっと視線を外した。
こうして剣聖は長いブランクを経て、十三人が揃った。
私の生活は、今までと何も変わらないが。
陛下のそばが、私の居場所であり、私は剣聖ではない。
血塗られた席は、私とは無縁だった。
(第4.75部 了)




