4.75-1 王宮の光景
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第一王宮の中の一室で、カイト・シュタイナ十三世陛下は、椅子に座り、書類を繰っている。
若い文官が緊張した様子で、机を挟んで向かい合っている。
静かな時間が過ぎ、すっと、陛下が書類を渡す。
「良いだろう、この通りに進めるように」
「はい!」
文官が頭を下げ、部屋を出て行く。陛下の護衛として室内にいた近衛騎士の脇を抜け、彼の姿が消えると、陛下が深く息を吐いた。
「この国も誰のためにあるのだろうな」
椅子に座ったまま、器用に向きを変え、陛下は窓の外を見た。
問いかけている相手は、私以外にいない。
「民のためです、陛下」
「民? 彼らは国の運営には一切加わらない。観客のようなものだ。観客のために我々、役者は演技を続ける、か。なるほど、それはおおよそは当たっているようだ」
陛下が、ぐっと椅子に沈むように体重をかける。
「国が滅べば、民の命が失われる。民の命が失われれば、国が滅びる。両者はその点では、運命共同体だな」
「まさにそうです、陛下」
「しかしそれは人の視点だ。神はもっと大きなものを見る」
神。私も繰り返し聞かされている。
シュタイナ王家が最も重要視する概念。
そして、シュタイナ王国の密かな君主。
「我々は常に、強きものを探し出し、育て、散らしてきた。血と肉と精神は、神に捧げられてきた。それが始まりのあの方が見つけ出した、国を残す方法だった」
陛下は、剣聖の仕組みのことを言っているのだ。
「剣聖と名をつけ、奴らを殺し合わせる。強い力は新しい強い力に塗り替えられる。古い強きものは国の礎になる。このことを民が知っても、民は動揺もしないだろう。彼らは観客である。この一点では、彼らはまったくの観客だ。その点では、剣聖は選ばれた、血を流すという尊い役目を持つ、至高の存在だ。そこに始まりのあの方の意図がある」
陛下はいつの間にか私を見ていた。
静かな瞳だ。まるでに何者でも見通せるような、深い瞳。
「少し踊ろう」
唐突に立ち上がった陛下が、壁際のレコードプレイヤーに向かい、素早く音楽を流し始める。
初めてではないので、私はそっと陛下に歩み寄る。
二人で手を取り合い、踊り始める。
音楽にかすかなノイズ。
「叔父上はお元気か?」
「お父様は、最近は横になっている時間が増えました」
「近いうちに見舞いに行こう」
「ありがとうございます」
私と陛下が親しげに話せるのは、私が王族の一員であり、陛下といとこ同士だからだ。
私の父、オリト・ロウンドローブは先王の弟である。その一人娘が、私、エーナ・ロウンドローブ。
父には爵位が与えられているが、私には何もない。
そもそも存在自体が秘されている。これは先王陛下の御意志らしい。
私が幼い頃に亡くなった、その偉大な人。
私は幼い頃から精神剣に目覚め、王族は騒然とした。まさか剣聖の座につけるわけにもいかない。剣聖というのは殺し合いを是とする場所であり、王族がそんなことで死んでしまうわけにはいかない。
先王陛下は側室を置かなかった。
後継は十三世陛下お一人で、先王陛下が亡くなられた時、王位継承権は、父が第二位、私が第三位となる。
この程度の予測はすぐ立つわけだが、先王陛下は、私を自分の唯一の血筋である方の護衛に、と考えた。
それはただの護衛、警護ではなく、国の運営、表も裏も、知っているように、という意図もあったらしい。
事実、代替わりして、十三世陛下の治世になると、私は陛下のそばにいることが多い。
陛下も私に様々な相談をなさる。
だけど私にはわからないことも多い。
この日も踊りの練習をしながら、陛下は国の運営について話し始めた。税率、インフラの整備、外交。多岐に渡る話題にも、私は今では少しは意見を言える。
その意見を陛下は吟味するようだが、すぐに私の意見の不備を指摘する。
この方はどこで何を学んだのか、いやに鋭いのだ。
「剣聖を征伐することを考えている」
ステップを踏みながら、唐突にその話は始まった。
「人身御供としての剣聖の力を、再確立する必要を、私は感じている」
「モエ・アサギのことですか?」
私は聞き返しつつ、考えた。
彼女は私とそれほど年齢が変わらない。三十をいくらも超えているはずだ。
ピークではないと思うが、技は練り上げられ、難敵だろう。
「今は」私は慎重に言葉を選んだ。「パンターロで落ち着いていると聞いています。もはや考える必要はないのでは?」
「あの娘は餌だ」
餌? 陛下の顔を見ると、穏やかに笑っている。
「あの娘のそばにいる男が、重要なのだ」
なるほど、と私は心の内で納得した。
「ミチヲ・タカツジ、ですか?」
「全ては我々の不手際だ」
少し顔をしかめる陛下。我々、というのは別に陛下と私ではなく、国のやり方だろう。それをはっきりさせるように、陛下が言葉を続ける。
「剣聖に同行した文官が買収され、むざむざ、取り逃がす。愚かしいことだ」
それは私も知っている話だった。
すでに十五年以上前だが、辺境の村で、剣聖は巡察の中で、有望な少年と出会った。
それがミチヲ・タカツジだった。
だが、剣聖に随行していた文官が村の有力者に買収され、その掃いて捨てるほどいる無能な男の息子、その婚約者が、剣聖候補生とされ、ミチヲは放置された。剣聖になれば縁組もなくなあると考えなかったのか。
なんにせよ、その偽物の剣聖候補生がモエ・アサギなのだが、彼女にも図抜けた才能があることは、はっきりした。彼女は騎士学校で学び、最終的には剣聖の一角に上り詰めた。
その一方で例の文官は、あっさりと事実が露見し、処刑された。その文官を制御できなかった剣聖の方は、あっさりと近衛騎士の挑戦に敗れ、死んでいた。
そうして長い間、ミチヲは放置されたが、それが奇妙な事態に発展していく。
モエが前触れもなく剣聖でありながら逃亡し、そこにミチヲが合流した。
査問部隊は二人に退けられ、そのまま二人は始祖国アンギラスへ密入国する。
その異国で、筆頭剣聖であるソラ・スイレンと渡り合ったと聞いた時、私も陛下も、目を丸くしたものだ。
剣聖候補生になる素質はあったのだ。しかしまともな教育を受けたようでもない。
そしてソラ・スイレンは精神剣の使い手だ。
最初はただ、モエを放置する気にならなかっただけのような陛下だったが、何かを感じたらしい。
ソラが帰国して、陛下はモエとミチヲを放置する意思を示した。
しかし実は一方で調査は進めていた。
なぜ、ミチヲはそれほど強いのか。精神剣というより、精神器を使うらしいとはわかったが、どのような性質かは、すぐにはわからなかった。
ソラからだいぶ遅れて報告書が届き、それによると、ミチヲは知覚が特殊らしい。一方で戦闘力、つまり攻撃と防御には使えない精神剣だという。
つまりは精神剣ではなく、精神器となる。
その報告書を私に渡しつつ、陛下はこう口走った。
「神の目だ。なんてことだ」
私にはあまり事情が分からなかった。
「あの男は、お前を超える」
そう陛下が口にして、私はふと自分のことを考えた。
王族にして、剣術を使い、精神剣を持つ。
それをミチヲというただ一人の、何の地位もなく権威もない、逃亡者の男が、超える?
私の意識はたった今のダンスに戻った。
「不手際など、過ぎたことです、陛下。二人を消すのですか?」
「あの二人の血により、我が国はまた一歩、強靭になるだろう。だが、それ以前に私はミチヲ・タカツジに興味がある」
「どこにですか?」
陛下は答えずに、ステップを踏み続ける。
レコードの針が自動で持ち上がった時、「疲れた」と陛下が口にした。
私はミチヲ・タカツジについて考えていた。
(続く)