3.25-7 見えないもの
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屋敷はキラたちに与えて、私はもう一度、旅に出た。
アンギラスへ密入国するつもりだったが、考えを変えて、オットー自由国に、堂々と医者として入国した。オットー自由国は、才能さえあれば身を立てられると聞いていたが、それは本当らしい。
シュタイナ王国の王都にあたる街、中央市で私はいきなり、医者を始めた。
元手になったのはキラたちが渡してくれた金で、私は遠慮したが、受け取っていた。これでは屋敷を彼女たちに売ったようなものだ、と考えて、一時は気が重かったものだ。
中央市の空いていた建物の一フロアが、私の生活の拠点となった。
最初こそ閑古鳥が鳴いていた。しかしじわじわと人が集まるようになった。
私が力を注いだのは、貧困層への対応で、それに合わせて診察料を設定した。そのうちに病院には富裕層は少しも来なくなり、薄汚れたもの、浮浪者の病人が列を作った。
私の病院は中央市で「掃き溜めの病院」などと呼ばれ始めたが、構わなかった。
私が過去に学習したオットー自由国の言葉は、長い時間でだいぶ不自由になっていたが、患者の一部が、診察料を払う代わりに言葉を教えてやる、などと言い出し、私はそれを受け入れた。
ただそのまま受け入れるのも癪で、彼らに言葉を教わる一方で、私はシュタイナ王国の言葉を彼らに教えた。その教室は、ある種のサロンのようなものを形成した。
ある時、若い身なりのいい男がやってきて、こんな話をした。
「学校の教師のポストが空いているのですが、いかがです?」
「何の学校かな」
「医学校です。私立ですが。私の父親が学長なのです」
私は即答せずに、その彼に色々と質問をしてみた。彼自身も外科医をやっていて、私でも噂で聞いている富裕層向けの病院に属しているという。
「外科医は不足しています。あなたの才能が、浮浪者のためにあるとは思いたくない」
彼は本当に悲痛そうな顔でそういったが、私は思わず笑っていた。
「浮浪者にも医者は必要ですよ。そう、私のような医者を量産していいのなら、その医学校で教鞭を執りましょう」
そんなやりとりもあった。
それから半年間、彼は頻繁に私の病院にやってきたし、そこにいた患者に私に見せつけるように処置を施したりした。
彼の腕は確からしい。私とは違う理論で対処する場面もあるが、問題はないようだ。
結局、私は彼の話を受け入れた。
私が所属することになった医学校は、オットー第三医学校、という名前だった。ここでも第三か、と変に感慨深かった。
経営する病院は知り合った、信用のできる医者に一部を任せ、私は医学校の教師と医者の二足のわらじを履くことになった。もちろん、自ら望んでそうしたのだ。不満は少しもなかった。
医術の進歩は日進月歩で、止まることを知らない。
たまに間違った道へ進み、そのまま奥深くに入り込むこともあるが、どこかで本当の知性の持ち主、正しい目の持ち主が気付き、それを修復するのも、見ていて感じる現象だ。
失敗しながらも、最後には正解に辿り着く。
私も同じなのだろう。
不意に怖くなるときがあるのは、私が犠牲にしてきた人間が、蘇って私に復讐するのではないか、ということだ。夢でもそういうシチュエーションが繰り返され、その度に私は汗まみれで跳ね起きる。
死者が復活することはない、と理解はしている。
頭にはどうしてもキメラのことが浮かんだ。
キメラは死なない。永遠に生き続けるのだろう。そんな存在を、私は非道な方法で、研究し尽くした。
私は復讐されてもおかしくないことをしたのだ。
医学校からは続々と卒業生が生まれ、オットー自由国のそこここに散っていく。そして新しい学生もやってくる。
「こんなところにいるとは思いませんでしたよ」
ふらっとやってきたその女性に声をかけられたのは、講義が終わった直後だった。
年齢は四十代に差し掛かろうか、というとことか。講義の最中に彼女に気づき、どこかで見た顔だが、なかなか思い出せなかった。
だが、声を聞いて記憶が繋がった。
「サリー! サリーじゃないか!」
「気づくのが遅いですよ」
ブスッとした顔になり、彼女は表情を微笑みに変えた。
その夜は二人で長い時間を話して過ごした。
彼女はいくつかの全く新しい薬を開発し、今は薬草に頼らず、化学を取り入れているという。オットー自由国へ来たのは、その化学のための器具を揃えるためらしい。
それが私の噂を聞き、ここまでやってきたというのだ。
「薬に化学を使う時代が、ついに来るのか」
感慨深げに私は声に出し、ふと気づいた。
自分の手を見てみる。筋張っていて、シミもあり、シワも目立つ。
あまり鏡を見る機会もなかったが、時間は確かに過ぎているのだ。
私は今、何歳になったのだろう? そして何歳まで生きられる?
「どうしたんです、先生? 急に手を見たりして」
「いや、時の流れを理解したんだ」
「自分の手を見て、時間の流れを感じる、って、歳をとったということですよ。誰もが歳をとりますからね。私もそろそろ、鏡を見るのが怖いです」
彼女の冗談に思わず笑いつつ、外を見た。
カーテン越しに朝日が差し込もうとしている。
「次はどこへ行くつもりだ?」
「残っているのはパンターロですが、行くかどうか。時間次第です」
「若いのだから、自由にするといい」
その日は二人で朝食を食べ、その店の前で別れた。
「ではまた。お元気で」
「お互いにな」
あっさりとした別れが私たちの常だ。またいつか会えると、何故か確信しているような、そんな別れ方が、私は好きだ。
その日も医学校で教壇に立ち、午後には自分の病院で浮浪者の診察をした。
語学を学ぶサロンは、浮浪者と富裕者の二回に分けられている。私が最近、考えているのはこの財力による差別意識をいかにして取り除くかだった。
これは医学の分野ではなく、政治に近いと気づいている。
ただ、私の見える範囲だけででも、彼らが理解し合うのは好ましいと感じる。
私は浮浪者に仕事を斡旋したりもしたが、これは富裕層の患者が何人も苦情を訴えたので、不可能になった。
私からすれば、誰もが同じ人間だ。
そのことを強く意識するのは、私が人間ではないものと関わったからだろうか。
人間の知性は、倫理は、人間だけでは完成しないのだろうか?
完成させるために、何が必要か。それはどうしてもわからない。
オットー自由国の中央市で何度か冬を越えた時、突然に病に襲われ、私は倒れた。
寝台の上で動けない日々が続き、意識も朦朧としていた。
寝台の脇に、誰かが立っている。真っ黒い影が直立したような、不気味な存在。
そのシミが私に忍び寄ってくる。そうしてじわじわと私を飲み込もうとする。
悲鳴をあげることはできなかった。その力さえない。
私は自分の生命力が失われていくのを感じながら、必死に目を閉じた。
見えなくなる。
見えなくなれば、安心できる。
不意にあの老人のことを思い出し、一人の剣士のことも思い出した。
彼らは何を見たのだろう? 彼らは目を閉じて、それで何も見なくて済んだだろうか?
私はじっと瞼を瞑りつつ、念じていた。
見えないようになれ。
もう、私に見せないくれ。
何も、何も見せないでくれ!
時間はじわじわと、進んでいた。
(第3.25話 了)