3.25-6 最後の言葉
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ミチヲは失った腕を取り戻し、私がたどり着けなかった何かにたどり着いたようだった。
彼を見送ってから、私はこっそりと山の奥の洞窟を目指した。
ミチヲに伝えた場所は、以前、フカミが私に教えた場所だった。あそこには何もいなかった。いや、実はいたのかもしれない。
私には見えなかっただけで。
洞窟にたどり着き、奥へ進んだ。あの開けた場所に出る。
時間帯はやはり昼間で、外の明かりが差し込んで、まるで地上と変わらない明るさだ。
私はそこをじっくりと観察した。
かすかに黒いシミが無数に飛び散っている。どうやら人間の血のようだ。
つまり、ミチヲは何かと争った。そして、勝ったのだろうか?
「あなたは全てを見通していたのですか?」
洞窟の奥へ声をかけたのは、ほとんど直感だった。普段はまるで使われない私の直感が、その時は発揮されたようだ。
滲み出すように、フカミが現れた。いつも通りの姿だ。
「私によく気づけたものだ」
勘だった、とは流石に言えない。
「彼の存在を知っていた?」
「何度か顔を合わせたな。だがあそこまで適応するとは、予想外だった」
「キメラの研究も、彼のために?」
近くの岩にそっとフカミが腰を下ろした。私も近くの岩を選んで、腰掛ける。
「お前は勘違いをしているが、私が言えることは、あの男がたまたま適任者だった、ということだ。あの実験は誰のためでもない。もし誰かのためだとすれば、それは私たちのためだ」
「あなたは何者なのです? 人間ですか? それとも、キメラ?」
「キメラとも言えるが、キメラは私たちの一部に過ぎない。私はもっと大きなものだ。形があり、形がなく、生きており、死んでいる。情報であり、物質である。わかるかな?」
「何も、何もわかりません」
ふむ、とフカミは頷いて、「素直でよろしい」と囁くように言った。
「理解できるなどと思うな。全ては私たちが決める。運命さえも」
神なのか。
そう言いかけて、止めた。
彼らは初めから自身を明らかにしている。
神の一角。そう、表現したではないか。
では私たち人間にできることとは何だろう? 彼らを崇めること? 服従を誓うこと?
不自然なのは、私や仲間にキメラを研究させたことだ。
彼らが神ならば、私たちに理解させたり、あるいは理解を促したりすることは、無意味だ。
「神の座から降りたのですか?」
思わず言葉にしたのは、瞬間的に閃いた結論だった。
彼らは神でありながら、神であることをやめた。
万能の力を捨てた。だから、キメラについて知ることができない。
つまり、それは……。
「万能の力で、万能を消滅させる? しかし、なぜ?」
「万能か。お前の思考は面白い。事実はそこまでドラマチックではない」
フカミが微かに顎を上げ、頭上を見上げるようなそぶりをする。
「私たちには神でい続ける力がなかった。それだけのこと。世界は今も激しく流れ、私たちもそれに翻弄された。仲間を失い、知識も失った。今は人間の時代だ」
「あなたたちを知れば知るほど、人間は弱い力しかありません」
まるで私は許しを請うように、そう言っていた。そうでなければ、まるで懇願しているようだった。
人間に教えてくれ、導いてくれ、と。
しばらくの沈黙の後、ゆっくりとフカミが立ち上がった。
「お前はこれからどうする?」
世間話でもするように、尋ねられ、私は答えあぐねた。
「あの老人の願望を叶えたのだろう?」
どうやら全てを知っているらしい。
「しばらく、休もうと思います」
「疲れたか?」
疲れはここのところ、ずっと感じなかった。何かに熱中しているうちは、疲労など感じない人間なのだ。
それが今、唐突に放り出されたような形になった。
疲れているかもしれないが、まだ先へ走りたい気持ちもある。
「ゆっくりするといい。それと」フカミが笑みを見せた。「もうキメラの細胞を持ってはいないだろうな?」
それも知っているのか。私は万歳をするように手を挙げてみせた。フカミ相手にふざけすぎた気もしたが、ふざけたい、おどけたい、そういう気分だった。
頷いて、彼は洞窟の奥へ行ってしまった。
結局、彼は、帰って来いとも、帰ってくるなとも、言わなかった。
私はどうやら本当に自由になったらしい。
来た道をたどって外へ出た。そのままゆっくりと山を抜け、老人の家に向かう。
もう住む人もいないが、どうすればいいのだろう。遺品の整理くらい、するべきだろうか。
小屋に辿り着くと、サリーが料理をしていた。
「どこへ行っていたのです?」
「いや、昔、訪ねた場所を確認してきた」
「あまり私を不安にさせないでくださいよ」
サリーにしては弱気なことを言う。
夕食を食べ、二人でこれからについて話をした。サリーはこのままアンギラスの方々を巡ってみたい、と言う。私はまだ決めていないとしか言えなかった。
シュタイナ王国へ戻るのはやや不安だが、しかし、キラを残してきた屋敷を確認したい気持ちもある。アンギラスで薬草を探すサリーに同道するのも、それはそれで魅力的だった。
体が二つか三つあれば、と思わず考えていた。
翌日になって、私たちは小屋の中を片付け、老人の持ち物を整理した。親族もいないようだし、誰も引き取る者もいない。近くの村の者も、前に話を聞いた感じでは、望んでここへは来ないだろう。
家具の類を、私とサリーで外へ運び出し、燃やした。
その時には小屋自体も燃やしてしまおう、と二人で結論が出た。
昼に屋敷に火を放ち、私たちはそれを眺めた。夜になっても燃え続け、村人が何人か、様子を見に来た。
完全に火が消えたのは翌朝で、私たちはそこで別れた。
私は結局、サリーとは別行動を選んだのだ。一度、シュタイナ王国へ戻ろう。キラとその夫と話し合いをしなくてはいけない。
あの屋敷は彼女たちに渡すつもりになった。その手続きが終わったら、もう一度、アンギラスへ来よう。私は私で、この異国を辿れるだけ辿る。
「では先生、ご無事で」
「お前もな」
あっさりと私たちは背を向けて、それぞれの道に進んだ。
冬になる前に私は自分の屋敷に辿り着いた。花壇にはもう花はないが、手入れはされている。屋敷を囲う柵は、私が知らない間に蔦が密集している。
屋敷に入ると、見知らぬ女中が掃除をしている。
「どちら様ですか?」
私は思わず笑っていた。
「この屋敷の所有者だが」
女中は飛び上がらんばかりに驚き、「奥様! 奥様!」と叫んだ。
他に二人ほど女中が出てきて、それからその女性が現れた。質素な服を着ている女性は、私が最後に見たときより、だいぶ大人びていた。
目を丸くして、それから潤ませて、こちらへやってくる。
彼女は何も言えずに、私に飛びつくと、声を上げて泣き始めた。そのうちに、彼女の夫となったという医者も顔を出した。
その時も、キラは泣き続けていた。
(続く)