3.25-4 影と汚れ
◆
老人がある夜、私と向かい合っている時に、不思議な話を始めた。
「お前の背後には影が見える」
「影?」
「影としか言えない。真っ黒い、しかし生きている影だ」
ふむ、と私は何気なく背後を見るが、もちろん、何もない。そこにあるものといえば、まさに明かりよってできている私の影だけだ。
「その影は、お互いを喰らい合っている。しかし命が失われているわけではない。二つがひとつになり、ひとつが二つになる。それが時にはもっと増え、時にはひとつだけになる。その命は、ひとつの中に無数を内包しているのだな」
そのような存在を、私は知っていた。
キメラだ。あれもひとつが二つになる、それは確かだ。
だが、二つがひとつになる?
「ひとつから無数に増えるのですね?」
まずはそこから、と私は質問する。老人はそっと笑った。
「無数という概念ではないな。体がいくつになろうと、それは一つなのだ。ひとつが二つになるのは、一人と一人がいるのではなく、一人が二人になる、という言葉が正しい」
まるで言葉遊びだ。
「そして、やがては一つに集約される?」
「それもまた言葉の上では、二人が一人に戻る、ということになる。実際にはお前の背後を見る限り、二人や三人ではない、はるかに大きな数の影がいるようだ」
実はこの老人の謎掛けは、重大な意味を持つのではないか?
「その影は私たちとどう関係するのですか?」
「あれは神と呼ばれているものに近い。だが、決して表舞台には立たないようだ。人間に興味はないが、人間は影に興味を持つだろう」
「神……」
神の一角、と彼らは名乗った。
自身が神と自覚する神がいるか? 神という概念は、私の好む学問からは遠い。
確かに、生命を生み出すためには神という超常の存在が必要だ。
例えば死体をつなぎ合わせても、生命が宿ることはない。血液を入れ替えても死体は蘇らないのだ。
逆に生きている人間に、別の人間の手足を繋ぐことは、場合によっては成立する。その他人の手足が、まるでその人のもののように機能することが、これも稀に存在するらしい。
両者の間にあるもの、ないものは、何か。
それが科学者たちが「神の息吹」と呼ぶ、超常の力なのだ。
人間には生み出せない、魂というもの。
「影は生きてはいない」老人が呟く。「生きていないが、生きているように振る舞う。しかしそれは人間もそうだろう。人間は生きているように見えるが、生きていない人間もいる」
「チルドレンのことですか?」
思わず問いかけていた。
チルドレンこそ、生きているように見えて、生きていない人間、と私は直感した。
老人はわずかに目を細め、首を横に振った。
「わからないな、その名は知らないから。だが今、お前の背後に立っている影の大半は、人間の形をしている。顔はない。個性がない。だが、そこに確かにそれは立っている」
恐る恐る、私は背後を見た。
そこには、やはり何もない。
それでも恐怖は、消えなかった。
「お前を常に狙っているものがいる。近くに、遠くにそれが見える」
老人が滔々と続ける。
「お前が何をしたのかは、私には認識できない。ただお前の手は、命に汚れている」
手元に視線を落とす。綺麗な手だ。
「確かに、命に汚れていますね」
そう答える私に、もう老人はそれ以上、続けなかった。
沈黙がしばらく続いて、老人が言った。
「ここへ来るのは、最強の剣士だ。そのものに、私の目を与えたい」
最強の剣士? 誰のことだろう。
質問したかったが、外に人の気配がした。私は黙って、そちらを見た。戸が引き開けられ、サリーが入ってくる。荷物は食料だった。
「おかえり、サリー」
サリーはムッとした顔のまま、入ってくると、すでに出来上がっている鍋の中の粥を眺め、「これも入れますね」と手に握っている山菜を示す。
手早く山菜を洗い、それは切られて鍋に放り込まれる。
しばらくして夕飯になった。
翌日、サリーに誘われて山菜を取りに外へ出た。
「村人がだいぶ、あの老人を怖がっています」
「おかしなことを言うからだろう」
そう答える私に、サリーが眉をひそめる。
「どうやら、人を切ったことがあるらしい。それも何度か」
「剣を持っているからな」
老人の小屋には一本の剣があり、常に老人の手が届く距離にあるわけではないが、あることにはある。
「それもあって、あの小屋で生活している?」
私が問いかけると、サリーは首を振った。
「あまりわかりませんでした。村人は積極的に話そうとしませんし」
山の中で薬草や山菜を手に入れて、私たちは小屋に戻った。
老人は一人で薪を割っていた。こうして離れて動きを見ると、老人の動きは敏捷だし、安定している。剣術について私にはほとんど知識がないが、サリーはどう見ているのだろう。
「使えるかな?」
さりげなく尋ねると、サリーから「使えます」という短い返事がある。
剣術を使えます、ということか。
私たちが食事を用意し、老人も薪を割り終わって戻ってきた。無言のまま私たちを見ている。
何を見ているのかはわからない。この老人の瞳は、やはりどこか不自然に感じる。
人間の目ではないのかもしれない。だから、私には見えないものが見える。
昼食の後、急に老人がどこかを眺めた。何だ?
「ついてきなさい」
言うなり老人が立ち上がった。そのまま外へ出て行く。私たちも素早く後に続いた。
老人にはどこか切迫した雰囲気があった。
小屋から離れ、川の方へ行く。堤防を上がり、河川敷へ降りた。
誰かが倒れているのに、すぐ気づいた。老人もそちらへ向かっていく。
抱え起こした男は、両手に剣を握りしめていた。
「あ!」
唐突にサリーが悲鳴をあげたので、私も、そして珍しく老人も、そちらを見た。
「どうした?」
「いえ、その男は……」サリーが言い淀んだが、どうにか続けた。「知り合いです」
「そういう導きでもあるのだろう」
男から剣を引き剥がし、老人が力強い動きでその体を抱え上げるが、背中が真っ赤に染まっている。
どこでどう戦ったか知らないが、治療をする必要はある。
老人が足早に小屋に戻り始める。剣はサリーが持った。
小屋に戻り、私とサリーは即座に動いた。治療が必要だ、それも即座に。
老人が湯を沸かし始め、サリーは薬を準備する。
男をうつ伏せに寝かせ、背中の服を切り裂き、剥がす。
かなり深い裂傷がそこにあった。剣で切られたような鋭さはない。強烈な力を加えられたような印象だ。
丁寧に縫えるような傷ではない。私は囲炉裏へ行き、手術道具の中にある鉄の棒をしっかりを炙った。
高温になったところで男の元へ戻り、今も血を流している部分を、鉄の棒で焼いていく。
縫合に移り、どうにか形にする。
その頃にはサリーの薬も出来上がっている。
男は意識不明で、ただし高熱を発している。老人の部屋にあった布で汗をぬぐってやる。
サリーの薬を無理やりに飲ませ、私たちは様子を観察する他になかった。
男はなかなか目覚めなかった。
一週間が過ぎて、やっと熱が下がり始め、安堵した空気が広がったが、サリーは薬が足りないと言って、頻繁に出かけていくし、私も傷口の状態が不安で、落ち着かなかった。
老人だけがどこか超然として、そこにいた。
そうして、その日がやってきた。
(続く)




