3.25-3 再びの異国
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聖都では私はサリーの補助のようなことをして、日を過ごした、
彼女は私に研究のことをほとんど聞かなかった。一度だけ、
「もう研究はいいのですか?」
と、尋ねてきたが、私が曖昧な返事をすると、もうそれきりにしたようだった。
彼女からは意外な話もあった。
「キラが結婚したことも知らないのでしょう?」
「キラが?」
彼女は私の屋敷に残っており、私とはもう何年も顔を合わせていない。
彼女と数人の弟子が私の屋敷を管理しつつ、細々と診療所をやっているはずだ。
「誰とだね?」
サリーが口にした名前に、私は思わず、なるほど、とつぶやいていた。
その男は確かな腕前があるし、人間としても優れている。
何より、私のように仕事に没頭し始めると、周囲が全く見えなくなるタイプではない。ちゃんと気を配れる男だ。
「幸せだろうな、彼女も」
「何を言っているんですか、先生。そう思うのなら、直接に会って祝福の一つでもしてあげてくださいよ」
聖都で冬を過ごし、二人で春先にはそこを離れた。
「そういえば例のご老人と、何回か会っているのですが」
「うん、お元気そうか?」
「もちろんですよ。ただ、先生に言伝があったのを、ふと思い出しました」
なんだろう? と思うと、サリーも不思議そうな顔をしている。
「眼球の移植手術の訓練をするようにとのことです」
「眼球……?」
訳のわからない言伝だった。
シュタイナ王国の中でも数人の外科医が、眼球の移植には成功している。そしてそのうちの一人に、私も含まれる。
その技術はキメラやゼロ、チルドレンに対する実験の中で十分に磨かれているので、道具と環境さえ揃えば、やってのけることは難しくない。
ただ、誰の眼球を、誰に移植するのだろう?
「不思議なご老人なのです」
どうやらサリー自身はその言葉で、好奇心を抑え込んでいるらしい。
二人で山岳地帯に分け入り、様々な薬草を採取した。サリーの知識はすでに私のそれを上回っていると、はっきりした。
何せ、私が知らない薬草も多いのだ。私がシュタイナ王国にこもっていたからではなく、サリーはサリーで新しい薬物を探しているのだ。
そしてその探索は、素晴らしい成果を上げつつある。
山の中で野宿することになり、サリーは周囲に狼除けという粉を撒いて、戻ってくる。私が山菜の入った粥を小さな鍋の中でかき混ぜ、椀によそうと、彼女は礼を言って受け取った。
「こうして山の中にいると、自然というものを感じますね」
急にサリーが話し出した。
「自然というのは、生まれ、生き、死ぬことです。私たちを取り囲む木々も、何十年も前に種から芽吹いて、今まで生き延びて、一本の木となっている。それって、凄いことじゃないですか?」
「時間というものは確かに、感動的ではある」
「私たちが死んでもこの木は残ります。そうしていつか、何かの理由でこの木も生命を終える。不思議なのは、樹木というのは生を終えても、形としては残ることです。死んでいる木が森には無数にある。では木々の生命の終わりとは、いつなのでしょうね。成長を終えた時? それとも塵に還った時でしょうか」
なにやら難しい問答になったな、と思って、私はかすかに笑っていた。
「樹木にはどうやら意思がない。意思疎通ができないのでは、そもそも、どの段階で死が訪れたかを把握できない。それは人間にも言えることだ。怪我を負い、意識を失う。それでも心臓は動いている。医者は心臓が止まった時を死と定義している。では、樹木に心臓はあるのだろうか。樹木に耳をあてると、水を吸い下げる音が聞こえる。それが心臓の鼓動と同義か。考えることは多いな」
私はゆっくりと粥をすすった。
「生命の謎はやはり、人が踏み込むべき場所ではないですね」
さらっとサリーがそう口にした時、今の話は遠回しに私を戒めているのだな、と気付いた。
キメラを良いようにして、チルドレンまでたどり着いた私に、生命というものを再確認させたのだろう。
チルドレンのことは、私の頭から去ることはない。
あれは、私が犯した最大の罪だった。
生命を生み出した、生命を操った、それはとんでもない快感だったし、興奮を伴った。
だが今になってみれば、それはまさに冒涜だった。
犯してはいけない罪。超えてはいけない一線。
それらをすべて薙ぎ払って、私は愉悦に浸っていた。
愚かしいことだ。
夜は静かに更け、そして明けた。
「あの老人を訪ねてみますか?」
不意にサリーがそういったが、私には自分が今、アンギラスのどこにいるのかもわかっていない。時間があるとサリーが地図を持ち出して、私に現在地や方角の知り方を教えてくれるのだが、なかなか頭に入らなかった。
私も年老いているのだろう。
自分の衰えに、不思議と恐怖は感じなかった。
「私も会ってみたいと思っていたよ。すぐ近くか?」
「五日ほどでしょう。行きますか」
私たちは五日間、黙々と歩き続け、山を降り、上がり、また山に分け入った。
そうして夕方には懐かしい小屋が見えてきた。近くを川が流れている、その音が聞こえた。
「こんばんは」
サリーが先に小屋の中に入り、私も続いた。
例の老人は、こちらを見据えて、無言だ。これにはサリーも戸惑っているようだった。
老人は少しすると瞼をパチパチさせ、わずかに笑った。
「また会えて嬉しく思う。薬師、そして医者の方」
私たちは顔を見話せたが、奥へ進んだ。
「夕飯を振る舞おう。質素なものだが」
老人が調理場に立ち、すぐにサリーが歩み寄り、何か話し始めた。彼女の手には山菜があり、老人は頷くと、それをまな板の上で切り始めた。
そんな二人の様子を、私は黙って見ていた。
夕飯になり、老人がやっと口を開いた。
「言伝は伝わっているか?」
「眼球のことですね? まだ器具が全て揃いませんが、技術には問題ないと思います」
「よろしく頼む」
「誰の眼球を移植するのです?」
老人が微かに眼を細める。
「私の眼球だ」
……なんだって?
場に沈黙が降りるが、老人は気にした様子もない。
「私はその時、死んでいるだろう。あなたは、私の言葉を形にしてくれると信じている」
サリーを伺うと真っ白い顔をしているが、真剣な様子だ。
「誰に移植するのです?」
「いずれここに、私の目を必要とするものがくる。私はそのものに瞳を譲る。それが定めなのだよ。避けられないことだ」
理解できなかった。妄想だろうか。
ただ、私にはキメラを前にした経験があった。全く違う要素だが、この老人の不思議さ、奇妙な様子は、キメラの異質さと比べれば、許容できる。
「とりあえずは、承りました」
私の言葉に、老人が深く頷く。
「その瞳には何が見えるのですか?」
自然と尋ねると、老人も穏やかに答えてくれた。
「何もかもが見える。見えないものが、見える」
謎掛けのようであり、はぐらかされているようでもある。
どうやっても私には見れないのだ、真相を知ることはできないだろう。
「頼りにしている」
老人が珍しく、笑った気がした。
(続く)




