2.75-7 奇妙な瞳
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フカミが私の元へやってきて、唐突にその話を始めた。
「アンギラスへ行くと良い」
「研究はどうなるのです?」
私はゼロに関する研究に、自身は欠かせないと考えていた。
それをアンギラスへ行っていては、他の研究者にも遅れを取るだろう。
「あまり、嬉しいお話ではありません」
「神の一角が、お前を待っている」
ゾッと背筋に寒気が走った。
神の一角。それは、あの地下にいる存在と同じものなのだ。
それがなぜ、私を?
「復讐ですか?」
わずかに表情を緩めたフカミが、首を振る。
「我々としてもお前には価値を見出している。それに」
フカミがさっと手で自分の首のあたりを払った。
「お前を処分する気になれば、即座にできる」
それもそうだ。フカミが手を汚すまでもなく、私には近衛騎士を一人、ぶつけるだけでいいのだ。
「それで、ゼロはどんな具合かな」
世間話のようにフカミが話題を振ってくる。
「ゼロは自身の原型である被験者の経験を引き継いでいるようです」
私の発言に、フカミは軽く頷くだけだ。
だがこれは恐ろしいことだった。
今、ゼロは一体が活動し、徹底的に調べられている。その中で、抜群の剣術を使うとわかっている。それも誰かが教えたのではない。初めから知っていたのだ。
他にも文字に関する知識もある。
私たちは彼に語学を教え始めた。どの程度の理解力があるのか、記憶力があるのかを知りたかった。
それもまた、ゼロは完璧にこなした。彼は今、三ヶ国語を話す。
「恐ろしいかね?」
フカミの挑むような言葉に、私はモゴモゴと答えるしかない。
「恐ろしいですが、楽しみでもあります……」
ゼロがこの先、どうなっていくのかは、研究者の誰もが注視していることだ。
しかし私にはアンギラスへ行けという。
「地図を渡しておこう。共を連れて行ってもいい。ではな」
私に地図を手渡し、あっさりとフカミは部屋を出て行った。手元の地図を確認し、おおよその旅程を考えた。王都と往復すれば、半年はかかりそうだ。それも滞在する時間を度外視してだ。
年齢的にも長い旅をするのは、今をおいてない、とも言えた。
私の中で、ゼロと、神の一角が、天秤にかけられた。
結局、私は、神の一角を選んだ。そこに出向けるのは、私だけだからだ。
共を連れて行くことは考えなかったが、王都でたまたまサリーと再会した。彼女は頻繁に王都に薬を売りに来ると言っていた。
「体はどうかな」
私が尋ねると、それを真っ先に聞いてくださいよ、と笑ってから、
「もう慣れていますから、大丈夫ですよ」
と、返事があった。
「アンギラスへ行く用事があるが、どうだろう、来るか?」
反射的に彼女を誘っていた。彼女ならちょっとした護衛になるし、彼女自身としてもアンギラスへ合法的に入国し、そこで薬草などを調べられる、という利があるはずだ。
彼女は不審げな顔をしてから、腕を組んだ。
「何かありそうですけど、厄介ごとではないんですね?」
厄介ごと、とは、つまり、キメラ関係ということだ。
彼女が第三生物研究室にいた時間は、本当に短いものだった。彼女はある夜、真っ青な顔をして、「もう出来ません」とつぶやいて、泣き出した。
彼女はその夜で、研究室を抜けた。
フカミなどがサリーの口を封じようとするのでは、と思ったが、フカミはそうはしなかった。あるいはサリーにはまだ利用価値がある、という判断かもしれない。
それなら、ここでサリーをアンギラスへ連れ出し、そこに置いてくれば、彼女は当面、安全になる。
「厄介ごとを背負うのは、私だけだ。君は付き添いだよ」
考えさせてください、と彼女は答えを先延ばしにした。旅籠の場所は教えてもらえた。
それから一週間後、私とサリーは並んで王都を出た。季節は春で、気持ちのいい日だった。
旅は順調に進み、三ヶ月経つ前にアンギラスへ合法的に入国した。国境地帯は想像よりも殺気立っていない。
「いつもこんなものですよ」
サリーがあっさりとそう評価した。
どうやら彼女は何度かアンギラスに密入国しているらしい。シュタイナ王国とアンギラスの国境地帯は山間で、植物も様々なものが生えている。それを手に入れるためのようだ。
アンギラスの山岳地帯をひたすら進み、平地に下りていく。
野宿を重ねていたが、ある夜、私が足を滑らせ、足首を挫いた。
「医者が怪我をするとは、やってられん」
思わずぼやきつつ、応急処置をして、先へ進んだ。サリーの薬も役立った。
だが、どういうわけか、私は熱を出し、ある夜を境に意識が曖昧になった。
サリーが私を背負っている、とぼんやりと思い、次の瞬間には、私は粗末な部屋に寝かされていた。
「起きたか」
声のほうを見ると、老人が座って食事の用意をしていた。
こちらを向いた瞳は、どこか、違和感がある。変な光り方をしている、妙な瞳だった。
「友人は薬草を取りに行っている」
老人はそう言って、こちらに背を向け、黙り込んだ。
そのうちにサリーが戻ってきて、私が二日ほど意識不明だったと教えてくれた。だいぶ心配したようだが、それを押し隠している。
「あのご老人は?」
尋ねると、サリーが小声で答える。
「たまたま、泊めてもらっただけです」
老人が食事を出してくれて、私たちもそれを受け取った。老人はひたすら寡黙で、じっとどこかを見て動かない時間が多い。
夜になり、朝になる。
私たちは老人に金を渡してそこを去ろうとした。
「頼みがある」
老人が急に言ったので、驚いて、「なんですか?」と即座に言葉にしていた。
「またこの国に来る時には、ここへ来てくれ。それが、必要なことなのだ」
訳のわからない言葉だった。
「私がまたここに来ることは、ないかと思います」
正直に答えると、老人がニヤッと笑った。
「私には見える」
実に奇妙な老人だった。何が見えるのかは知らないが、言葉には確信の色があった。
「良いでしょう、では、訪ねさせていただきます」
「助かる」
「こちらこそ、ありがとうございました」
そうして私たちは別れた。
山の中を進み、地図にあった場所にたどり着く。
小さな洞穴だった。
「君はここで待っていれば良い」
「帰ってこなければ、私は先に逃げますからね」
心にもないことを言うサリーに笑みを見せて、私は洞窟に入った。
結果は、空振りだった。
奥まで進むと、広い空間があった。天井がないのは、そこにあるはずの岩盤が崩落したからだ。光が差し込み、洞窟の中を抜けてきたとは思えない。だが、誰も、何もいない。生命の痕跡もない。
ゴツゴツとした一面の岩を見てから、私は声を出す気にもなれず、元来た道を引き返した。
サリーがいない、と思うと、どこからか彼女が戻ってくる。短い時間でも薬草を探したいようだった。
「もう用事は済んだのですか?」
「いや、どうだろう……」
私は答えに窮して、もう一度、背後を見た。
洞窟には何もいない。これは、ただ、踊らされただけだったか。
「戻るとしよう」
「どこへです?」
「王都だ」
サリーが頷いて、少し表情を変えた。
「私はここに残ってもいいんですよね?」
「そういう約束だ、気にすることはないが、大丈夫か?」
サリーがこれからどうやって生きていくのか、私が案じても仕方ないのに、思わずそういうことを考えてしまう。これもまた、情か。
さっぱりとサリーは笑みを見せた。
「生きようと思えば、どこでも生きられます」
「力強いな。では、ここで別れるとしよう」
「今まで、ありがとうございました」
深く頭を下げたサリーの肩を叩くのが、私にできる最後の優しさだった。
一人で山の中を戻っていく。例の老人の小屋がある方を見たが、もちろん、見ることはできない。木に遮られ、起伏に遮られている。
私は秋になる王都に一人で帰還し、そこで、私がいない間に起こったことを、初めて知った。
恐怖の研究は、新しい形を見せはじめていた。
(第2.75話 了)