1-11 大脱出
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「いったい、こんなところで何をしている?」
「運動だよ。技は磨かないとね。あの道場は手応えがなかったけど」
剣聖の相手をされたんじゃ、困るだろう。
村の中にある宿屋の俺の部屋で、二人でお茶を飲んでいた。
なんとも妙である。
「剣聖っていうのはこんなに自由なのか?」
「まさか。毎日、予定があって、剣を振らない日もあるくらいよ。事務仕事もあるし、各地を回って候補生を探したり、シュタイナ王国軍の視察もある。忙しいったらありゃしない」
その割には、今は余裕である。
服も私服で、剣さえも平凡なものだ。
「まあ、それももう終わったけどね」
「終わった? 何が?」
「剣聖としての生活がよ」
訳がわからなかった。
「どういうことか、説明してもらわないと、わからないんだけど」
「だから、剣聖を辞めたのよ」
……えっと。
……えーっと……。
「そんなに簡単だったかな。確か、剣聖になるには、前任者と決闘をして、勝たないとダメで、逆に剣聖は誰かに負けたら、死と同時にそれでやっと地位を譲れるはずだったような」
「その通りよ」
「決闘で勝つ、というのは相手を殺すことで、地位を返上するということは、死んでしまう、ということだったはずだね?」
「その通り」
やっと分かってきたぞ。
「脱走したのか?」
「悪い言い方をするとね」
「良い言い方をすると、どうなる?」
「一人の人間に戻った」
それはまた、綺麗な言葉だな。
飾りすぎな気もするけど。
「追っ手がかかるはずだけど、どうするの?」
「剣聖に勝てる追っ手なんて、そういないって。なで斬りにして、送り返してやるわ」
それはまた、剛毅なことで……。
「私の話は良いのよ。あなたに関しての、重大な話がある、っていうのも理由の一つなの」
「俺に関して? 何?」
モエが身を乗り出す。
「私、実は、金の力で剣聖候補生になったの」
「金の力?」
「そうよ。タツヤの家が、剣聖たちを買収したんだよ」
今日は訳のわからない話題が続く日だな。
「でもなんで、モエを? タツヤを剣聖候補生にすればいいじゃないか」
「あの間抜けに剣聖候補生が務まると思う?」
「……ごもっとも」
頷いたモエが心なしか、声をひそめた。
「本当はあなたが剣聖候補生になるはずだったのよ、ミチヲ」
……僕が剣聖候補生?
「それを知ったタツヤの家の連中が、妨害工作に動いたの。で、剣聖が二番目に筋が良さそうだと判定した私が、剣聖候補生になった。あの背広の男が、決定権を持っていてね」
背広の男は、もう僕の中ではほとんど記憶から消えていた。
「俺が剣聖候補生かぁ」
それ以外、何も言えなかった。
もう長すぎる時間が過ぎている。
「ミチヲがあれからどう生きてきたか知らないけど、私の突きを打ち払うくらいだから、その技量は抜群よ。自信を持っていい」
「あれは手加減したんじゃないの?」
「まさか。あれが、雷の剣聖、とも言われる私の技の一つ、雷光の突き、よ。歴とした、剣聖剣技。あなたはそれを破ったの」
いやはや、とんでもないことになってきた。
「俺はこのまま傭兵をやるよ、自分に合っているしね」
「一緒に旅をしない? ミチヲ」
「いきなりだね。まぁ、ここのところ、いきなりがすごく多い日々ではあるけど」
旅、か。
「一ヶ月は付き合えると思う。でも、安全に旅ができるの?」
「もちろん」
嫌な予感しかしない。
それから俺たちは打ち合わせをして、モエは自分の用意した宿へ帰って行った。
翌朝、二人で村のはずれで待ち合わせて、俺たちの旅は始まった。
始まったはずだった。
街道とも言えない、畑の中の道で、前方に悪目立ちする黒いローブの男三人が、立ちはだかった。
悪い予感が現実になった。
「あれは」
まるで友達でも紹介するように、モエが言う。
「剣聖評議会直属の、査問部隊よ」
「査問部隊? 聞いたことがないな」
「剣聖による反乱を防ぐために、剣聖の行動を見張ったり、あるいは処分する部隊」
剣聖を処分だって?
「剣聖を殺すのか?」
「秘密裏にね。まぁ、シュタイナ王国の闇の中のそのまた闇ね」
おいおい、本気かよ。
「最優秀の騎士から選抜される部隊だから、油断しないでね」
ローブの三人が剣を引き抜く。
なんでこうなっちゃうんだろう?
俺は仕方なく自分の剣を抜いた。モエも剣を抜いている。
ど田舎の田んぼの中の道で、いきなり、死闘は始まった。
脱走した剣聖の情報はシュタイナ王国の隅々まで伝えられ、賞金さえもかけられた。
雷の剣聖、と呼ばれたその女性は、二度と歴史の表舞台に戻ってくることはなかった。
どこそこでそんな女を見た、という情報は無数にあったが、どれも確度は低く、追跡も行われているのか、曖昧なほどだ。
所在や容姿に関する噂が流れるのと同時に、別の噂も流れ始めた。
それは、雷の剣聖が、不正な行為によって剣聖の地位に就いた、というものだった。
これにはシュタイナ王国の軍の首脳部が声明を発し、国王さえもが言及する、異常事態にまで発展した。
それでも国民の間ではこの噂が完全に払拭されることはなかった。
いつの頃からか、もう一つ、奇妙な噂も流れた。
それは、雷の剣聖が剣聖候補生になる時に、一度は見出されながらも剣聖候補生となれなかった少年がいた、という噂。
その少年は今、青年になり、剣聖にも劣らぬ実力を持っている、というのだ。
シュタイナ王国軍にいるとか、どこかの傭兵団にいるとか、蛮族に混ざっているとか、様々なバリエーションで、この噂は広まった。
人はいつの間にか彼のことを、無の剣聖、とか、忘れられた剣聖、と呼び始めた。
(第1部 了)