2.75-6 実験の果てに
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「君がアキヒコという医者か?」
研究室はいつの間にか私を中心に動き始め、私はもう何年も第二王宮に閉じこもっていた。
その男は堂々と入ってくる。一目見れば立場はわかるし、顔も知っていた。
次席剣聖、カナタ・ハルナツ。
「そうですが、何かご用ですか?」
「助けて欲しいものがいる。ついてきてくれ」
私は席を立って、彼に続いた。歩きながらでも事情を説明してくれるかと思ったが、それはなかった。
第二王宮を出て、別の場所へ向かうらしい。
「怪我人ですか? 病人ですか?」
馬車に乗ったところで、思い切って尋ねた。
「見ればわかる」
そっけない返事だが、どこか張り詰めたものがある。
外を見ていると第三王宮へ馬車が滑り込むのがわかった。すでに夕日が差す時間帯で、堀が眩しい。
第三王宮の玄関で馬車を降り、中へ入る。近衛兵がちらほらと見える。
彼らの視線を感じつつ、私たちは地下へ向かった。
地下一階から、地下二階へ。私は初めてくる領域だ。
「治療しようにも、器具や助手が必要です」
「それはいらない」
いったい、どんな患者が待ち構えているのだ?
一つの部屋をカナタはノックもせずに開けて、中へ入っていく。私も続いた。
灯りが周囲を照らし、寝台が見えた。
若者が横になっている。知らない顔だ。
呼吸はかすかだ。肌の色はもう死人のそれである。
「私にどうしろと? すでに治療は終わり、手遅れのようですが」
変に希望を持たせたくなかった。たとえ次席剣聖でも、何かにすがりたいときがあるだろうと、勝手に解釈した。
そのカナタが、私を見た。
「そこにいる男に、キメラを植え付けてくれ」
「何ですって?」
思わず聞き返す私に、静かにカナタが繰り返した。
「キメラを植え付けてくれ」
「……人では」舌がもつれる。「人ではなくなります」
「構わない」
声とは裏腹に、カナタの心の奥が激しく揺れているのに、私は気付いた。
「とても、そうとは……」
「それ以外にこいつが生き残る道はない」
「生きているとは言えません」
キメラの研究は進んでいる。
だが、まだあの無意識状態を回避するやり方が発見されていない。
「一時的には、超人として、存在します。それを過ぎれば、人形です」
念を押すように、私はそう言っていた。言いながら、でもカナタは諦めないだろう、とも思っていた。
「やってくれ。頼む」
次席剣聖は頭を下げずに、しかし悲痛なほど語尾を震わせて、私に頼んだ。
断るべきだった。しかし、私は彼の情に負けた。
密かにこの若者を第二王宮へ移し、実験室で、最新の研究を応用したキメラの細胞を移植する。不安があるとすれば、この被験者がすでに意識不明で、その状態で、キメラの暴走を制御できるかだった。
すでにキメラを制御する人間には、強い意志が必要だと、おおよそわかっている。
今回のような意識不明の人間にキメラを埋め込むのは、ほとんど前例がない。
移植から数日が過ぎても、被験者は目を覚まさない。彼は腹部に重傷を負っており、もし彼がキメラに支配される、もしくはキメラを支配すれば、その傷は治るはずだ。
傷はなかなか、治らなかった。私は念のため、彼の腹部の傷に作用する薬を投与した。
移植から一週間。変化があった。
呼吸がはっきりとし、腹部の傷が溶けるように消えていった。
そのうちに彼は呻くようになり、汗をかき、つまり死の淵を脱したようだった。
だが彼は今度はキメラと戦わなくてはいけない。それに負ければ、彼は体を奪われ、即座に人ではなくなる。
さらに一週間、彼はその状態を耐え抜いた。
目を覚ました時、頻繁に実験室に顔を出しているカナタもいて、被験者は顔を覗き込むカナタにかすかに笑って見せた。
翌日には彼は上体を起こし、次の日には床に降りた。
実験が本格的に始まり、被験者、エダの体には何の問題もなく、しかも人間をはるかに超える運動能力を持っているとわかった。
が、どういうわけか、崩壊は早かった。
足の指の先から黒いシミが浸食する。そして意識も失われ始めた。
カナタとエダは長い時間を話し合っていたが、私や研究者は遠ざけられていたので、何も知らない。
二人の間で何かが決められたらしく、その要件はカナタから私に告げられた。
「エダの体を保存できないか?」
「保存、ですか? そのような前例はありませんが……」
「あいつを残したいのだ、どこかへ」
そこで私は、身内からも反対意見のある実験を連想していた。
「キメラの複製を目指す実験があります」
それはキメラの細胞を二つに分割し、それぞれが同じ要素を持つものになるか、という実験で、私が興味を持っている分野の一つだった。
今の段階でマウスをキメラに浸食させ、その一部を切り取り、もう一匹のマウスを作ろうとしている、というだけで、二匹目のマウスは、歪な生物にしかなっていない。
未完成も未完成、まだ完全には程遠い実験だった。
「その実験のための検体として、あの被験者の一部をいただきたい」
カナタは思案したようだが、「任せる」とだけ言った。
こうして突如、私の構想は、実際の人間を使って試す機会を得た。
被験者のキメラに飲み込まれた片足を切断した。その脚はすぐに新しいものが生えるが、シミは消えない。
一方、切断された脚はみるみる黒い液体に変わってしまうが、私はそれを容器に保存した。
即座に培養を始め、失敗を繰り返した。
被験者はみるみる弱り、それでも私は彼の体を切り取り、実験試料を手に入れた。
被験者にキメラを移植して一ヶ月後、彼は意識を完全に失い、全身をシミに侵され、もう動くこともなかった。
私はカナタにどう言い訳をすればいいか考えたが、彼は被験者を見て、私に礼を言った。
「無茶をさせた。すまなかった」
この被験者はカナタにとって、大切な人間だったんだろう。正体不明の技術を使ってでも、生き長らえさせたかった。
悲劇だが、しかし、私にそれを悲しむ権利はない。
その悲しみを、私は利用したようなものだ。
その被験者の亡骸は、地下に送られ、私は彼から手に入った試料を使って、実験を続けた。
共同で研究を続けている科学者が、ある日、声を上げた。
彼の手元の容器を見ると、黒いシミがある。
「キメラが増殖を始めたぞ! すごい速さだ!」
それから半月は怒涛だった。
半月後には、このために用意した巨大なガラスの容器の中に、溶液に沈んだ人のようなものが生まれていた。
私たちはそれをゼロと名付けた。
ゼロはやがて人のような姿になり、成人の体の大きさとなった。
容器の中で目を覚ましたゼロが、こちらを見ている。
好奇心は少しもない。ただぼんやり見ているだけだ。
ただそれでも、この生命には、意志がある。
私たちはこうして、生命を始めて、生み出したのだった。
(続く)




